第1夜:未明

地面に着地した女性は、笑みを浮かべて俺を見た。


「ふとしたきっかけで迷い込んだか」


言いながら、一歩ずつ彼女は俺の方に近づいてくる。


「風の噂を聞きつけたか」


先程の体験からこの世界全てに恐怖していたため、目の前の女性の立ち振る舞いにも、少し恐怖を感じる。


「退屈な日常から抜け出したかったか」


というか、肌や目の色のせいで、普通の人間とも思えない。


「或いは――何を犠牲にしても叶えたい願いがあるか」


自然と俺は、生唾を飲み込んでいた。そしてそんな俺の様子を、心底楽しそうな笑みを浮かべて彼女は観察していた。


「いずれにせよ、君は足を踏み入れた。ようこそ『夜界』へ」


そう言い終えると、彼女は俺に、手を差し伸べる。


一連の動作があまりに優雅で、俺はやっと声を発するのが精いっぱいだった。

「あ、あの…」

それ以降が何も言えない。彼女の言っていることが分からず、そもそも突然出てきた彼女が何者なのかも分からず、そもそも俺のいるこの世界が何なのかも分からず、どうすればいいのかも分からない。

それでも、同じ言葉を話せる相手が現れてくれたのは幸いと言えた。

ただ、やはり俺と同じ人間にも思えなかったが。

そんなことを考えている間に、時間が経ってしまったらしい。俺が言葉を絞り出そうとする前に、彼女の方が言葉を発する。

「どうやら、その様子では、ここが何なのかも分からず来てしまったか」

「は…はい…!」

俺の状態を把握してくれたのにホッとする。続きの言葉を待っていると、彼女は言った。

「でも、蝶を追ってここに来たんだろう?」

「そ、そうです」

「じゃあ、何も知らないわけではない」


そう言われて、気づいた。彼女は俺を、探っている。


途端に、全身に緊張が再び走った。

別にやましい所があるわけではない。有明さんの話を聞いて、好奇心が出た。それだけの話だ。それが、本当に異世界のような所に辿り着くなんて。

俺が何も言えずにいると、目の前の女性は自身の胸に手を当てて、言った。

「私はナハト。この世界の案内人だ」

「案内人…」

ナハトと名乗った女性は、俺の言葉に笑みを浮かべ、頷く。

「そうだね、今この時で言えば…君みたいな迷子を、元の世界に送り届けたり」

「…本当ですか!?」

彼女の言葉に、再び安堵する。正直、今になるまで生きた心地がしていなかったのだ。

彼女――ナハトは、そんな俺を観察するような眼で見つめると、言う。

「帰りたいなら、案内するよ」

「お…お願いします」

その眼に怪しさを感じた。が、この世界からどうすれば元の所に戻れるかも分からず、正直ずっと走ってきたので体力も限界だ。俺は藁にも縋る思いで、そう答えていた。

しかし。

「でも…」

そこで、急に声のトーンを変えて、彼女は言う。

その観察するような視線が、強まったような気がした。


「蝶を追いかけてきたのなら、目的がある。違うかい?」


そう聞かれて、俺はハッとした。

急いで頭を整理する。新月なのに空に昇る月や、煙でできた人間。そんな異常な光景を立て続けに見せられたせいで、俺は何故駅前から蝶を追いかけたのか、その目的を忘れてしまっていたのだ。

「そ、それは…」

しかし、どう話せばいいだろう。こんな事態になってから、俺は自分の目的を話して、目の前の女性が納得してくれるのか、微妙に不安になっていた。

猫のためと言って、どんな反応が返ってくるのか。

そうして俺が迷っていると、彼女の方が再び喋り出していた。

「ま、落ち着くために、まずはコーヒーでもどうだ?」

言いながら、彼女は斜め後ろの方を指差す。

その先には、明かりの点いている民家があった。


いや、民家ではない。よくよく見ると、そこは喫茶店のようだ。


先程、彼女の存在に気づく前に辺りを見回した時には気付かなかった。

俺は狐につままれたような気分で、「はぁ」と返事をするのが精一杯だった。

それでも、そんな俺の反応が満足の行くものだったのか、ナハトは頷くと、明かりの方へと歩を進める。

俺は混乱する頭を抱えて彼女の後を着いていった。



まるで日常的な動作のように、彼女は慣れた手つきで喫茶店のドアを開けると、中へと入る。俺も恐る恐る、一緒に入っていった。


店内は、淡いオレンジの照明と落ち着いた茶色の壁紙の、ごく普通の喫茶店だった。

程よい広さで、コーヒーの匂いが充満している。

カウンターの奥には、店主らしい人影があった。


そこで、俺の思考が再び停止する。


その人影はカフェの雰囲気に似合う、グレーのワイシャツに赤いネクタイと赤茶色のセーターという服装だったのだが。


その顔、というか頭は、梟の被り物みたいなもので覆われていたのだ。


「…え?」

白と茶色の羽毛に黒い目。まるで梟の頭を持った人間のようで、ハロウィンの仮装の出で立ちに見える。

何でカフェの店主がそんな恰好をしているんだ。

俺は、呆然としてその人物を凝視していた。

「気にするな。ほら、早く席に」

ナハトにそう声をかけられて、我に返る。

その人物から目を離せないながらも、俺は恐る恐る彼女の向かい側の席に座った。

「いっ…!!?」

その瞬間、俺は変な呻き声を上げていた。

何故なら俺が座った途端に、梟のマスクを被った店主?がカウンターから出てくると、俺とナハトの座る席の前まで歩いてきたのだ。

そんな俺の様子を意に介することも無く、彼女はその人物に声をかける。

「コーヒーを二人分。砂糖は要るかい?」

彼女が俺にそう聞いてきたので、俺は精一杯首を縦に振った。

それを見たのか、梟マスクの人物は頷くと、カウンターの奥に戻って行く。


席に座ると、ナハトは帽子を取り、コートの前を開けていた。コートの下は白いワイシャツだ。下半身もスラックスで、女性っぽくない服装だな、とぼんやり思った。

それはそれとして、先程の梟マスクの人物が気になる。

「あ、あのー…あの人は一体」

「彼はハプリー。ここのマスターだ」

ナハトの返答に、俺は納得したように頷くが、その実全く納得できていなかった。

そんな俺の内心が表情に出たのだろう、女性は僅かに笑みを浮かべつつ言葉を紡ぐ。

「あの顔については気にするな。なんだ」

「そ、そうですか」

そういうものと言われてしまっては納得するしかない。俺は頷く他なかった。


先程のハプリーというマスターがコーヒーを運んできて、テーブルに置いた。

マスターの見た目に反して、暖められたコーヒーからは美味しそうな匂いが漂ってくる。

俺は受け皿に置かれていたミルクと角砂糖二つを入れてスプーンで解かすと、恐る恐る口を付けた。

「…美味しい…」

気付けばそう口にしていた。ここまで蝶を追い、煙の人間から逃げ、目の前の女性と遭遇してここまできた疲労感が、やっと緩和されたような気がした。

というか、あのマスターは匂いなど分かりそうもないマスクをしているのに、何でこんな美味しいコーヒーが淹れられたのだろう。あのマスクを外している様子は無かったのだが。そんな疑問が浮かばずにはいられなかったが、話が進まないので俺は頭から締め出した。

そんな俺の様子を眺めていたナハトは、片手に持っていたキセルから煙を吸って吐き出すと、やがて言う。

「やっと一息つけたかな。そろそろ本題に入っても?」

「あ、はい」

コーヒーのお陰で、俺はちゃんと自分の目的を話せそうな気分になっていた。


「私はこの『夜界』で、君のような者の悩みを解決してる」

ナハトと名乗った目の前の女性。その素性というか人間なのかどうかが気になったのだが、まず最初に浮かんだ疑問から聞いてみることにした。

「あの…ええと、『夜界』って…?」

そんな呼称をしているのを見ると、やはりここは異世界なのだろうか。

その質問を予期していたかのように、ナハトは言葉を紡ぐ。

「ここは、死後の世界と現世とを結ぶ、狭間の世界だ」

「狭間の、世界…」

彼女は頷いた。

「君も聞いたことがあるだろう。色々や宗教や文明に言及される、天国や地獄、煉獄、冥界、極楽浄土。その他色々、死後の世界というものを。この世界は、そういう場所との狭間…通り道のようなものだ」

「通り道、ですか」

「そうだ。人や動物が死ぬと、魂はやがて死後の世界へ行く。その魂の通過点が、この世界」

「それが…夜界」

俺は、自然とそう口にしていた。


「だから、死人に会いたいとかいう話なら、会える可能性はある。まだ魂がここにあればの話だが」

そこまで言うとナハトは、俺に改めて尋ねた。

「ここまで理解できたなら、聞かせてもらおう。君は何か目的があってここに来ただろう。でなければ、私の蝶を追ってここまで来たりはしない」

俺は頷いた。有明さんが何故あんな都市伝説を知っていたかは分からないが、実際こんな世界があったのだ。なら、俺の本来の目的を話すなら今だろう。

「実は…」

そうして、俺は飼い猫のソラがいなくなったという話を、ナハトに話し始めた。



「飼い猫、か…この世界にまで来るには、随分安易な理由だな」

「恐縮です」

緊張する俺を眺めながらキセルの煙を吸うと、ナハトは再度言葉を紡ぐ。

「探偵を雇うとかは考えなかったのかい?」

「いえ…引き受けてくれるかどうかも分からないし、費用もどれだけかかるか…」

俺の言葉が終わらないうちに、ナハトは言葉を継いだ。

「費用が掛かるから、諦めた?」

「えっ…?」

その問いに、俺は答えられない。気づけば視線は手元に落ちていて。ナハトの方に視線を向けると、射抜くような彼女の視線が俺の顔を捉えていた。

「代償を払ってまで探したいわけではない?」

「そ…それは…」

キセルを口から離し、煙を吐き出す。普段煙草の煙なんて臭いとしか思わないのだが、不思議とこの時彼女が吐き出した煙には、何も臭いを感じなかった。

やがて、再び俺の方に視線を向けて彼女は言う。

「別にそれを咎めはしない。私に君の猫を探してほしいというなら引き受けるよ。ただ、私は探偵とかそういうものではないから、君の協力が要る」

そう言うと、彼女は手元のコーヒーを飲み、再度言葉を続けた。

「そして、君の猫を探し出せるかは分からない。そのにもよるが、確かな成果が出るって保証はできないな」

彼女の言葉に、俺は生唾を飲み込んだ。


「じゃ、じゃあ一つ、教えてください。ソラがいなくなって、1週間経つんです。普通、1週間も何も食べなければ、猫は生きていられないと思うんです。もしそうだった場合…この夜界にいる可能性は、あるんでしょうか」

「…そうだねぇ」

俺が尋ねると、ナハトはそう呟きながら考えた末、言った。

「その魂がどれだけの未練を残しているかによる。未練があるなら、この夜界に何年、何十年も残留し、遂には現世にまで影響を及ぼす個体もいる。だが未練が無ければ、一日どころか数時間でこの夜界を通過してしまう可能性だってあるな」

未練。俺は、ソラにそういう未練があるとはあまり思えなかった。

お袋や妹と遊んでいる姿が強く印象に残っていたし、老猫になるまでずっと元気で、俺も冷たく接したような記憶は無い。

恨みという点では思い当たらないが、他に何か未練と言えそうなものはあったのか。

正直、どれだけ想像してもソラの未練なんて俺に推測するのは難しく思えた。

「…未練があるかは、分からないです」

肩を落としてそう答える俺に、ナハトは冷静に言う。

「もし仮に、もう夜界から魂が消えているとすると、そうだね…遺体がどこにあるかくらいは、突き止められるよ」

「本当ですか…!?」

その提案は、僥倖と言えた。遺体が見つかるなら、それだけでも俺にとっては幸いだ。

俺の言葉に、ナハトは頷いた。

「最後に魂の残留した地点なら、私には認識できる」

「そ、それじゃ、お願い…」

「待った」

俺が勢い込んで頼み込もうとすると、ナハトはそう言って俺の言葉を断ち切った。


ナハトの眼は、再び観察するように俺の顔を覗き込む。

「私に頼みごとをするなら、報酬が必要だ」

その言葉に、俺はギクリとした。

「か、金が必要ですか」

「いや、この夜界に、現世の通貨は必要ない」

そう言うと、一泊を置いて、彼女は答える。


「必要なのは、君の感情だ」


「か…感情…?」

俺がそう言うと、ナハトは頷いた。

「君が本心から、その猫を探したいという欲求。それが要る。それが私にとっての報酬だ」

彼女の言葉に、俺はそれ以上、言葉が出なかった。

感情や欲求などという、形のないものが報酬になるのだろうか。

この夜界では、それが報酬になり得るものということなのか。

そんなことを考えていると、やがて彼女は言った。


「私は聞きたい。君はどういう理由で、君の猫を探したいのかな?」


「そ、それは…」

俺が答える前に、尚も彼女は言う。

「さっき、代償を払ってまで探したくないのかと聞いたね。君は言い淀んだ」

さっきの言葉を再度言われて、俺は何だか気恥ずかしくなっていた。

その理由は分からない。ただ、目の前のほぼ初対面の女性に、何だか俺は心の内を見透かされているような気がしたのだ。


「私が思うに、君が飼い猫を探しているのは、その猫自身が理由ではないんじゃないか?」


その言葉に、俺はハッとしていた。



そもそも俺は、何でソラを探し出したいと思ったんだ?

今までは、ソラ自身のためを思って探していると思っていた。

生きてたらお袋や妹に会わせたいし、死んでたなら埋葬してやりたいと。

だが、それは本当にソラのためなのか?


いいや、違う。


俺は、ソラは自分の意志で俺達の前から姿を消したのだと、半ば思っていた。

だったら、俺が探してるのも、ソラのためという理由じゃない。

妹だ。

アイツがあれだけ気合いを入れてソラを探しているのに、俺は置いて行かれたような気がしたのだ。

俺だけがソラを気にかけてないと思われるのが嫌で。

だからこうして探している。


つまり、俺自身のためだ。


「俺は…」



やっと分かった。俺の本心が。

自然と、俺は今まで俯いていたのに、顔を上げていた。

「答えは出たか?」

「ナハトさん、俺は…」

コーヒーを一口啜ると、ナハトは俺を見つめて言葉を待つ。

「俺は、半端な気持ちでここに来てしまったかもしれない。実際、こんな所に来れると思ってなかったし。でも、ソラを見つけたい気持ちは本当です。妹に非難されるのが嫌な気分だったのが最初なのは確かだけど…でも、ソラは俺の、家族だったから」

彼女は、無言で頷く。俺はその様子に少し安心して、続きの言葉を紡いだ。

「だから…頼みます。ソラを、探してください」

そう言って、俺は頭を下げた。



「ではまず、君の血を貰おう」

「…血?」

俺の言葉を意に介さず、彼女はコートの内ポケットから、小瓶を一つ取りだした。

瓶の中には針が一本入っており、彼女はその蓋を外して針と瓶をテーブルに置く。

この中に俺の血を入れろというのだろうか。

「俺の血が必要なんですか?」

「ああ。その方が色々とからな」

そう言うと、ナハトは小瓶の方を指差して言う。

「一滴でいい。これに入れてくれ」

何がやりやすいのか気になったが、とりあえずやらなければ埒が明かなさそうだ。仕方なく、親指に針を刺した。そして垂れた血を数滴、瓶に入れる。

ナハトはそれを眺めて頷くと、瓶に蓋をして、手拭いで拭った針と共にコートにしまった。

「今宵はこれで終わりにしよう。君を元の世界へ送る」

そう言うと、彼女は再び帽子を被り、立ち上がった。

その様子に俺は戸惑う。

「えっ、あの、色々事情とか、ソラの」

「それは次回に聞くよ」



そうして、俺とナハトはカフェを出た。

歩き出そうとする俺をナハトは手で制すると、言う。

「少し待て」

そして彼女は、キセルをくわえると、やがて口から離して煙を吐いた。


煙の中から、あの光る蝶が何匹か現れ、二人の間を飛び回る。


「これでいい。実体を持つ者はやすいからな」


「嗅ぎ付けられる…?」

俺の問いに、ナハトは頷いた。

「この世界には色々いてね。君のような生者を捕食しようとするモノとか」

俺は身震いした。そんな俺の反応に笑みを浮かべながら、彼女は言う。

「だから、一種のカモフラージュさ」

その説明が分かったような分からないような感じで、俺は己を無理矢理納得させた。

そうして、二人で歩き出した。



光源は星空と月の光のみで、時折視界に入る街灯は光ってはいない。

俺とナハトは民家の間の路地を歩いていた。

「先程、ここは魂の通過点だと説明したな」

「はい」

言いながら彼女は俺達の歩く路地の先に、真っ直ぐ視線を向ける。

「だからここは、死んだ人間や動物の魂が彷徨っている」


「ああいう風にね」


言いながら彼女は、手に持っていたキセルの先端を、視線の先の路上に向けた。

暗闇でよく見えないが、俺は目を凝らす。

「…!!」


先程ナハトと会う前に遭遇した、スーツを着た煙みたいな存在が、路上の真ん中に立っていた。

「あれは…さっき見た…!」

ナハトはそんな狼狽える俺を一瞥すると、再度説明を続ける。

「恐らく、現世で交通事故か何かで命を落としたのだろう。家族、仕事、その他色々な未練によって、この世界に繋ぎ留められた結果、ああしたものが出てくるのさ」

俺はあの煙のような人間――いや、彼女の話の通りなら『死者』――から目を離すことができないでいた。

「話せたり、するんですか」

「…いや。アレはもう核となる魂はほとんど残ってないな。残留思念…『死にたくない』という未練の塊でしかないよ」

「…成仏、させたりとかは」

俺の問いに、ナハトは「んー」と考えるそぶりを見せながら少し唸った。

やがて、彼女は言葉を紡ぐ。

「君の世界にいる坊主や神父といった聖職者なら、或いは祓えるかもな。だが、あの手の存在はここならどこにでもいる。関わってたら時間が足りないよ」

そう言うと、彼女は歩き出した。『死者』の方へ。

「あっ、あの…?」

「この先が通り道だからな。あまりアレに近づくな。目も向けない方がいい」

彼女の注意に従って、俺は死者に近づかないように、視線も向けない様に気を付けながら、その横を通り過ぎた。


通り過ぎてからしばらくして、彼女は言った。

「ま、今みたいなモノが跋扈する世界だから、君も気を付けろ」

「…もし、アレに近づいてしまったら」

「引きずり込まれて…君の魂が食われるだろう」

俺の方を見ずに、ナハトはそう答える。

俺は肝が冷えていた。ナハトと出会う前に遭遇した時、不用意に近づいていれば死んでいたということか。

俺は芽生えた恐怖を振り払いながら、懸命に彼女に着いていく。

そうしながら、ふと思いついた疑問を口にしていた。

「あの…さっき、未練があるなら現世にまで影響を及ぼす奴もいるって言ってましたね」

さっきのカフェでナハトから説明された内容を思い出したのだ。

彼女は俺の方に視線を向けて、頷く。

「それがどうかしたかい?」

「その…何十年も未練の残ってる死者って、この世界だとどうなってるんですか…?」

そんな疑問が出たのは、嫌な想像をしてしまったからだ。

今見た死者でさえ、俺には酷く不気味なものに見えた。

しかし、ナハトの言では、今のは残留思念らしい。この夜界ではどこにでもいるとも言っていた。

なら、何十年何百年も未練を残した死者というのは、どういう状態なんだろうか。

俺の問いに、ナハトは少し考えた後、言った。


「丁度良い。今からそれが見れるよ」


「…え?」

固まる俺にナハトは近づくと、俺の肩を掴んだ。

「ちょっと掴まっていろ」


その途端、全身を浮遊感が襲った。


「うわっ!!?」

気が付くと、近くの民家の屋根の上に立っていた。

立っている場所が少し傾斜しているせいで、危うくバランスを崩しそうになる。

何故急にこんな所に。傍にいるナハトに尋ねようとするも、彼女は俺を見て人差し指を口に当てていた。

それで、黙っていた方が良いことが分かった。

それから、静かな声で彼女は言う。

「こちらから刺激しなければ大丈夫とは思うが、万が一だ」

俺の頭には疑問符しか浮かばない。一体何の話なのだろう。

そう思う間に、彼女は今しがた俺達が立っていた通りを指さした。


何か巨大なものが、そこを横切ろうとしていた。


目を凝らす。


そこを悠然と歩いていたのは、巨大な黒い煙の塊だった。


牛や馬よりも大きい。象くらいありそうだ。

先程の死者と同じように黒い煙が身体を構成しているが、服のようなものを身に着けておらず、四足で歩いているように見える。

眼と思われる辺りに、黄色い光が爛々と輝いていた。

「な…」

それ以上、言葉が紡げなかった。

あんなに大きな生き物は、小学校の頃に遠足で行った動物園でしか見たことがない。

それから、俺とナハトは息を殺して、ソレが歩き去るのを見守っていた。

やがてソレがいなくなると、再びナハトは俺の肩を掴み、跳んだ。

浮遊感が再度身体を支配し、やがて再び路上へと戻っていた。

「い、一体アレは何なんですか!?」

「アレも死者だよ。ただ、あれは人間じゃないな。君の世界で言えば『動物霊』と言った所だろう」

彼女の言葉に、俺は耳を疑った。

動物園はこの町には無い。そもそも先程の何かは、象ほどの大きさだが象には見えなかったのだ。あんな動物見たことがない。

そう思っていると、彼女が説明を続ける。

「恐らく犬だろう」

「…犬には…見えなかったですけど」

「それはそうだろう。アレは長年思念を吸い続けた個体みたいだから」

彼女の説明に、俺は益々分からなくなった。

「思念って…」

「現世にいる、生きている人間や動物の感情だよ。怒りや悲しみ。そういったものが、夜になると死者達に力を与えるのさ」

「…そんなことが」

「君はこういう経験ないか?何かに怒っていたり悲しんでいたりした時に、一晩寝てそれが和らいだこととか」

彼女の言葉に、俺はこれまでの人生でそういうことがあったか思い返してみた。

確かに子供の頃、友達や妹と喧嘩した時や、大事な玩具を亡くした時、一晩寝てその感情が和らいだことが無いではなかった。

「それは…確かにあります」

「そういう場合、その感情が負のエネルギーとしてこの世界に送られるのさ。で、ああいった動物の魂がその感情を吸って、巨大化する」

「でも、そんな感情なんて幾らでも…」

「そうさ。何千何万の人間の負の感情なんて幾らでもある。それを吸ってはああして巨大化する存在がいる。だが巨大化するだけだ。ああしてこの世界を彷徨い続け、気が済んだら死後の世界へ行く」

「じゃあ…今俺達が見たのは」

「ああ。長年この世界で負の感情を吸収した犬の霊だろう。こっちから刺激しなければ、ああして路上を彷徨い続け、やがて夜界から消えるのさ」

あんなに巨大化しても、気が済んだだけで消えるのか。

あまり腑に落ちない感覚があったが、そう考えている間に彼女は続きの言葉を紡いでいた。

「勿論、アレも下手に刺激すれば、魂を食い殺されるだろうな。犬だし」

「ナハトさんでも、ですか?」

俺の言葉に、少し楽しそうに彼女は言う。

「そうだな…私なら、食われる前に逃げるね」

そう言うと、彼女は再び歩き出した。

そうしながら、再び着いていく俺に、彼女は説明を続ける。

「言っておくが、珍しくはあるがああいう存在は数多くいるぞ。そいつらを掻い潜って、君の猫を見つける必要がある」

そう言われて、改めて俺は身震いした。


どうやら、やはり俺は厄介なことに首を突っ込んでしまったようだ。



それからしばらく、俺もナハトも無言で歩いていた。

俺は歩きながら、今夜足を踏み入れてしまったこの世界、夜界での出来事を思い返す。

そうしていて、ふと気づいた。

先程のカフェで、ナハトはソラを見つけるための報酬が、俺の感情だと言っていた。

さっき見た『犬』。それを巨大にさせたのも、人間や動物の、負の感情だという。


それは、つまり。


その考えを口に出そうとして、隣の方へ視線を向ける。

「…ナハトさん?」


ナハトの姿は、そこには無かった。


驚いて振り向いても、どこにもその姿を見つけられない。

「…どこに…」

周囲に視線を巡らせて、気づいた。


視線の先に、煌々と道を照らす街灯が見える。


恐る恐る、そこへ歩いて行ってみる。

どこにも何もいない。ただ、そこから見える通りの先には、街灯が全て灯っていた。

あれ?まさか。そう思い、俺は空を仰ぐ。


あれだけ明るく地上を照らしていた満月も、数限りない星々も、どれだけ目を凝らそうとその姿は見えなくなっていた。


そして、よく見ると周囲の光景は、俺が光る蝶を最初に見つけた辺りの、駅前から自宅に帰る途中の道だったのだ。


「…マジか」

そんな言葉が、口をついて出ていた。

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