第8話「僕のやりたいこと」

「面白い話ですね」と、ずっと黙って僕の話を聞いていたユキさんが口を挟んだ。僕は二十二年前のあの日から、急に現実に引き戻される。


「CCCキャピタルの階段を降りると、土佐波さんが車で迎えに来てくれてた。僕が自分の儲けだけでなく、金利まで取り返したことを聞くと、彼はふてえ奴だって笑ってたよ」

「それはそうでしょうね」と言って、ユキさんも少し笑った。


 僕は多分、あの時既に、剣乃さんに認められたくて仕方なかったのだ。そして今、ユキさんに対しても似たような気持ちを感じている。僕はもう、これが試験であることを忘れ、ただひたすらに師匠の魅力を語ることに専念している自分に気づいた。


「僕は、剣乃さんに回収してきたお金をすべて渡して、その場で弟子入りを志願した。これから先の人生で、師匠以上の大物に出会うことはないと確信していたからだ」

「そこから、師弟関係が始まったんですね」

「その通り。どうせ剣乃さんが居なければ戻ってこなかったお金だから、惜しくはなかった。そしてその判断は、結局正しかったんだ」

「というと?」

「次の日から早速、剣乃さんの管理してる借名口座のいくつかが、僕の受け持ちになった。つまり、土佐波さんがやってるようなことを、僕もやるようになった訳さ」

「なるほど」

「剣乃さんは、いくらまで攫えと命じるだけで、売買の意図を明かすことはなかった。だけど、注文を代行するだけでも、僕には非常に勉強になったよ。本物の相場師の売買タイミングを直に知れるんだ。万巻の書を読むよりも、相場の腕は上がるに決まってる」


 実際には、剣乃さんは僕の百五十万を受け取る事は無かった。いや、正確には一度受け取ったのだが、貸してやるといって全部突っ返してきたのだ。「自分の力で更に増やせ」という意味にとった僕は、その金を納めた。そして、時々剣乃さんの銘柄に提灯を付けつつ、一年もたたないうちに、その金を一千万以上に増やしたのだ。


 この時突き返された百五十万は、数年後、ちょっとした笑い話のネタになるのだけれど、それはまた別の話だ。今はただ、法外な授業料を払う羽目になったとだけ言っておこう。


「当時、兜町には、K氏と呼ばれる大物仕手筋が二人居た。一人が加藤 あきら。そして、もう一人が剣乃さんだ。個人の力を結集して相場を作った加藤さんとは違い、プロの金しか使わなかった剣乃さんは、世間的には殆ど無名だった。だけど僕は、加藤さんに勝るとも劣らない相場師だったと思ってる」

「最後のフィクサーとまで呼ばれた人間ですしね」

「うん。政界に与えた影響まで考えれば、圧倒的に剣乃さんの方が格上だよ」と、僕は答えた。


「弟子入りから半年ほどする頃には、僕名義の証券口座にも、億を超える現金が入ってた。剣乃さんから預かった自己資金の一部だ。あれほど憧れた信用口座も、師匠の名を匂わすだけで簡単に作れるようになった。ニッパチ屋に流す怪文書も、いつも僕が書いてたよ」

「貴方はそこで、煽りの才能を磨いたんですね」

「別にウソは書かなかったさ。会社発表の事実をもとに、自分だったら思わず買ってしまうような思惑を書き連ねただけだ。中野さんとは、それから大の仲良しになった。『お前の煽りを読み上げるだけで、バカが沢山釣れる』と言って、何度もタダ酒をご馳走になったよ」


 そう言って、僕は笑った。思えば僕も、学生の身分にして、どっぷり悪党の世界に浸かってた訳だ。「でも俺、女・子供は騙してないよ」というのが、当時の中野さんの口癖だった。


「剣乃さんは昔気質の人だから、細かいことをいちいち説明したりはしない。彼の意図を世間の人たちにも分かりやすく伝えるのが、弟子としての僕の仕事だったと思う。だけど剣乃さんは、少しずつだけど、自分の昔話を僕にしてくれるようになった。角栄との友情はその最たるものだ。多分、僕しか知らない面白い話が沢山ある」

「貴方は剣乃さんが、箱の力で相場師として成功したと思いますか?」


 ユキさんが突然そう尋ねた。


「思わないな。僕は実際に売買を見ているし、相場作りも手伝っているからね。師匠がもし箱の力を使っていたとするなら、それはフィクサーとしてだろう。何しろ、自民党を下野に追い込んだ張本人と言っても過言じゃない人物だからね」


 あの日の中野さんの言葉は真実であったことを、僕はずいぶん後になってから知ることになる。その頃の僕は、兜町で『剣乃の忠犬いぬ』と揶揄されるほどの側近になっていた。


「師匠は相場の世界だけでなく、政界にも多大な影響力を持っていた。でも、その事実は誰も知らない。僕が語らなきゃ、彼は単なる悪党の一人として、古い相場師の記憶ともに消えるだろう。僕はそれだけは我慢ならないんだ」

「どうやら、結論がみえて来たようですね」と言って、ユキさんは少しだけ笑った。


「だからもし、僕が箱の所有者となって、何か力を持つことが出来るのだとしたら、僕は僕の大切な人たちの存在を世に知らしめることに、その力を使いたいと思う。良い部分も悪い部分も含めて、それを出来るのは僕だけだからね」

「わかりました。今のその気持ちを、絶対に忘れないでくださいね」


 電話口の向こうで、ユキさんが微かにほほ笑んだように僕は感じた。おそらくは、審査に合格したのだろう。僕の人生において、重要な転機があったとすれば、その一度目は、剣乃 征大ゆきひろという偉大な相場師に師事出来たことであり、二度目が、この箱を手に入れたことだといえる。確かにこの箱は、僕の人生を変える箱だった。


「箱は明日にでも届けさせましょう。貴方の人生は、今この瞬間から変わり始めます。箱は必ず、貴方の力になるはずです。貴方と直接話すのは今日が初めてでしたが、とても楽しい時間でした」

「それは、僕も同じです。ありがとう」


 そういえば、師匠との馴れ初めを誰かに話したのは、これが初めてだったなと僕は思った。


「ところで私は、貴方の事をよく知っています。貴方が箱の力を正しく使うなら、いつかお目にかかることもあるかもしれませんね」

「えっ?」


 その言葉は、僕を驚愕させるに十分だった。


「他にご質問がなければ、これで……」

「あっ、いや待ってください」


 聞きたいことはいくらでもある。

 何故、ユキさんは僕を新たな所有者として選んだのか?

 僕のことをよく知っているとは、どういうことか?

 

 だがそんなことを尋ねても、きっと彼女は答えてくれないだろう。彼女が僕の事をよく知っているように、僕も彼女の性格をよく知っている。確信に近い思いが、僕にはあった。まったく合理的ではないが、その時は確かにそう思ったのだ。


「師匠の死後、箱は一度、誰かに受け継がれたんじゃないですか?」


 とりあえず、僕はそう尋ねた。今ここで尋ねても不自然でなく、答えを貰えそうな問いは、これしか思いつかなかった。


「剣乃さんの次の所有者について知りたい、という事でしょうか?」

「うん。師匠が亡くなったのは、もう二十年近くも前の話だ。その間ずっと、所有者が不在なのは不自然なことだと思う」


 僕にとっては、師匠の遺品であることがなによりも大事で、次の所有者にそれほど興味がある訳ではない。だが今は、この電話を切らせないことが何よりも重要だと思った。


「ご推察の通り、箱の最後の所有者は、剣乃 征大氏ではありません。箱は一度、剣乃氏の近しい人物に受け継がれました」

「やっぱりそうか……」

「その人物も数年前に亡くなり、箱は我々の手に戻ってきていますが、所有者の姓名については、関係者が存命のうちはお話しできないことになっています。もし貴方が剣乃氏の弟子でなければ、征大さんの名前を明かすこともなかったでしょう」

「そうか。残念だけど、仕方ないね」

「ご理解いただければと思います。箱の力で人生を狂わされた人間は、所有者だけとは限りませんので」と、彼女は少しだけ物憂げに答えた。


 冷静に考えれば当然だ。箱の所有者には必ず悲劇が訪れるとはいえ、その前には輝かしい時代がある。その陰で涙を飲んだ人間だって、きっと大勢いたはずだ。その事実を知れば、凶行に走る人間だっているかもしれない。


「しかし貴方は、既に善意の第三者ではありません。あの箱の宿命を知る現時点での箱の所有者です。剣乃さんの次に箱を受け継いだのは、貴方も良く知る『ある人物』でした。それだけはお伝えしておきます」


 そういって、ユキさんは電話を切った。


 僕の良く知る人物で、存命でない人物とは一体誰だろう? 心当たりが多すぎて、直ぐには絞り込めなかった。この世界は、変死や行方不明者があまりにも多い。それに、今のユキさんの話には、腑に落ちない部分が沢山あった。


 箱を託すなら、最晩年の師匠に付き従い、その死を看取った僕でも決しておかしくはなかったはずだ。堅気の僕を、闇社会の人間から切り離したいと師匠が考えていた事を割り引いても、そんな大事な品を僕以外の人間に託したとは考えにくい。


 だが、僕の方からユキさんに連絡を取る手段がない以上、この件についてはいくら考えても無駄なように思えた。


(続く)

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