第3夜:黄昏

西日が窓から差し込んでいる。

流石にその日差しが気になってきたので、ブラインドの角度を変えた。

そうして、机の向かいにいる有明さんを見つめる。

困った。何から聞けばいいのか分からない。いや疑問はいっぱいあるのだが、有り過ぎる。

そう思っていると、彼女の方から口を開いた。

「夜界のことについては、もう知ってるよね」

俺は頷く。ある程度は教えてもらった。ナハトに。

「有明さんは、その…ナハトさんと敵対してるの?」

「そうだね…正確には、私が契約してる相手が、かな」

契約してる相手というのは、あのホログのことだろう。昨日の会話からして、ナハトの持っているものが欲しいということか。

そこまで考えて、疑問を挟んだ。

「あの、契約って…?」

そういえば、昨日ナハトが仮面を着けた有明さんを見た時に、何か言っていた気がする。

有明さんは少し考えている様子だったが、やがて話しだした。

「うん、私は、夜界にいる存在と契約してるの。だから『肉体の枷』を外して、夜界で自由に動ける」

「…枷?」

有明さんは頷いた。

「昨日の東君も、魂だけの状態だったよね?」

俺は頷いた。ナハトに魂だけ呼び出されたのが昨夜のことだ。

ナハトは、魂と肉体は離れていても繋がっていると言っていた。

「本来、魂だけの状態って、もっと自由に動けるんだよ。でも、肉体がある時と同じように考えちゃうから、その時と同じような動きしかできないんだ」

「それが、枷?」

少し嬉しそうに有明さんは頷く。

「私と契約した相手が言うには…それを外すためには、魂だけの状態で何度も夜界で過ごす必要があるんだって。それこそ何年も」

「…まるで練習とか訓練とかみたいだ」

「そう、そんな感じ。だけど、夜界にいる存在と契約すれば、そんなことをしなくて済むんだってさ」

「…なるほど」

感心するように俺は言った。夜界にいる存在、つまりナハトやホログみたいな存在と契約するということか。

その説明自体は分かったのだが、話の全容はまだ全然掴めない。

俺はもう少し尋ねてみることにした。


「あのさ、有明さんは、どういう理由で夜界に?」

「…」

俺の問いに、彼女の表情が少し翳る。まずいことでも聞いたのだろうか。

「その前に聞いていい?」

逆に彼女の方から、俺に問われる。俺は無言で頷いた。

「東君がナハトに協力してるのは、やっぱりあの猫のため?」

「そりゃそうだよ。元はと言えば…」

そこで俺はハッとした。

元はと言えば、俺が猫の話をした時に有明さんから『都市伝説』を聞き、それを試したら夜界に迷い込み、ナハトと出会ったのだ。

俺は、思わず聞いてしまった。

「あの時から、俺を利用するつもりだったの…!?」

「うん。ごめん」

あっさり肯定と、謝罪をされたので、俺は言うべき言葉を失ってしまっていた。


どうも、有明さんの言動は予想外なことが多く、調子がずれる感がある。

彼女は同じクラスで、今まで話したことだって数回はあった筈なのに、何にも知らなかったんだな。そんなことを俺は思っていた。

元々事態に混乱しっぱなしで怒るより困惑の方が大きかったのだが、こうしてあっさり謝罪されたことで、どうリアクションすればいいのかも分からなくなってくる。

一先ず俺は、仕切り直すことにした。

「とりあえず俺は、ソラを…うちの猫を助けたい。それでナハトさんに探すのを頼んだんだ。でも、それを君とホログが…」

「あぁ、それなら大丈夫」

また急に予想外の言葉を言われたので、俺は言葉が出なくなる。

代わりに引き取った有明さんは、あっさりと言った。

「目的のモノが手に入ったら、君の猫は解放するって約束したから」

その言葉があまりにもあっさりと紡がれたので、俺は呆然としていた。

「本当に…?」

「信用できないのも無理ないよね。でも、私は東君の猫を元通りにすることを条件に、東君を巻き込んだの。だから、彼にはそこを守ってもらう」

ソラを、あのホログという奴がそんな簡単に解放するのだろうか。

そもそも、何で俺とソラは、この件に巻き込まれているんだ。そんな疑問が、自然と口をついて出ていた。

「何で、ソラが?」

しばし俺の呟きの意味を理解するのに時間がかかったのだろう。やがて有明さんは、やや俯いて言った。

「うん、東君の猫を巻き込んだのは、正直申し訳ないと思ってる。ただ、彼がナハトから欲しいものを手に入れるためには、戦力が必要なんだって」

「それは、つまり…」

俺の言葉に、有明さんは力無く頷いた。

「たまたま見つかったのが東君の猫の魂で、それが彼の手に渡った。戦力になるなら、東君の猫じゃなくてもよかったみたい」

「そんな…」

俺はもう、そう言うことしかできなくなっていた。



ブラインドの隙間から、いつのまにか日が差さなくなっている。

外は暗くなっていた。

有明さんはそれを一瞥すると、立ち上がる。

「いつのまにか遅くなっちゃったね。もう帰るよ」

「有明さん」

俺は、呼び止めざるを得なかった。

まだ色々と疑問はあるのだが、せめて一つ聞きたいことがあったからだ。

「有明さんは、何でホログに協力してるの?」

有明さんは少しの間俺を見つめると、再び椅子に腰を下ろしていた。

「…どこから、話そうかな」

一瞬顔をしかめて、有明さんは言葉を紡ぎ始めた。

「もう1年半近く前にね。母が倒れたの」

その話に、俺は息を呑んだ。予想していたより重い話になりそうだったからだ。

有明さんは話を続ける。

「脳腫瘍だった。手術は無理って言われたけど、方々に医者を探したの。それで、やっと手術ができる医者を見つけて、手術してもらった。かなりお金がかかったんだけどね」

最後の方は自嘲するように付け加える。一泊を置き、彼女は続けた。

「それで、完治したと思ってた。けど、半年前に腫瘍が再発して」

そう語る彼女の表情が、翳っていく。先程一瞬見せたのと同じ、暗い表情だった。

俺はどう言葉をかければいいか分からなくなってくる。その間にも、更に話は続いた。

「前に手術してもらった先生がまた診てくれたんだけど、駄目だって。手術で取り出せない場所に腫瘍が転移してたってさ」

そこまで話すと、彼女が深くため息をつく。その姿は、俺には酷く辛そうに見えた。

「それで、余命は半年って言われた。それが5か月前の話」

「5か月前って…それじゃ」

俺の言葉に、彼女は頷く。

「余命って言っても、人の命はスケジュール通りにならないから。もう、今日か明日にまた倒れても…おかしく、ない」

俺が愕然としていると、彼女は言葉を継いだ。

「私と契約した相手は、協力してくれれば母を治してあげるって約束した。私には、選択の余地は無かったよ」

困惑する。ホログには、脳腫瘍を治すこともできるのか、本当に?

そう思っていると、彼女はそんな俺の表情から考えを読み取ったようだった。

「治せるなんて保証はどこにもない。そう思うでしょ?」

「それは…」

「でもね…その人に協力してから、確かに母は調子が良くなった。医者にも驚かれるくらい。それだけは…確かなの」

そう語る彼女に、何を言えばいいのか分からない。

俺は、どう考えればいいか分からなくなっていた。


普段クラスメートと話している有明さんは、明るくて活発で、とても親がそんなことになってるなんて思わなかった。

言われてみれば、何度か先生に呼び出されて早退している事があったが、そんな理由だったなんて。

こうして直接話してみて、何だか独特な雰囲気を持っていると気づいたが、それでもその心の奥底に、そんな悩みがあったとは思いもしなかった。

「それじゃ、今度こそ帰るね」

そう言って、彼女は再び立ち上がる。俺は、彼女にどう言葉をかければいいのか分からない。

そのうちに、彼女は歩き出した。図書室の出口へ向けて。

けれど一度立ち止まり、俺に背中を向けたまま、言葉を紡ぐ。

「東君…巻き込んでおいて、勝手なことを言ってるのは分かってる。本当に、ごめん」


「でも、もう手を引いて。でないと、きっとホログは…あなたを殺す」


「私は…誰にも、死んでほしく、ない」


そう言い残し、彼女は図書室を出て行った。

俺はしばらくその場に、根が生えたように座っているしかなかった。



「…ただいま」

「おかえりー、今日は遅かったわねぇ」

帰宅すると、お袋がそう言って出迎える。

「今日も父さん残業で遅くなるって。もうすぐ夕飯できるからねー」

「うん」

靴があるから妹ももう帰っている。

お袋の方は夕食の支度のために、キッチンに戻っていった。

「…何か手伝う?」

「あら、珍しいわね。もうすぐできるから大丈夫よ」


夕食を取り、風呂に入る。

昔から風呂に入ると、特に色々考えが渦巻いてしまうのが癖だった。

今夜もそうだ。風呂に入ったまま、有明さんの話を考えずにはいられない。


脳裏に、暗い表情で母親のことを話す有明さんの顔が浮かぶ。

思えば、自分は恵まれた境遇なんだな。帰宅してお袋と日常的な会話のやりとりをして、改めて思い知っていた。

そんな俺に、彼女の気持ちが分かるだろうか。


もし、親父やお袋や妹の命が危機に晒されたとして、俺も彼女のような覚悟ができるだろうか。


どれだけ自分に当て嵌めようとしても、想像ができなかった。


俺はどうすればいい?


どれほど考えても、困ったことに答えが出ない。


有明さんの事情は理解できる。それに、ソラを返すと言ってる。じゃあ、彼女の言う通り、俺はこれ以上関わらない方がいいのだろうか。

しかし、それじゃナハトを見捨てることになる。あの人だって、俺の頼みを聞いてくれた。まだ二夜の付き合いしかないが、それでも見捨てられるほど俺は薄情じゃないつもりだ。


そこまで考えて、そういえば今、彼女は無事なんだろうかという考えに俺は今更辿り着いた。


「夜界が…消える…?」

よくよく思い返してみれば、俺が目覚める前に、ナハトは蝶を通して俺に『もうすぐ夜界は消える』と言っていた。

つまり、夜界は消えたのか?しかし、俺より事情を知っている筈の有明さんは、まだ夜界もナハトもホログも、消えていない前提で話をしていた。

朝が来たから夜界が消えた?だとすると、夜になればまた夜界が現れるのだろうか。

考えても、今の俺には情報が足りないのだと思った。ゲームをやる気にもならず、ベッドに横になる。

ナハトが無事なら、また俺の魂を呼び出すだろう。無事でなければ、俺が目覚めるのは朝になる。

何だか、目覚めた時に朝になっていたら絶望しそうな気がした。

朝日をこんなに恐れる日が来るなんて、初めてだった。



「帳は落ちた。ようこ」

「ナハトさん!!」

声が聞こえて、まだ視界がクリアになる前に俺はそう叫んでいた。


俺が急に声を上げたので、ナハトは少し目を丸くしている。

「あー…心配かけた?」

「勿論ですよ…!」

周囲を見回せば、昨夜に呼び出された時と同じカフェの店内だった。

淡い照明も、椅子やテーブルも変わりない。カウンターの奥にはハプリーさんの姿も見える。

テーブルを挟んで向かい側に座るナハトに、俺は勢い込んで尋ねた。

「あれから、どうなったんです?そもそも、あの時何が起こったんです?」

「まだ説明してなかったな、夜界の構造を」

夜界の構造とはどういうことだろう。何だか専門的な説明の話になりそうだ。

「夜界というのは、君の世界と隣り合う、位相のずれた世界だ。それが存在する。それが夜界だ」

「…一夜だけ?」

「そう」

言いながら、彼女はキセルから煙を吸う。そして吐き出すと、言った。


「太陽が沈んだ瞬間…その時に創造され、太陽が出た瞬間に消滅する。それが夜界なんだよ」


いきなり話のスケールが大きくなったようで、俺はあまり理解ができなかった。

そのせいでリアクションが取れないでいると、ナハトが尚も話を続ける。

「そうだな。分かりやすく言おうか。昨夜、君の猫と私が土手を破壊したが、ニュースになってたか?」

その問いかけに、俺は昼間見たニュースやクラスの友人達がそんな話をしていたか思い返す。しかし、やはりそんなニュースは見た記憶も聞いた記憶もなかった。

「いえ、そんな話どこにも…」

「当然だ。夜界での出来事は、君の世界に反映されないんだから」

彼女の言葉が一瞬理解できなかった。だが、その言葉が頭に入ってくるにつれて何となく理解でき始めた気する。

「じゃ…例えば、この世界で壁を壊したりとかしても、逆に俺のいる世界で窓を割ったりとかしても影響しないってことですか?」

「半分間違いだ」

ナハトの言葉に、俺は黙った。その半分の意味が、何となく分かったからだ。

「君の世界で起こった物の変化は、この夜界に反映される。だが、逆は無い」

俺のいる世界での変化だけが、夜界に影響を与える。そして夜界は夜の間しか存在しない。何となく、どういう法則でこの夜界という世界があるのか、理解できた気がした。

じゃあ、こんな場合はどうなるのだろう。

「例えばですよ?夜…つまり夜界がもう存在している時間に、現世で誰かの家が火事で全焼したりとかした場合は?」

「その場合、その当夜の夜界では変化しないな。だがその翌日の夜界では、その家は燃え落ちた家屋に変わってる」

「なるほど…」

何だか不思議な感覚だった。まるで時が止まったような世界だ。

「じゃあ、昼間の間、ナハトさんは…?」

その問いにだけは、ナハトは自嘲するような笑みと共に首を振った。


「私もまた、夜にしか存在しない」


その言葉で、やはり彼女は俺とは違う存在なのだと意識させられた。


「とにかくそういうわけだから、昨日はあのまま朝になり、夜界は消えた」

「それじゃ、ホログと、それにソラは…」

何だか返答を聞くのが怖かったが、ナハトは頷く。

「私と同じさ。朝になって姿を消し、夜になってまた現れる」

「じゃあ、今彼らはどこに?」

「そうだな、そこのドアを開けて外を見てみれば分かるだろう」

言いながら、ナハトが出入り口を指差す。

何だか嫌な予感がしたので、出入り口と彼女の顔に視線を交互させるも、ナハトは指差したまま肩を竦めるだけだった。

「…」

恐る恐る立ち上がり、ドアに近づいて開けてみる。

「あ、外には出るなよ」

そんなナハトの注意を聞きながら、外に視線を向けた。


店の前方――広場の中央に、ホログが立っていた。


勿論、仮面を被った有明さんも。


更に赤黒い巨体と化したソラも、今にも飛び掛からんばかりの体勢で、巨大な赤い両目をこちらに向けている。


それを見た瞬間にドアを閉めた。

「何で襲ってこないんです!?」

「ここが中立地帯だからだ」

未だに座ったまま、いつのまにか運ばれてきていたコーヒーを優雅に嗜みつつ、ナハトが答える。

切羽詰まった状況と目の前の光景のギャップに、俺は何だか混乱していた。

「中立地帯って…!?」

「そのままの意味さ。今は、彼らが攻撃してこない場所とでも考えておけばいい」

正直腑に落ちない説明ではあったが、自分を無理矢理納得させることにする。

それよりも、今の状況を把握する方が先決だ。

「じゃあ、彼らが諦めるまでずっとここにいるんですか?」

「そんなわけない。時間が経てば痺れを切らしてこの店を破壊しに来るだろう。僅かな猶予を持たされてるだけだ」

ではどうするつもりだろう。

それを聞く前に、俺は肝心なことが分かっていないことに気づいた。

「そもそも、あのホログって奴は、何でナハトさんを…というかナハトさんの持ってるもの?を狙ってるんですか?」

再度ナハトの向かいの席に行きながら、そう問いかける。

「それなんだが…さて、どう説明しようか」

ナハトは、何故か若干気まずそうに言った。


「以前、現世の人間はこの夜界では存在しないと言ったね」

「はい…」

肯定した俺に、ナハトは頷く。

「しかしね、私やホログは、現世の人間の『魂』だけは、その気になれば視認できる」

「魂…」

言われてみると、今の自分も魂だけの状態だ。

俺のような生者の魂を呼び出せるなら、ナハトや彼女と同じような存在らしいホログも、生者の魂を見ることができるのかもしれない。

「それが関係するんですか?」

俺の言葉にナハトは頷いた。

「昨日ホログが何と言ってたか、覚えてるか」

「確か…」

昨日と今日で色々起こり過ぎたために、思い出すのに若干時間がかかったが、やっとのことであの時のホログの言葉を思い返す。


『 我 ガ 手 に 死 ノ 力 を 』


その言葉に、俺は嫌な予感を覚えた。生者の魂を見ることができる、ということと、昨日ホログの言っていたこと。

「死の力、と…」

ナハトはゆっくりと頷く。

「その言葉の通りだよ」


「現世の人間の魂を、一方的に力のことだ」


ゾクリと、背筋が震えた。


「それって、まるで…」

やっとそれだけ言うと、その言葉にナハトは頷く。

この死者の見える世界で、生者の魂を殺すことができる。それは、まるで。

「君が想像してる通りだ」


「死神の力だよ」


「しっ、死神って…!!」

「居る」

ナハトは、真剣な顔でそう答える。

「滅多に見ることは無いが、この夜界でなら見える。人の命を刈る『死神』は、現実に存在しているのさ」

自然と、俺は生唾を飲み込んでいた。

「じゃ…ナハトさんは、その死神の力を…!?」

「あぁ。昔、とある事情でそれが手に入ってね」

どこか遠くを見るような目で、ナハトは言う。

「その情報を、ホログはどこかで知ったんだろう。それで、今回私を襲撃した」

昨日、ナハトがホログに向かって言った言葉が脳裏に蘇る。

確かに、それは所有者の意志一つで現世に多大な影響を齎す代物だ。

俺はここにきてようやく事の重要性を理解し、生唾を飲み込んだ。

「事の次第は理解できたかな」

「…はい」

ナハトは俺の表情を見ると、頷いた。


「それじゃ、これから君には選択してもらう必要がある」

「…選択、ですか」

改めて彼女は俺に視線を向ける。

「君を呼び出したのは、この状況を打破するためだ」

呆気にとられる俺を、ナハトは立ち上がって見据えた。


「これ以上、踏み込む覚悟はあるか」


急に言われたその言葉は、嫌が応にも俺に緊張を与える。

「踏み込む…って…?」

「文字通り。ここから先も私に協力するなら、彼らとぶつかることになる。そうなったら命の保証はない」

カフェの出入り口を鋭く指差して、彼女はそう言った。その様子に俺は生唾を飲み込む。

自分の命が惜しいからじゃない。それも少しはあるが、それより相手の問題だ。

夕方に話した有明さんの顔が、声が思い出される。

俺は意を決し、静かな声で言った。

「あの…聞いてくれます?」

「聞こう」

そんな俺の様子を訝しむでもなく、ナハトは落ち着いた声でそう応じてくれる。

その態度が、俺を安心させてくれた。

「昨日、あなたが『契約者』と言ってた人…今もそこの広場にいる人のことで…」



俺は洗いざらい喋った。有明さんの戦う理由まで。

口止めされてたわけじゃないとはいえ、勝手に彼女のことを話してしまうのは、駄目なことだと分かってはいた。

けれど、一度話し始めたら止まらなくなってしまったのだ。

そして目の前のナハトは、ただ黙って俺の話を最後まで聞いてくれていた。皮肉も茶化しもせず。

やっと話し終えて、その時には、目頭が熱くなっていた。

「俺…どうしたらいいのか、分からなくて」

最後にそう呟くと、ポツリとナハトは言った。


「君は優しいな」


その言葉に、俺は思わずナハトを見る。彼女は、僅かに微笑んで俺を見ていた。

「そのの提案に乗れば、猫は帰ってくる。でもそうしたくないのは、この私を裏切りたくないから。違う?」

「…いえ、そうです」

こうまでストレートに言われると、気恥ずかしくなる。

「だが、その子と戦いたくもない。そうだろ?」

「…そう、なんだと思います」

正直、若干自分で自分がよく分からなくなっていた。

でも、ナハトの言う通りだ。俺は有明さんと戦いたくないが、ナハトを見捨てたくもない。それは、風呂に入ってる時に有明さんの話を思い返して、思ったことでもある。

そんな俺を見て、ナハトは静かにため息をついた。

「その子の、何を犠牲にしてでも叶えたい願い。よく聞く話ではある」

キセルから吸った煙を吐き出し、彼女は言う。

「多分、一度助かってしまったがために…何を犠牲にしてでも助けたいと、そう思ってしまったんだろうな…」

その眼は、どこか虚空を見るような眼だった。

少し沈黙してから、彼女は俺に視線を向け、言う。

「しかし、結局の所、君が自分で決めるしかないんだ。それは分かってるな?」

「分かってます…だから今…俺、分からなくて」

「じゃ、一つ…背中を押すような情報だけ教えるよ」

「…えっ…?」

ナハトは真剣な表情で、とある事柄を俺に話した。


その話に、俺は昼間の図書室での別れ際に、有明さんが言った言葉を思い出す。

そして、俺の腹は決まっていた。

「…ありがとう、ございます」

「心は決まったか?」

彼女の問いに、俺は頷く。

すると。


「じゃ、とりあえず…君も『契約者』になろうか」


急に言われた言葉が、俺には呑み込めなかった。

「…はい!?」

「だって、どうするにしろ、相手と同じ土俵に立たないと勝負にならないだろ?」

言われてみれば、昨日見た夜界での有明さんの身体能力に、今の俺では太刀打ちできそうにない。

「つまり…ホログと有明さんみたいに、俺もナハトさんと契約できるってことですか?」

「当たり前だろう。でなけりゃこの状況で君を呼んだりしない」

そう言ってから、カップに残っていたコーヒーを飲み干し、ナハトは言う。

「今一度聞いておく。君の友人は自分の意志でホログに加担している。そして事が終われば、君の猫をホログから解放させるつもりらしい。そうなると君が関わる必然性は薄い。それでも、やる?」

「…はい」

その問いは、真剣だった。俺も迷いなく答える。

「詰まる所、これは私とホログの問題だ。君が関わらなきゃいけない訳じゃない。それでも?」

「はい!」

そこまで聞くと、ナハトはカフェの出入り口を一瞥し、言った。

「これから彼らと戦うことになる。文字通り命懸けになるだろう。覚悟はいいな?」

「はい…!」

俺は緊張と共に返事した。


有明さんはああ言っていたけど、ホログが簡単にソラを手放すとは思えなかった。


それに有明さんも、あの状態のままでいさせるわけにはいかない。


俺の答えは、最初から決まっていたのだ。


俺の答えに、ナハトは口元に笑みを浮かべた。

「じゃ…始めるか」

初めて会った時と同じ、今では頼もしくさえ見える、犬歯を見せた不敵な笑みを。

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