第2夜:正子
翌日。
俺は登校する途中で、この町の地図をコンビニで買っていた。
昨日、ナハトと出会った場所がこの町に存在する場所なのか、妙に気になったのだ。
「東ー、あのゲーム進んだかー?」
「んー、昨日はあまり進めてないな」
休み時間中に話しかけてきた応馬にそう答えつつ、目を擦る。
「お前、いつにもまして眠そうだぞ」
「…色々あってな」
昨日あんなことがあったせいで完全に寝不足だ。結局、帰宅して時計を見たら、午前2時を過ぎていた。
眠気を振り払いながら地図を取り出して広げる。駅の周辺に注目してみた。
だが、駅前の周辺にあるオブジェと同じようなものが、もう一つ住宅街の真ん中に配置されてるような場所は見つからない。
「地図なんか眺めてどうした?」
「いや、ちょっとな…」
言いつつ、どうはぐらかそうか一瞬考えたのだが、どうせなら応馬も一緒に探してくれた方が楽か。
そう考えたので、俺は地図上の駅前にある広場を指さした。
「確かこの辺に割と大きなオブジェ、あるよな?」
「あぁ、タクシーが列になってる所な」
そう、確かあのストーンヘンジみたいなオブジェは、少し段差のある場所の上に建っており、その外周にタクシー乗り場があった。
「このオブジェと似たようなのが住宅街にあるって聞いて、どの辺にあるのか気になってな」
「あぁ、暗闇広場な」
いきなり聞き慣れない地名が応馬の口から出てきたので、俺は思わずその顔を見る。
特にふざけているわけでもない表情の応馬は、俺の持っていた地図を指差した。
「それ、駅前から大分離れてるぞ。駅の周辺見ても見つからねぇって」
そう言って応馬の奴が指差したのは、駅前から大分離れた地点だった。
俺の住んでいる場所からも遠い。だが確かに、その地点は他の民家に囲まれているものの、円形にスペースのある場所だった。
「…ここ?確かか?」
「あぁ、俺んちからすぐ近くだから良く知ってる」
応馬の家の近くだったのか。俺はその偶然に驚愕していた。
地図の縮尺を見る。距離として、駅前から2、3kmは離れていた。
「…マジか」
駅からそう簡単に行ける距離じゃない。
俺の困惑を他所に、応馬は説明を続けた。
「ここ、近所の人達からは『暗闇広場』って呼ばれてる」
「何だそれ…心霊スポットみたいだな」
「俺も良くは知らないけど、夜になるとあんまり人通りがないからそう呼ばれてるらしい」
人通りがないだけでそんな名前になるのか。俺は益々困惑する。
「…駅前と同じオブジェがあるのに?」
「あぁ。昼間は親子連れがいたりすんだけど、夜になると不思議と人が寄り付かねぇらしいんだ」
やはり、ただの場所ではないらしい。
それはそれとして、昨日の俺はどこをどう歩いてこんな地点に辿り着いたんだろう。
蝶がどういうルートを辿ったのか、地図を見て思い出そうとしてみたが、やはり途中からどういう方向に行ったか思い出せないでいた。
「どうした?」
「いや…何でもない。幻覚でも見たのかもな」
結局、俺はそうはぐらかしたのだった。
放課後、図書室で適当な本を読んでいた。目的は別だ。
果たして、
彼女は俺の向かいに座ると、本を読み始めた。まるで昨日のやり取りなんて忘れてしまったかのように、俺には一瞥もくれずに。
「有明さん」
「何?」
話しかけ辛かったが、俺は恐る恐る切り出す。
有明さんは手元の本に目線を落としたまま、言葉を返した。
「昨日言ってた都市伝説って、どこから聞いたの?」
「言い伝え」
言い伝え。
予想外の答えが返ってきてしまったため、俺はどう返そうか迷う。
そのうち、彼女の方が本に視線を向けたまま言葉を紡いだ。
「何年か前、試してみたんだけど無駄だった」
「あ、そう…」
俺の相槌に、彼女はそこで初めて俺の方に視線を向ける。
「昨日、やってみた?」
俺の心臓が跳ねた。急にそんなことを聞かれるとは思ってもみなかったからだ。
「あ、あぁ。やってみたけど、特に…何も、出なかったよ…」
「うん。変なこと言ってごめんね」
そう言うと、彼女は薄く笑みを浮かべる。
それから、彼女と二言三言言葉を交わして、俺は図書室を後にした。
この時見た彼女の笑みに、どんな意味があったのか。この時の俺は、知る由も無かった。
帰宅してから、俺は気づいた。
昨夜、次にナハトと会う日時を決めていなかったのだ。
一瞬、また0:00に駅前で待っていようかという気になったが、そもそも今夜は新月ではない。ナハトの蝶が現れるのは新月の夜だった筈だ。
ということは、また一か月も待たなければならないのか。
俺は途方に暮れていた。
家族と夕食を取り、風呂に入った後自室に戻る。
やはり今日も時計が気になった。やはりまた0:00に駅前で待った方がいいのか。
だが、今日は妙に疲れてしまって、そんな気になれなかった。
普段ならこの後数時間ゲームに興じるのだが、そんな気分にもなれない。
仕方なく、俺はベッドに身体を横たえていた。
「次回っていつなんだ…ナハトさん」
そう呟き、俺は目を瞑る。
結局、ナハトの言う『次回』がいつなのか分からない。やはり次の新月の夜だろうか?
それとも、昨日見たものは全部夢で、ナハトのことも夜界のことも俺の妄想なんだろうか。
そんな考えが渦巻いているうちに、俺の意識は落ちていった。
「帳は落ちた。ようこそ夜界へ」
「えっ…?」
気が付くと、昨日ナハトと話した、あのカフェの席に俺は座っていた。
そして向かいの席には、昨日と全く変わらない様子のナハトがいる。
真ん中のテーブルの上には、昨日俺の血を入れた小瓶が置かれていた。
「あ、あれ…?」
俺の戸惑いを面白そうに眺めると、彼女は言う。
「どこまで覚えてる?」
「俺、自分の部屋で寝てたような」
その言葉にナハトは頷くと、テーブルの上の小瓶を指差した。
「昨日、君の血を貰っただろう」
そう言われて、俺は小瓶の中にある自分の血液を見つめる。
「これを媒介にして、君の魂を呼び出したんだよ」
最初、その説明が頭に入らなかった。
「魂を…呼び出した…?」
鸚鵡返しに呟く俺に、ナハトは頷く。
「そう。肉体があると体調やら疲労やらを気にしなければならないからね」
「つまり…今の俺って」
段々それを理解していくうちに、俺は自分の両手や身体、自分の足に視線を落としていた。
そんな俺の様子を見ていたナハトは言う。
「今の自分が魂だけとは思えないだろ?」
「は、はい…」
答えながら、周囲を見回す。
淡い照明、仄かに香るコーヒーの香り。五感は機能している。
「ほ、本当に今の俺、魂だけなんですか…!?」
「一々肉体を呼び出すと、会うのが月一になってしまうからね」
そう言うと、小瓶を掴んでコートの内ポケットに入れながら、ナハトは立ち上がった。
「とりあえず、自分の身体の動きに支障は無い?」
両手をグーパーしてみる。立ち上がって、少し歩いたりしてみた。やはり、普段の自分と同じだ。着ている服も、昨日ナハトと会った時に着ていた、外出用の服だ。
「ほ、本当に今の俺、魂だけなんですか…?」
「勿論さ」
俺の言葉に、そう言ってナハトは改めて頷いた。
自信満々、というか本当に事実を言っているような口調で、俺はそれ以上確かめる気が起きなくなる。
そんな俺の様子を一瞥し、彼女はカフェの出入り口へと向かいながら、言った。
「じゃ、行こうか。君の猫を探しに」
自分が魂だけの状態だなんて言われたせいで全く意識できていなかったが、マスターのハプリーさんもちゃんと居たので、彼に頭を下げてから外に出る。
「道中、君の猫について詳しい話を聞きたい」
言いつつ彼女は、昨日と同じようにキセルから光る蝶を何羽か発生させていた。
「どこに行くんですか?」
そう問う俺の方を見て、彼女は言った。
「そうだな、まずは…」
「君の家に行こう」
俺とナハトは、カフェを出てからずっと住宅街を歩いていた。
相変わらず、街灯も周囲の民家も、明かりは灯っていない。
代わりに星空と月が輝いており、昨日と同じようにそれが視界を助ける光源となっていた。
光のない住宅街。幻想的なようにも思えるが、同時にここが現世と死者の世界との狭間である、ということが何となく理解できる。
それは同時に、一歩踏み外したら本当にあの世に行ってしまいそうな気にもさせ、俺は身震いしていた。
こんな世界を、昨日俺は何も分からずに走り回っていたのか。
今はまだ何も見えないが、また死人や巨大な動物霊に出くわすかもしれない。その時にパニックにならないようにしなくては。俺は気を引き締めた。
昼間に、地図を見ていて正解だったかもしれない。
カフェから俺の家まで、こうして徒歩で向かうことになったからだ。
住宅街の真ん中にあるストーンヘンジみたいなオブジェのある地点と、俺の自宅との間の距離を昼間に考えていたのが功を奏していた。
応馬にこのオブジェのある地点を教えられてなかったら、こんなにスムーズにいかなかっただろう。まさか応馬にこんな形で感謝することになろうとは。
とはいえ、それが無くても何となく方角は察することができた。それが若干不可解で、俺は腑に落ちない感覚を覚えていた。
「魂と肉体は、離れても繋がってるんだ」
「えっ?」
俺の声に、ナハトは少し面白そうに言う。
「いや、自分の家の方向が分かるのが不思議じゃないかと思ったのでね」
そんなに俺の顔には疑問符が付いていただろうか。
そう思っていると、ナハトは補足説明を加える。
「君の肉体は今も自宅のベッドで寝ている。そして魂の君はここにいる。魂と肉体は繋がっているから、自分の肉体のある方角が君には分かるんだよ」
彼女の説明で何となく分かったような気分になったが、そうなるとナハトも方角が分かっている風なのはどういうことだろう。
「ナハトさんはどうして…」
「私は、その君の魂と肉体の繋がり、それを辿ってる」
言いながら、ナハトは前方を指差した。
昨日と同じように、青く光る蝶が、俺とナハトの先を飛んでいた。
昨日とは逆に、ナハトの蝶が俺の自宅への道を辿っているのか。
そこまで理解して、妙に緊張してきてしまった。
もし、このまま自宅まで行ったとして、俺は寝ている自分に対面してしまうことになるんだろうか。
というか、このまま家に戻ったとして、ナハトはどうやってソラを探すというのだろう?
そんなことを考えていると、彼女が声をかけてきた。
「君の猫は、自宅で飼っていたんだろう?」
「ええ、そうです」
「じゃあ、君の自宅から急に消えたということか」
そう言われて、俺はソラのことを思い出しながら答える。
「元々、昼間はふらっとどこかへ消えて、夕方になって戻ってくるような奴だったんです。ただそれも毎日ってわけじゃなく、週末になると昼間は母や妹と遊んでたりしたんですが」
「消えたのは週末?」
「いえ、平日です。夕飯で皆が集まった頃にソラが現れなくて、母と妹が心配し始めました」
「それ以降、戻ってこなかったわけか」
ナハトの言葉に、俺は頷いた。
「じゃ、やっぱり君の自宅から探し始めるのが正解だな」
そう言いつつ、ナハトは笑みを浮かべた。
昨日と同じように、何度か死者と遭遇した。
幸い死者の動きは緩慢で、危険を感じることは無かった。
昨日遭遇したような、巨大な死者も出てこない。やはり、珍しいもののようだ。
俺は、そうやって遭遇する死者を改めて観察してみた。
黒い煙でできた人間。昨日のサラリーマンの服装をした者や、女性らしい服装をした者、学生服の死者まで見える。
時折、彼らの傍の地面、電柱や塀に立てかけるように、花束が置いてあるのを目にした。
まだ鮮やかな花が咲いているものもあれば、枯れているもの、萎れているものもある。
それはきっと交通事故の死者で、遺族や親しい友人が置いたものだろうと察せられ、何とも言えない気持ちになった。
更に嫌な想像が頭の中で膨らむ。
ひょっとして、俺の高校や妹の通う中学に行ってみたら、校舎の中にもいるのだろうか。
俺は、煙でできた学生服姿の死者が、教室の席を埋め尽くしている光景を想像し、嫌な気分になっていた。
そうして思考を続けながら、死者をやり過ごして、俺とナハトは暗い町を歩く。
昼間見た地図からすると、俺の自宅に着くまでにはもうちょっと時間が必要だ。
先程からの嫌な気分を紛らすために、俺はナハトに質問してみることにした。
「あの…聞いていいですか?」
「何だい?」
「どうしてこの世界は、ライトが点かないんです?」
俺の質問に、ナハトは頷く。
「人工物だからだよ」
「人工物…」
「人工的な光は、この世界では機能しない。死者の世界だからね」
ナハトの答えに、しかし俺は納得できなかった。
「あのカフェは点いてましたよ?」
「あそこは特別だ」
特別なのか。何か細工でもしているということだろうか。
ちょっと不本意だったが、俺は一先ず納得することにした。
そうして、歩きながら空を見上げて、次の質問を口にする。
「月や星がこんなに明るいのは?」
「町中の電気が点かなければ、星は明るくもなるさ」
そういうものなのか。
幼い頃に両親とプラネタリウムへ行ったことがあったのを思い出した。
映し出された星々の数々。それを見て、司会者が「富士山の山頂から見える星空が、こんな感じです」と説明していた記憶がある。
その時見た星々と今見ている星々は、そんなに変わらないかもしれない。
ただ、それだと説明できないことがある。
「新月の夜に、この世界では満月が出てました」
「夜の世界だからね。ここじゃ月はいつでも満月さ」
ナハトの返答に、改めて俺は空に浮かぶ月を見上げた。
月は、俺のいる世界じゃ見たことが無いほど輝き、暗闇の町を照らしている。
その月は、俺が現世で見る月より、少し大きく見えていた。
まるで、巨大な眼が見降ろしているみたいだ。そんな嫌な想像が頭をよぎり、俺は頭を振ってそれを紛らわせた。
「どうした?」
「いや…何でもありません」
果たして、俺の自宅に着いたわけだが。
先程のナハトの説明通り、自宅には電気が灯っていない。
知っている筈なのに知らないものを見ているみたいで、俺はまたも変な気分になっていた。
「あの…もし仮にこの家に入って俺の部屋まで行ったら、俺の身体が寝てるんですか?」
「いいや。君の身体はここに無い。君の家族もだ」
彼女の言葉に、俺は戸惑った。どういうことだろう。
「言ったろう。ここは狭間の世界だ。君のいる世界とは違う。この家も、中にある物も君のいる世界と同じ様子だろうが、君の肉体や生者は、この世界にはいない」
俺はその説明を理解しようとしたが、分かったような分からないような感覚に陥っていた。
だが少なくとも、俺が寝ている俺と対面することは無いらしい。ちょっとホッとしたような気分だった。
「さて、君はここで待っていろ」
「えっ、何故です…!?」
急に予想外な指示を出されたので、俺はナハトの方を見た。
ナハトはただ、真っ直ぐ俺の自宅を見つめている。その表情に感情らしいものは見当たらないが、ただ集中しているらしいことは分かった。
「痕跡を掴むのに気を散らせたくない。この家の周りを一周してくるから、少し待っててくれ」
そう言うと、ナハトは歩き出した。
玄関の前を横切って、隣の民家とを隔てる塀と壁の間を通っていく。
あの先には、俺の家の庭がある筈だ。
「何かあったら呼べ」
そんな言葉を残して、彼女が俺の視界からいなくなる。
俺は玄関先で、それを見送った。
確かに集中しているようだったし、彼女の仕事を邪魔するのは俺の本意じゃない。
ふと、家に入って自室に行き、本当に俺の肉体が無いか確かめたくなった。
だが。
「…やめとくか」
そもそも、ここは俺のいる世界とは違う。下手なことをすれば、何が起きるか分からない。
やはり、大人しく待っていよう。そう思い、俺は視線を自宅から、その前の通りに移した。
「…ん?」
視線の先の光景。何か違和感を覚えて、目を凝らす。
その瞬間に、背筋が凍り付いた。
自宅の前を横切る通り。その先が、数件の民家を隔ててT字路になっているのだが。
そこに、何かがいた。
全身を覆う黒いローブ。顔を何か白いものが覆っている。
更に良く目を凝らすと、辛うじて見えた。
ピエロの仮面。
テレビで見た、イタリアのヴェネツィアの祭り。そこで見られるような、赤い模様でピエロのような装飾がされた、仮面だった。
何だあれ。胸中でそう思い、しかし口には出せない。
『それ』は動かず、ずっとそこに立っていた。
頭のどこかで確信する。
仮面を被っているせいで分からないが、アレと今、目が合っていると。
アレは何だ。アレも死者なのか。
いつしか、俺も動けなくなっていた。その仮面の男を凝視したまま。
蛇に睨まれた蛙、というフレーズが頭を掠める。
何でこんな時に蛇のことなんか思いつくんだ。そう思い、嫌な気分が益々高まっていた。
緊張が全身を支配し、額から脂汗が出てくるような気がする。口の中が、カラカラに乾いていくような気がする。
こんな状態が、永遠に続くのではないかと思った瞬間。
「どうした?」
急に声をかけられて、反射的にそちらを向いた。
怪訝な顔をして、ナハトが立っていた。
「ナハトさん…!」
俺は、震える指でピエロの仮面を着けた何かの方を指差した。
だが、そちらに視線を戻した時、『それ』はもう、そこにはいなかった。
「あ…あれ…?」
狼狽える俺の近くまで来て、俺の指差す方向をナハトも見るが、やはり何もいない。
そんな俺を眺め、彼女は目を細めた。
「…何か見たか?」
ナハトは持っていたキセルをくわえると、やがて光る蝶がキセルの先から出てくる。
その蝶は、これまで俺が見ていたものとは違い、赤色に光っていた。
「この蝶が痕跡を辿ってくれる。行くぞ」
そう言うと、ナハトが歩き出す。俺もそれについていった。
俺の自宅から出発して、蝶は最初道路に沿って飛んでいた。
だが、やがて塀の上あたりを飛ぶようになり、しまいには民家と民家の間の塀の上を飛ぶようになった。
一か所をグルグル回ったり、同じ所を何度も来たり、追うのにも一苦労だ。
やはり猫は気紛れらしい。
時折ナハトに手を貸してもらいながら、俺は必死で赤い蝶を追う。
蝶の動きが先程よりも少し緩んだため、やっと余裕が出てきた頃だった。
「それで、何か見たか?」
眼前をヒラヒラと飛ぶ蝶を追いながら、ナハトがそう問いを投げる。
俺は緊張とともに、先程の体験を話すことにした。
「それが…」
「ピエロの仮面…」
考え込むようにナハトが呟く。
俺は先程の何かを思い返して、やはり緊張を噛み締めながら言った。
「あれも死者だったんでしょうか?」
「いいや。話を聞く限り、死者かどうか断定はできない。可能性はあるが」
その答えに、俺は再び緊張した。得体の知れない存在に、あの時俺は遭遇したということなのか。
「ナハトさんでも、分からないですか」
「推測はできるけどね。私でもこの世界の全てを知ってるわけじゃない」
考え込むようなそぶりでナハトはそう返す。
だが、やがて彼女は視線を再び赤い蝶へと向けた。
「まぁ今は、君の猫を追う方に集中しよう」
大丈夫だろうか。ナハトが現れたから姿を消しただけで、あのピエロの仮面はまだ近くにいるんじゃないだろうか。そんな嫌な想像が過ぎったが、それを振り払う。
確かに、今はソラを見つけることに集中するべきだろう。
そうして追い続けて数時間。
やがて、進む方向の先に何があるか、俺は何となく分かってきた。
「この先…」
確か、この方角を先に進むと住宅街が開けて、川に出る筈だ。
大き目の川で、その河川敷で幼い頃に家族と遊んだ記憶がある。
勿論、ソラも一緒に。
ひょっとして、昔を懐かしんだのか。死ぬ前に一度、川を見たかったのかな。そんなことを少し考えていた。
予想通り、住宅街を抜けて川に着いた。この先に河川敷がある。
その手前の土手まで進んだ所で、ナハトと俺は足を止めた。
ナハトは急ぐ手つきで指を鳴らす。すると、俺とナハトを先導していた赤く光る蝶が、弾けて消えた。
「…なぁ」
「…はい」
「君…猫を虐待とかしてた?」
してるわけがない。何も見ないでそんな質問をされれば、俺はムッとしただろう。
だが、今は彼女がそんな質問を口にした理由が分かるので、俺は抗議をしなかった。
視線の先の河川敷に、巨大な赤黒い塊があった。
昨日見た、あの象みたいな大きさの犬の霊。それより、アレは更に一回り大きい。
そして、ナハトはソラの痕跡を追っていた赤い蝶を、ここで消した。
それが意味するところは、一つしかない。
「ナハトさん…まさか」
ナハトは、アレに真っ直ぐ視線を向けたまま、言った。
「あぁ、君の猫だ」
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