第2夜:黎明

河川敷の端に、赤黒い巨大な塊がある。

よく見れば、その表面は波打っていた。呼吸するみたいに。

「君の猫だ」

ナハトが、緊張を隠し切れない声色でそう言う。

俺はその事実を、受け止めることができないでいた。



一旦土手から河川敷とは反対側の住宅街に戻り、俺とナハトは顔を見合わせる。

「言っておきますが、誓って俺は虐待なんかしてませんよ」

「そうか…」

考え込む表情のナハトに、俺は困惑の声を上げる。

「本当にうちの猫なんですか?何かの間違いじゃ…」

「君の猫が辿った痕跡を丁寧に追ったんだ。間違いない」

ナハトの答えに、しかし俺は納得が行かない。

「ナハトさん、昨日の犬の霊の時言ってたじゃないですか。長年負の感情を吸い続けたって。ソラがいなくなってからまだ一週間しか経ってないんですよ…!?」

「分かってる。もう一度確認するが、君の家族や友人が、君の猫に暴力を振るったようなことは?」

「何でそんなこと聞くんですか!?」

俺の剣幕に、ナハトは静かにしろと人差し指を口元に当てる。

そして、彼女は言った。

「強い恨みを持って死んだ人や動物なら、短期間でああなる可能性もあるからだ」

その説明に、俺は愕然としていた。

「そんな…」


ソラは本当に俺や家族を恨んで死んだのだろうか。

確かに、最近は友達付き合いやゲーム、高校の勉強に気を取られて、ソラと遊んでやることはできなかった。だが、母や妹は今でも頻繁にソラと遊んでやっていた筈だ。

逆に、構われるのが嫌だったのか?いや、最近遊んでいる様子を目にした時は、特にソラが嫌がってるそぶりは見せなかった気がする。

では何故だろう。

赤黒い塊としか見えていなかったが、自分の家の猫があんなになったと知り、俺は動揺が隠せなかった。過去の出来事を思い出し、何か落ち度があったのかと必死に考える。


でもやっぱり、俺も家族も、そんな恨まれるようなことをした記憶が無い。

「一体…どうなってるんだ…」



「とにかく。ああなったらどうしようもない」

「どうしようもないって…」

ナハトは腕を組み、目を瞑っている。

その様子に、彼女が既に、半ば諦めていると俺は悟った。

「下手に近づけば、私も君も、君の猫に八つ裂きにされる。君は生きては帰れなくなる」

「それって…」

俺の言葉に、ナハトは頷く。

「勿論、魂だけの状態の君も、死んだらそれまでだ。魂が死ねば肉体も死ぬ」

俺は生唾を呑んだ。

今の状態の俺が死ねば、俺の肉体も死ぬ。つまり、朝になって家族がベッドの中の俺が死んでいるのを発見するということだろう。

「あの、本当にソラを救うことはできないんですか…?」

「駄目だな。ああまで大きくなったら、私にも打つ手がない。もし…」

そこまで言って、ナハトは言葉を切る。待っても、続きの言葉を紡ぐ様子もない。

じれったくなって、俺は先を促した。

「もし?」

促す俺の顔を、ナハトは凝視している。何か考えているような顔で。


「…もし、あの猫にまだ君と過ごした記憶が残っているなら、君の呼びかけで正気を取り戻すかもしれないが」


ナハトの言う意味は分かった。

「…手はあるんじゃないですか」

漸くそんな言葉が絞り出せた。ナハトの言葉の意味は分かる。ソラを元に戻せる可能性は、俺が呼びかける以外に無い。だが、もし失敗したら俺がソラに殺されるということだ。

ナハトは眉間に皺を寄せ、やがて言った。

「やるかやめるか、君が決めろ」


決めるまでもない。だって、ナハトに頼んだ時から、俺は必ずソラを探し出すと決意していたんだから。

それが大きなリスクにぶち当たったからって、やめる理由にはならない。

そう考えたのだが、思いのほか恐怖心は増大していて、次の一言を紡ぐのに酷く時間がかかった気がした。

「…やります」

俺の言葉に、ナハトは頷く。

「私の指示通り動け」



赤黒い塊は、眼を開いた。

黄色く光る眼。その眼だけでも酷く大きく見える。

ヒラヒラと自分の周囲を飛ぶ、青く光る蝶。それに視線を向けていた。

俺は、そんなソラを観察しながら、ゆっくりと近づく。

ナハトの指示通り、刺激しないようにゆっくりと。それでいて、俺の焦りや怯えを伝えてはならないから、堂々と。

その二つを両立させるのは酷く困難で、それでも俺は、俺にできる精一杯の気力でそれをこなした。

そうして、やっとソラの間近まで来た。

「片手を広げて前に出せ。蝶が手に止まったら。呼びかけろ」

背後から、ナハトの声が聞こえる。振り向くこともできないため、彼女がどの程度俺の後ろにいるかは分からない。それでも、彼女の協力に感謝した。


巨大な黄色い目。その目元より少し上をヒラヒラと飛んでいた蝶が、少しずつその高度を下げていく。


それに伴って、ソラの視線も徐々に降りてくるのが分かった。


やがて、蝶が俺の手に止まる。


黄色い目――ソラの目が、蝶から俺の顔へと視線を移すのが分かった。


「ソラ、ごめんな。あまり、遊んでやれなくて」

緊張が顔に出てないだろうか。焦りが伝わらないだろうか。恐れが、全てをぶち壊さないだろうか。そんな思いと戦いながら、俺は真っ直ぐソラに、視線を向けた。

「帰ろう。お袋や茜が、お前を待ってるよ」


赤黒い塊がゆっくりと動く。

その一部が伸びてくる。まるで…というか恐らくそうなんだろうが、丸まった猫が体勢を崩して、前足を伸ばしてくるみたいだ。

そして、伸びてきた赤黒い帯のような前足のようなものが、俺の伸ばした手に触れた。

それは、毛に覆われた巨大なものに触れた感触だった。普通の温度ならフワフワした感触になっただろうが、それ以上に感じたのは、極端な熱さだ。

これ以上熱くなれば、触れている俺の手が火傷するんじゃないかというくらいの熱さ。

そんな感覚を意識した瞬間、伸ばされていた赤黒い前足が、すぐに引っ込められる。

まるで、未知のものを恐る恐る探っているような仕草だ。


やっぱり、目の前にいるのはソラなんだ。その仕草で、俺はやっとそう思えた。


そのまま、赤黒い塊――ソラは動かない。しかし、その巨大な黄色い目は、ずっと俺を見ていた。

その視線には、それまでより少し、温かみが感じられる。

少しは信頼を得られただろうか。しかし、このままどうやって連れて帰るか。

そう考えた所で、急に耳元から声が聞こえた。

『一旦戻ってこい。分かったことがある』

「!?」

反射的にそちらに視線を向けると、肩に青く光る蝶が止まっていた。

蝶から声を発しているのか。瞬間的にそう納得する。

「でも…」

『大丈夫だ。恐らく君の猫は無害だろう。早くこっちへ』

そう言われては仕方がない。俺はソラに視線を戻した。

「ソラ、ちょっと待っててくれ」

安心されるような声色を意識してそう言うと、少し後ずさってから土手の方へ走った。

背後にいたと思ったナハトだが、蝶で声を伝えていただけで、土手の上から動いていなかったらしい。


土手の上に辿り着いてから、ナハトに尋ねた。

「一体、どういうことです?」

ナハトは依然として何か考え込んでいる様子で、ソラの様子を見ている。

「普通、ああなったら意識も変わる」

「?」

一体何を言っているのだろう。そう思っていると、ナハトが説明を始めた。

「この夜界で、動物の魂は負の感情をエネルギーにして巨大化する。昨日そう説明したな」

「はい…」

「その過程で、恐れるものもなくなる。自分が力を持つ存在だと自覚するからだ。だから、遭遇したものにすぐ襲い掛かる。そうして極めて恐ろしい存在になるんだ」

一泊を置いて、彼女は言う。


「だが、君の猫は違った」


そこまで聞いて、ナハトの言わんとすることが分かった気がした。

「さっきのソラの反応はおかしいってことですか?」

俺の言葉に、ナハトは頷く。

「憎しみで短期間に巨大化する場合も、それだけ憎しみを持っていれば恐れは塗り潰され、目につくものに襲い掛かるようになる。だが、君の猫にはそんな様子もない」

ナハトは、未だに河川敷の端で丸まっているソラを見つめて、言った。

「長い時を夜界で過ごしたわけでなく、強い憎しみを持っているわけでもない。だから、自分が巨大な存在になったことに戸惑い、怯えている。君の猫があそこから動かないのは、そのためだろう」

「それなら、どうして…」

ナハトは視線をソラから俺に向けると、言葉を紡ぐ。


「他に考えられるのは一つ。誰かが、負の感情のエネルギーを集めて、死んだばかりの君の猫の魂に…与えたということだ」


そこまで言って、ナハトは俺を意味深に見つめた。

「だ、誰かって…?」

「さて。それが誰だかまでは、私にも分からないさ」

そう言って肩を竦める。そうしてから、彼女は言った。

「ただ一つ。何のためにやってるのかは分かる」

「何のために…」

そう呟く俺を見るナハトの視線が、徐々に険しくなっていくのが分かる。

その事実に、俺は混乱し始めていた。そんな俺を他所に、彼女は尚も言う。


「あの猫を探しに来た、が狙いだろう」


狙い。そう聞いて、俺の背筋に冷たいものが走る。

「一体、何を言って…」

最後まで言えなかった。俺を見るナハトの眼に、酷く背筋が震えたからだ。

その眉間に皺が寄っている。

その声には、有無を言わさぬ迫力があった。


「今更ながら聞きたいんだが、君どうやって夜界のことを知った?私の蝶を追えば夜界に来られると、君に教えたのは誰だ?」


その言葉に、俺は青ざめる。

ナハトの言葉の通りだとすれば、俺に夜界のことを教えた人が、ソラをあんな風にしたということなのか。

そんな俺の様子をしばらく見ていたのだろう。永遠のように感じられる数秒間の後、唐突に彼女は言った。


「やっぱり…君、誰かに利用されたな」


ナハトのその言葉に、やっと俺は言葉を紡ぐことができた。

「そんな、ありえない…だって、彼女は…」



「 漸 ク 気 付 イ た カ 」



すぐ傍から聞き覚えの無い声がして、飛び上がりそうになった。


俺もナハトもほぼ同時に、声のした方へ振り向く。

川とは反対の、住宅街と土手との間の草むらに、男が一人立っていた。


ピエロの仮面を着けた、男が。


それは、先程俺の家の前で見た、あの男だった。

その体格に息を呑む。

先程遭遇した時は気づかなかったが、身長は2メートルを優に超えており、肩幅も俺の倍くらいあった。

黒いローブが身体全体を覆っており、足には爪先が垂直に尖った黒いブーツ、両手には指先が鋭く尖った手袋をしている。

明らかに、普通の人間ではない。


「お前か、ホログ」


そう言って、ナハトが目を細めてその人物を見る。

「何十年ぶりかに実体を持った生者がここに来た。珍しいと思ったが、まさかお前の差し金とはね」

あまり感情の籠らないナハトの言葉。ただ、僅かに不快感を滲ませているのが分かる。

その言葉に、益々もって俺は何かに巻き込まれていたのだと悟った。

「何が目的だ。何のためにこんなことを?」

率直にナハトが問う。その瞬間。


「 我 ガ 手 に 死 ノ 力 を 」


仮面の奥から、声が響いた。男の声だ。若者とも老人ともとれる、不思議な声。

まるでカタコトのような、抑揚の無い発音。それが、酷く不気味に聞こえた。

しばし沈黙していたナハトは、やがて静かに言葉を紡ぐ。

のことか。どこで聞いたか知らないが…そう言われて、渡すと思うのか?」

一泊を置いて、尚もナハトが言葉を紡ぐ。

「私にとっては無用の長物だが、お前が持ったら、何をするか分かったものじゃない」

一体、何のことなのか。聞きたかったが、聞ける状況でもない。

しばし、仮面の男――ホログは沈黙していた。

だが、次の瞬間。


ホログが、その尖った指をこちらに向ける。


一瞬、俺達に向けたと思ったが、違った。


急に、背後から唸り声が聞こえたからだ。


振り向くと、眼前に赤黒い塊――ソラが、俺とナハトを凝視していた。

その眼は俺を見ていた時の黄色い目ではなく、攻撃的に赤く輝いている。

そして、先程俺に触れたあの前足が、勢いよく振り上げられた。

「逃げろ!!」

ナハトの叫びと共に、凄い力で突き飛ばされる。

衝撃に驚くと共に、その場に轟音が響いた。



突き飛ばされて、土手に転んだ俺はすぐに身を起こす。

俺の前にナハトが立っていた。そして、その先にソラと、あのホログという男がいる。


ソラの一撃で、土手の一部が吹き飛んでいた。


さっきまで俺とナハトが立っていた場所だ。

土手の傍に立って俺達を攻撃的に睨むソラ。その隣に、ホログが立っている。

「なるほどな…奴が集めた負のエネルギーだ。それを利用して君の猫を操っているということか」

「そ、そんなことが…!?」

「憎しみや悲しみ、そのを私に向けたんだろう。そういう指向性を持たせることは、集めた奴なら造作も無いだろうな」

ナハトの言葉に、俺は緊張する。つまり、ソラは今あの男に操られているということか。

ソラの凄まじい唸り声が辺りに響く。今にも飛び掛かってきそうな剣幕だ。


その時、俺は気付いた。ホログが頭上に両手を掲げている。そしてその両手に、明かりが灯っている。

いや、明かりではない。それは目を凝らすと、青白い炎だった。

見る間に、その炎が激しさを増し、ホログの両手から頭上に飛び立つ。

上空に飛んだ炎が、弾けるよう拡散するのが見えた。


「伏せろ!!」


そう叫ぶと同時にナハトは、どこから取り出したのか傘を広げる。

漆黒の蝙蝠傘。それが闇の様に広がり、俺とナハトの頭上を覆い隠した。


次の瞬間、頭上から何かが飛来し、傘にぶつかる音が聞こえる。

周囲をみると、草むらに点々と青白い炎が上がっていた。

どうやらホログの放った炎が空中で拡散し、辺り一帯に降り注いだようだ。

広げた時と同様に、ナハトは傘を閉じていた。

「安心しろ。アイツをどうにかすれば、君の猫は正気に戻るさ」

何でもないことのように、ナハトが言う。そして言葉を紡ぎながら、彼女は蝙蝠傘を紐で括っている。

「どうにかするって…どうやって」

「待ってろ」


そう言った瞬間、ナハトは地面を蹴った。


ホログとソラの方へ、彼女が疾走する。

「ナハトさん!!?」

迎え撃つように、ソラがまたその腕を振り上げる。

俺はナハトにもソラにも傷ついてほしくなかった。だから俺も走り出そうとしたのだが。

一瞬だけ、ナハトが俺を一瞥していた。

その眼は、『決して手を出すな』と言下に俺に命じている。

だから俺は動けなかった。


次の瞬間、再びソラの腕が土手を吹っ飛ばす。


しかしその瞬間に、ナハトは大きく跳躍していた。

そして、ソラの一撃をかわし、ホログへとその傘を振り下ろす。


だがその一撃は、急に割り込まれた刃に、止められていた。


いつのまにか、ホログの前に一人の人影が立っていた。

ホログと同じようにピエロの仮面を被っているが、俺と同じかそれより小柄だ。外国の映画で見た特殊部隊のような黒いジャケットとズボンを着用していた。

顔前面はピエロの仮面で見えないが、長い黒髪を後ろで縛っている。

そして右手には、日本刀を構えていた。左の腰に、鞘を携えているのも見える。

あの日本刀で、ナハトの傘を防御したのだ。

「もう一人…!?」

「契約者か…!!」

ナハトが舌打ちしながらそう呟く。聞き慣れない単語が出てきて気になるが、説明を求めている暇は無い。


地面を蹴り、ナハトがその日本刀の人物から遠ざかる。しかし彼らから遠のいても、まだソラの腕が届く範囲内だ。

先の一撃がかわされたのを知ってか知らずか、再び視界に入ってきたナハトへ向けて、ソラが腕を振り下ろす。

その光景に、俺の方が声を上げそうになった。しかし、その一撃もナハトは見越していたらしい。再び地面を蹴ると、俺の近くへと再び着地した。

まるで曲芸師のようなナハトの一連の動きに、半ば俺は呆然としていたのだが。


「私が合図したら、住宅街に逃げろ」


体勢を整えて立ち上がりながら、ナハトが俺に小声でそう囁く。それで俺は現実に引き戻された。

ソラが唸り、真っ赤な目を俺達に向けている。どうにかしたいが、横に元凶と言える人物がおり、更にボディガードみたいな存在もいる。

ナハトにしても、俺を庇っていてはどうしようもない。そんなことは、分かっていた。

「でも、俺…」

自然と、視線がソラに行ってしまう。

やっと見つけたのに。あんなよく分からない存在に、ソラの魂を握られているなんて。

まるで悪夢のようで、俺はすぐには頷けなかった。

「君の猫は必ず救い出す。頼む、今は退け」

そんな俺の胸中を察したのか、ナハトは真剣な眼で俺を見据えている。

正直、悔しい。それでもナハトの顔を見て、俺は頷くしかなかった。


俺が頷いたのを見ると、ナハトはホログの方に視線を向け、言う。

「私のものを奪うだけのために、随分入念な準備したな、ホログ」

ため息をつきつつ、彼女はそう言うと。


!!」


次の瞬間、ナハトの前方の地面が、急に爆発した。


それは、先程土手の一部を破壊したソラの一撃より遥かに強い衝撃で土手を破壊し。


轟音とともに、前方から雨のように土が降ってきた。


辺りを土煙が覆い、視界が全く塞がれる。


「うわっ!!?」

「今だ、走れ!!」

ナハトの叫びに、俺は反射的に走り出す。

視界が利かなくなる前に記憶していた方向、土手を駆け下りて住宅街の方へ。

その寸前にかろうじて見えたのは、ナハトが俺とは逆に河川敷の方へ走っていく光景だった。

「ナハトさん!!」

『構うな』

気が付くと、走る俺の前に、また光る蝶が飛んでいる。

そこからナハトの声が聞こえた。

『猫を見つけるのに時間がかかったのは幸運だったな』

「何を言って…?」

『もうすぐ朝だ』


その言葉に、反射的に見回した。ナハトの声の通り、確かに空が白み始めている。


空の色が黒から青に変わり、東の方から明るい色へと変わってきていた。


『だから、もう夜界は消える』

消える。急にそう言われて、俺は危うく立ち止まりそうなくらい驚愕する。

「消えるって…一体どういうことですか!?」

『説明してる暇は無い』

返事はそっけない。とにかく俺は、走ることに集中することにした。



しばらく、ずっと住宅街を走っていた。

夜界が消えるというのは本当なのか。先程のナハトの言葉を、俺は考えずにはいられなかった。

空の色も先程より明るい。夜界はともかく、朝が来るのは本当らしい。

しかし、先程のやり取りは一体どういうことなんだろう。ホログは、ナハトの持っている何かが欲しいというような会話だったが。

考えても答えは出ない。

もう5分は経っただろうか。誰かに追われている気配は背後から感じられない。

光る蝶もいつのまにか消えている。俺は逃げ切ったのだろうか。

どうしようか。走りながら、そう思った時だった。


不意にどこからか、トントントンと、軽い音が聞こえてきた。


何の音か分からなかったが、段々それは大きくなる。


やがてその音が後ろの方から聞こえてきて、俺は振り返った。


そして、驚愕した。


近くの住宅街。その屋根の上を、先程の日本刀を持った人影が凄い速さで疾走し、俺の方に近づいていたのだ。

それが認識できた次の瞬間には、もうその人影は一番近くの民家の屋根を蹴り、そして俺の目の前に着地していた。



そんな言葉と共に、その人物は刀を抜き放つ。

迫りくる刃が、スローモーションに見えて。それは酷く、デジャヴを感じる光景だった。

ああ、これ。いつか見た夢と同じだ。その瞬間に思ったのは、そんな暢気なことだった。



「うわぁっ!!」

絶叫しながら、俺は目を覚ました。

「…あれ?」

気が付けば、いつもの自室だ。今しがたまで寝ていたベッドも、机や椅子、テレビ等も何も変わっていない。

窓からは朝の陽ざしが差し込んでくる。

時計に目を移した、その瞬間。


目覚まし時計がけたたましい音を立て、慌てて俺はスイッチを切った。


いつも起きる時間だ。

一体どうなっているのかさっぱり分からない。


「隣のお婆さんが昨日、入院したんだって」

「この所多いな」

「あなたも気をつけてよ」

相変わらず景気の悪い両親の会話を耳にしながら、俺は階段を下りた。

「おはよう。酷い顔ねぇ、また夜更かししたの?」

「あー、うん」

お袋が、俺の顔を見るなりそう声をかける。俺はそう適当に返事した。

手早く朝食を食べ、朝の支度をする。

分からないことだらけだが、一つだけ確かなことがある。そのため俺は自然といつもより早く行動していた。

家族の様子はいつも通りだ。親父もいつもと同じように朝刊に目を通していた。

向かいの席の妹は、やはり俺に目を合わせる気配がない。コイツの負のエネルギーだけは夜に発散されないのかな、なんて思考が頭を掠めた。

「なぁ、茜」

声をかけたことで、若干不機嫌そうな目が俺に向く。当たり前だ、喧嘩した日からまだ数日と経っていないんだから。

「ソラはきっと見つかるさ」

「…じゃあ、チラシ貼るの手伝ってよ」

「それはまた今度な」

言うが早いが、罵倒が飛んでくる前に俺は玄関へ直行した。


「たまには、茜のことも手伝ってやんなさいよ」

見送りに来るお袋にそう言葉をかけられた。

まさか真実を伝えるわけにもいかず、どう返事しようか迷う。しかし俺が返事を返す前に、お袋は呟くように言った。

「あんたもソラには恩があるんだし」

「恩?」

「…まぁ、小さかったから憶えてないわよね」

その言葉に、もっとよく話を聞きたい衝動にかられたが、今はもっと気になることがあった。

俺は怪訝な表情をしつつも、玄関を出る。

「行ってきます!」



学校は、やはりいつも通りだった。

応馬と他愛無いゲームの話をし、授業に頭を捻る。

予想通り、彼女は放課後になるまで、俺に話しかけてはこなかった。


そしてまた、放課後の図書室で、俺は本を読んでいた。

いつも彼女と会う席は、司書係からは見えない位置だ。それ故今日もまた、声を低めれば内緒話ができる。

そして、再び彼女――有明黎香ありあけ れいかは姿を現すと、俺の向かいの席で本を読み始めた。

彼女の様子を窺う。彼女は昨日一昨日と同じ様子で、普段通りのまま本を読んでいた。

だとすると、やはり俺の勘違いだったのだろうか。いや、しかし。

「東君」

不意に声をかけられて、俺は硬直した。

その間に、彼女が言葉を紡ぐ。

「私に言いたいことでもあるの?」

俺は、やっと動いた身体でまず、読んでいるフリをしていた本をテーブルに置いた。

「…昨日、夢を見たんだ」

傍にある窓から西日が差し込んで、眩しい。

しかし、緊張からかカーテンを閉める余裕がない。

「どんな夢?」

促す彼女に、俺は恐る恐る、しかし意を決して言った。


「俺が…有明さんに殺される夢」


目覚める寸前、俺に襲い掛かった何者かは、俺に言った。

『おはよう、東君』

俺の記憶が確かなら、その声もその言葉の内容も、彼女としか思えなかったのだ。

思えば、俺がナハトと出会ったのは、彼女の言葉が切っ掛けだった。

ナハトの言う通り、俺が誰かに利用されたんだとしたら、彼女が関係していると考えるのが自然だ。俄かには信じられないが。

そして目の前の彼女は、俺の予想に反して、即座に言葉を返した。


「それ、夢じゃないでしょ?」


その返答に、俺は唖然として彼女を見る。彼女は、僅かに微笑んでいた。


西日に照らされたその姿は、絵になるなと思うほどの綺麗な光景だった。


「まだ帳は落ちてない。今なら話せるよ、夜の世界のこと」


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