金桐凪の夜

第一夜 目覚め

微睡むように、帰路についていた。


憶えていたのは、絶望だけ。



見慣れた景色から見慣れた景色へ。そんな日常の帰途が、そうはならなかった。

地下鉄の駅。少し歩いて乗り換えるだけの場所。

ホームから階段を下りて、地下通路を通って、別のホームへ。たったそれだけの移動の筈だった。でも、その日は違った。


俯いていて、最初は分からなかった。

次のホームへの階段が、妙に遠い。

それを感じて初めて、顔を上げた。


階段は無く、そこにはいつもは無かった、曲がり角があるだけだった。


「え……?」


辺りは薄暗く、いつもなら多くはないにしてもまばらにいる筈の通行人はいない。

帰途の時間ならもう通路を照らしている筈の照明。それは確かに点いていたけれど、酷く弱々しく見えた。

振り向いても、そこに降りた筈の階段は無く、照明すら点いていない。


「どう、なって……」


そこには騒がしかった筈の喧騒も、構内放送も、足音も無く。私は耳を澄ませて、恐る恐る歩いた。

曲がり角の先を見た。


何故か通路の先を塞ぐようにして、わらが積まれていた。


私の背より少し低いくらいの高さに積まれた、大量の藁。

そしてその上に、学ランを着た男性が、座って本を読んでいた。

私とそう変わらないくらいの年齢をした顔立ち。眼鏡をかけて、短く切り揃えられた黒髪のその男の人は、ただ黙々と片手に広げた本に視線を注いでいる。


私は、震える足を懸命に動かした。


「あ……あの……」


通路の中に、反響する自分の声すら怖い。学ラン姿の男の人は、本から目を上げて私を見た。


「珍しい」

「え?」

「君、学生か」

「あ、はい、そう、です……けど」


言い方からして、彼は学生ではないのだろうか。学ラン着てるのに。頭の隅でそう思う。

そして私を学生だと思ったのも、私が高校の制服を着てるからなんだろうなと、頭の隅でそんな思考が継続された。

男の人は、本を閉じると視線を頭上へと移す。その様子を、私は緊張と共に見守るしかなかった。


「古臭いが、しきたりだからしょうがないか」


まるで自分に言い聞かせるように、視線を泳がせながらそう呟くと、彼は再び私に視線を向けて、こう呼びかけた。


「帳は落ちた。ようこそ、夜界へ」


「淵の者よ、歓迎する」



それが私の運命を変える言葉だなんて、知る由も無かった。この時は、まだ。


けれど、もうこの時には全て手遅れで、ただ私は、それを忘れてしまっただけだったのだ。



「あの……やかい……って」

「……まぁ、そうなるよな。意味分からないしきたりだ」


厭そうに頭を掻いて、学ランの男は言った。

まだ状況を呑み込めてない私に、彼は周囲へと視線を走らせる。私を誘導するかのように。


「僕の後ろを行くなり、来た道を戻るなり好きにしろ。自分がどんな状況に置かれてるか、分かるまで」


そこまで言うと、彼は再び手元の本を開いた。

そうしてずっと、黙りこくるのだった。


私は戸惑ったまま、恐る恐る後ずさる。

何が何だか分からず、とりあえず彼の横を通るには藁を踏みつけなきゃならず、それは気が引けたのだ。

だから意を決して、振り向いた。


私の背後から先の通路は、照明が消えていた。真っ暗な廊下が、その先へと続いている。


家に帰らなきゃ。その一心で、私は走り出していた。


しばらく走っても、暗い廊下は途切れない。ずっと続く。

何でこうなったんだっけ。自然と走りながら、私は自分の記憶を懸命に思い出そうとした。


いつものように、授業を受けていた。

それから、もう下校の時刻になった。私は部活に入ってないから、家に帰る途中だった筈。


それと――私は絶望していた。


何でだったっけ。それがどうしても思い出せず、頭の中でグルグルと思考が回る。


やがて、暗い廊下の先に照明が見えてきた。

照明の先には曲がり角があって、明かりはその先にも続いている。

やっと辿り着いた私は、肩で息をしながら角を曲がった。


「……え?」


「なん……で……」


曲がった先には、藁の山がうず高く積まれていて。

さっきと同じ学ランの男が、その上に座って本を読んでいた。


「理解したか?」


訳が分からない。行っても戻っても、同じ光景に出くわす。

今言われた言葉からして、男はさっき会ったのと同じ男みたいだ。

さっきの角と、今曲がった角。それ以外に曲がり角は無く、廊下も歪曲してなどいなかった筈。なのに、何故か私は同じ場所を回ってきてしまったらしい。


「あの、私……どうしてここに」


彼は本を閉じると、立ち上がった。

戸惑う私をしばらく見つめて、両手を前に掲げると、指を組んで四角を作り、そこから片目で私を見つめた。


「年齢は15、もう何ヵ月かで16になる筈だった」

「……えっ?」

「長い茶髪。同年代と比較して身長は少し高い。痩せ型。学生服に汚れやシミ一つない。君は真面目な学生だった。違うか?」

「なっ……何なんです……?」


四角を作った手を下ろすと、今度は両目で私を見つめる。

そうして、あっさりと、俄かには信じられない事を言い放つのだった。


「ここは夜界。現世と死者の国、その中間の世界だ」

「……何を、言って」

「ここは大多数の通行人たる死者と、少数の住人と、睡眠中に肉体を離れた魂が来る場所だが」


私の言葉を無視して話を続けるので、黙るしかなくなってしまう。

しかし、そんな私でも無視できない言葉が、彼の口から紡がれた。


「見た限り、君は前者だな」

「前者……って……」

「あぁ」


「君は死んでる」


今言われた言葉が、突き飛ばしたように私の身体を通り過ぎる。

何か言葉を言おうとしたけど、言った途端に彼の言葉が事実になりそうで、何も言えなかった。

そして、彼は尚も私を突き落とすような言葉を、私に放ってくるのだった。


「殺されたな、君」


「それも、深く恨まれて」


ここで気絶できてたら、どんなに幸福だったろう。



何も言えなかった。彼の宣告した事実に。

私は人並みに日常を過ごしてきた筈だ。母子家庭だったけど別に虐待とかされた記憶は無い。勉強も自分なりに頑張ったし、クラスで下の方だった記憶も無い。人間関係だって上手くやってきたつもりだ。いじめとかも無――


ズキリと痛んだ。頭かと思ったけど、胸の痛みだった。


「思い当たったようだな」


私の表情から察したのだろう。学ランの男は頷きながらそう紡ぐ。


「丁度、今日は収穫の日だった。ついでに君の死の原因、暴いてあげてもいい」

「暴く……?」

「ただし、後回しになる。それでもよければ、この手を取れ」


そう言うと、彼は私に手を差し出した。

突拍子もないことを言われて、私はすぐに手を差し出せなかった。

代わりに、頭に浮かんだ疑問が口をついて出る。


「あの……手を取らなかったら、どうなるんですか」

「どうにも。自分の事情も分からないまま、君は死者の国へ行く」


まだ混乱する頭の中で、彼の言葉を必死に咀嚼する。

私はもう死んでいて、このままだと死者の国という所に行くのだという。私は誰かに殺されたらしくて、でも私には心当たりがない。

未だ答えが出せない私に、続けて彼は言った。


「ダスク」

「え?」

「僕の名前。ダスクと呼べ。君の名前は?」


英語で夕方という意味だった気がする。

名乗ってくれた以上、私も名乗るのが礼儀だろう。頭の隅で、また今の状況とは関係の無い思考がそう囁いた。


金桐凪かなぎり なぎ……です」


言いながら、私は自然とダスクと名乗った男の手を取っていた。


「よろしく、ナギ」


不意に、足元に藁の感触がした。

目線を下に向けると、藁が蠢いていた。


「ひっ……!!」

「焦るな。君を連れてくには、これが手っ取り早い」


私の手を握った彼の手が、その場に倒れそうになる私を支える。藁はまるで意志を持つかのように、私の足元を覆っていた。まるで掴まれたかのように、私の足は動かない。

動揺する私とは対照的に、ダスクは平然とした態度のまま、自身の背後に視線を向ける。つられて私もその方向を見た。


巨大な白い紙。それが藁の中から立ち上がるように、出てきた。


紙には黒い墨で模様のようなものが書かれている。昔、テレビでこんな紙を顔に着けた人を見たことがあったような気がした。


だから分かった。これは、巨大な何かの顔だと。


そして、私の足が動かないのは、この藁が巨大な何かの手なのだ。



気が付くと、夜空を見上げていた。

私はその場に座り込んでしまっていて、ダスクは私から離れて、眼下の町を見ている。

周りを見回して、やっと自分の状況を理解した。


私達は、巨大な紙で顔を覆った、藁でできた身体を持つ、巨大な何かの手の上に居た。


その身体は大きく、眼下に見える町の光景から考えて、10階建てくらいのビルの上にいるような感じだろう。つまるところ私を乗せた巨大な何かは、それくらいの大きさだった。


「藁、人形……?」

「昔、神と呼ばれ、崇められたものだ」


ダスクは町を眺めたまま、そう語る。私は彼と、頭上に見える紙の顔を交互に眺めることしかできなかった。


「人から忘れ去られ、消えようとしているところを、僕が拾った」


そう語り、ダスクは私の方へと視線を向ける。


「これから収穫に行く」


それがどういう意味なのか、分からないまま藁人形が動き出し、私はその手の上に乗せられて、夜空の中を進んで行った。

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