夜界奇譚

blazer

東八雲の夜

第1夜:正子

暗闇の中、俺は走り続けていた。


ただひたすら、逃げていた。追って来る何かから。


何が追ってくるのかも分からない。


だが、何かに追われていて、捕まってはならないということだけは確信していた。


しばらく、無我夢中で走り続けて。


逃げ切ったかと思い、振り返った。振り返ってしまった。


そうして俺が最後に見た光景は。


自分に向かってくる、白刃と、ピエロの仮面。


「うわぁ!!」

耳元でけたたましい金属音が鳴り、俺は飛び起きた。

周囲を見回し、ここが自分の部屋だと気付いて、傍らの目覚まし時計を止める。


いつもの部屋。いつもの自分。窓から差し込む、いつもの朝の陽ざし。


ただ一点、全身が汗びっしょりだという点を除けば、全ていつも通りだった。

今は秋口で、それほど暑くはないというのに。


「…何なんだ、一体」


俺――東八雲あずま やぐもは、そう呟いて肩を落とした。



高校に入学してから、早半年。最初の頃こそ、新しい生活での緊張や勉強の難しさなどから日々を過ごすので精一杯となっていたが、今はそれにもようやく慣れた頃だと思っていた。

それがあんな悪夢を見ることになるとは。

あまり優れぬ気分のまま。俺は着替えて階段を降り、洗面所で顔を洗った。

洗面所の鏡を見る。あまりにリアルな悪夢だったため、自分の顔もどうにかなってしまったかと思ったが、杞憂だった。

別に一夜にして筋肉質になったりしたわけでもない。同年代に比べて少し背が高いが、普通の高校生が俺だった。

悪夢が俺の身体に何ら影響を与えていないことが分かり、安心してリビングに向かう。

「昨日隣の奥さんから聞いたんだけどね、お向かいのお爺さんが亡くなったって」

「本当か。もう結構な歳だったしなぁ」

リビングから親父とお袋のそんな会話が聞こえてくる。今朝からあまり明るくない話題だった。

「おう、おはよう」

俺の姿を見るなり、食卓に座る親父がそう声をかけてきた。

相変わらず厳しそうな顔つきだ。これから会社に行くのだろう。朝食に手を付ける前に新聞を読んでいる。そういう順序が日課なのだ。

「…おはよう」

「おはよう、朝食出来てるわよ」

食卓に座ると、お袋もそう声をかけながら朝食を運んでくる。

中学を卒業する前くらいにはもう俺の方が背を越してしまっていたお袋だが、その振る舞いは俺より元気だ。

いつもマイペースで陽気だが、よくこちらの表情や仕草で調子が良かったり悪かったりを読み取ってくる。

やはり今日も、俺の顔を見るなり、怪訝そうな表情で尋ねた。

「…大丈夫?顔色悪いけど」

「いや、何でもない」

そう答えながら、俺はテーブルを挟んで向かいに座る妹の方に視線を向ける。

俺より早く起きて来たらしい妹は、既に朝食を食べ終えそうな様子だった。

「八雲、ひょっとしてまた夜更かししたの?ちゃんと寝た方がいいわよ」

お袋にそう言われて、そう言えば確かに昨夜は遅い時間までゲームをしていたことを思い出した。

悪夢はこれが原因か。

俺は苦い顔で頷くと、朝食を食べ始めた。


食べ始めてからしばらくして、一足先に朝食を食べ終えた妹が近づいてくる。

俺と違って背が低く、長い茶髪を二カ所で纏めている。今年で14歳、中学二年の筈だ。

妹はどうも中学に入ったあたりから素行が悪くなり、両親と言い争いをしている姿をよく目にする。俺に対しても小学生の頃はよく話していたし、宿題やらで頼られることもあったのだが、最近はめっきり会話が無い状態だった。

「兄貴、これ」

それと、いつのまにか俺のことをと呼ぶようになっていた。


それはそれとして、妹が差し出してきたのは束ねられた多量のチラシである。


予想通り、それは飼い猫の捜索のためのチラシだった。

家で長年飼っていた猫――『ソラ』という名だ――が姿を消してから、もう一週間。

寅柄の猫で、老猫と言えそうな歳なのだが、あまり太っていない。最近は餌もあまり多く食べていなかった様だ。

お袋や妹とよく遊んでいたが、それでいてどこか孤高とでも呼べるようなところがあり、昼間はよくどこかへ姿を消して、夕方くらいにいつのまにか戻ってくるということが多かった。

それがある日、夕方になっても帰って来ず、それ以来家族全員――主にお袋と妹だが――で近所を探し回っているのだ。

俺自身はそんなにソラと仲が良かったわけではないが、妹の方は、物心ついた頃からソラと一緒に遊ぶことが多かったため、この1週間は目に見えて落ち込んでいた。

そういう経緯で、お袋と妹はソラの写真と連絡先――家の電話番号だ――を記載したチラシを作成して、近所に貼って回っている。


「兄貴も、学校行く途中で貼っといて」

そう差し出されたチラシの束を、俺はしかし、受け取らなかった。

あの悪夢のせいもあったのかもしれない。

「…なぁ、もう諦めた方がいいと思う」


俺の言葉に、妹が殺気を込めた眼で睨みつける。


「…どうしてそんなこと言うの」

妹の言葉に、俺は意を決して自分の意見を言う事にした。

ここは東京ほど都会ではないとはいえ、少し不安だったのだ。家の電話番号が記載されたチラシがそこら中に張り出されているということに。

「どうしてって、誰でも見える場所にうちの電話が書いてあるのって問題だろ」

「そうでもしないとソラが見つからないでしょ!?」

「そりゃそうだけど…!」

「やめろ、お前ら」

妹と俺の口喧嘩に、親父の静かな言葉が割り込む。

新聞から俺達の方に視線を向けた親父は、静かに言った。

「八雲、茜の手伝いくらいしてやれ」

「だけどさ…!!」

尚も言い募る俺に、親父は無言で睨みを利かせる。それだけで、俺は言い返す気力が尽きていた。

「分かったよ」

言いつつ、視線を妹の方に向ける。尚も先程の、殺気を含んだ眼が俺を待っていた。

「…もういいよ…!!」

俺がチラシを受け取ろうとすると、差し出していた手を引っ込めて妹が踵を返す。

そのまま憤然と、リビングを出て行ってしまった。



別に、ソラがいなくなったことを気にしていないわけではない。

お袋や妹ほど遊んでやっていたわけではないし、世話もあまりしてはこなかったが、俺なりにいなくなったことに心を痛めていたのだ。

ただ、ソラはもう大分歳を取っている。俺が物心ついてからしばらくして親が拾ってきた猫だから、もう寿命も近い筈だ。

猫は自分の死期を悟ると、飼い主の前から姿を消すと聞いたことがある。だから、既に俺自身の心の整理はついていた。

ただ、それが妹にはできていなく、そんな妹を気遣ってはやれなかった。それが俺の落ち度だろう。

そんなことをグルグルと考えながら、俺は登校していた。



「おーう東ー」

登校して席に着くなり、友達が声をかけてくる。

応馬大輔おうま だいすけ。俺より少し大柄で、バスケ部のせいか俺より筋肉質だ。代わりに勉強の成績は若干厳しいらしく、期末テスト前はよく一緒に勉強している。

「ゲーム進んだかー?」

「あぁ、昨日遅くまでやってたせいで寝不足だよ」

「あー、確かにそんな顔してんなお前」

笑いながら言う応馬に、俺も笑いかける。

最近、応馬と俺は同じゲームをやっていて、学校に来る度互いにどう攻略したか教え合っているのだ。

「東は今どこやってる?」

「あぁ、俺は今5面やってる。ただ、出てくる敵が苦手な奴でさ」

「苦手?」

「蛇の敵。グラフィックリアル過ぎだろ…」

「ハハハ、そういやお前蛇苦手だったな」

俺は苦笑した。応馬の言う通り、俺はどういうわけか幼い頃から蛇が苦手なのだ。

そういった感じで、ゲームの話題に花が咲く。

しかし、しばらくして応馬が話題を変えた。

「そういや、お前んちの猫、まだ見つかってないんだって?」

そういえば、ソラの件はコイツに話していたのだった。

「あぁ、その件で今朝から妹と喧嘩になった」

「顔色悪いのはそのせいか、大変だな」

そうこうしているうちにチャイムが鳴り、応馬は席に戻って行った。



特に代わり映えのしない授業が終わり、放課後になる。

応馬と違って部活に所属してない俺は、しかしそのまま帰る気にもなれずにいた。

朝に妹との一悶着があったせいだ。そのせいで、妹というよりかはソラに妙な罪悪感が残ってしまった。俺自身は心の整理がついたと思っていた筈なのに。

そんなわけで、気が付けば俺は図書室に来ていた。

「…あるわけないよなぁ」

高校の図書室に、猫の生態を載せた本など無いように思えた。

それでも、関係のありそうな本――といっても動物の図鑑だ―――を探し出してくると、図書室の席に着き、猫の生態が載ってないか探し始める。

どれほど時間が経ったろうか。結局、死期を悟った猫がどんな場所へ行くかなんて載っている筈も無く、がっくりと肩を落とした。


「東君、ここにいるの珍しくない?」


急に声をかけられて、俺は肩を震わせた。

声のした方を見ると、見覚えのある女生徒がそこに立っていた。

有明黎香ありあけ れいか。俺と同じクラスで、席も近い。とはいえ、あまり話したことはない。

俺より背が低く、茶色がかった髪が肩下まで伸びている。

容姿端麗で成績優秀、運動神経も抜群で性格も明るい、非の打ち所が無いと評判の生徒だった。

ただ、いつも授業が終わるとすぐに帰宅し、時折先生に呼ばれて早退していた。部活に入っているという話も聞かない。厳しい家庭環境なのかな、と応馬と話したのを憶えている。

そんな彼女が、放課後の図書室に現れたのは想像の埒外だった。

「有明さん?何でここに?」

「猫?」

俺の質問には答えず、彼女は俺の見ていた図鑑を一瞥する。

図鑑は、当然ながら俺が猫を調べていたページだった。

「あぁ、ちょっとうちの猫が行方不明になっちゃってさ。猫が行きそうな場所ってどういう所なのかなーって調べてて…」

「…」

何で俺は同じクラスとはいえあまり話した記憶の無い相手にこんなことを説明しているんだろう。そんなことを思いながら、俺は有明さんの反応を待っていた。

「探し物を見つける方法なら知ってる」

「マジで?」

予想外の回答に、俺は面食らった。

そして、直後にその言い方に疑問を持った。探し物を見つける方法?まさかダウジングとか言い出すのだろうか。

彼女が何を言い出すのかと妙に緊張しながら、俺は言葉をの続きを待った。


「新月の夜、深夜0時に、駅前の広場に行ってみて」


「うん?深夜0時…?」


「そこで待っているとね、光る蝶が飛んでくるの」


「…光る蝶?」


「その蝶を追っていくと…妖精が現れて、探し物を見つけてくれるんだって」


彼女が突拍子もなくファンタジーなことを話すので、俺は硬直していた。

というか、彼女はこんなキャラだったのか。クラスで他の女生徒と談笑している時は、そんな様子など見たことなかったのに。

終始真顔で話していたので、今の話が本気なのか冗談なのかも分からない。

そう思っていたら、ほんの少し彼女は笑みを浮かべて言った。

「なんてね…都市伝説よ」

「は…はぁ」

そう言うと、踵を返した。

「藁にもすがりたいなら、試してみるといいかもね」

そう言い残して、彼女は図書室を出て行った。

「…何だったんだ」

妙に疲れた。今何時だろう。

そう思って図書室の時計を見ると、時計の下にカレンダーがかかっていた。

今月のカレンダー。おまけで各日付の月齢も載っている。


新月は、今夜だった。



帰宅し、宿題をやって夕食を取る。親父とお袋はいつも通りだったが、妹は俺に目も合わさない。

俺はそこまでの事をしたか?という苛立ちと、少しの罪悪感とがない交ぜになる。

そんな鬱屈した感情をぶつけてやりたくなったが、どうにか堪えて自室まで帰った。

「ったく…気にしたら負けだな」

そう呟いて、自室のテレビを点けて、ゲームを起動した。

昨夜途中まで進めていたゲームだ。早く進めないと応馬に先を越されてしまう。

あいつは人にネタバレするのが好きだ。俺より先に進んだと知ったらストーリーの先の部分を嬉々としてネタバレしてくるだろう。

早い所先へ進めなければ。そう思い、俺はゲームに熱中した。


その筈だったのだが。


午後9時。午後9時半。午後10時。午後10時半。

気が付くと、視線が部屋の時計に吸い寄せられてしまう。

ゲームに熱中していたいのに、頭の中で家から駅まで歩いてどのくらい時間がかかるか計算してしまっていた。

住宅街のここから駅までは、およそ1~2キロくらいだろう。歩いていけば、20分くらいか。意識して早足で行けば15分くらいで着くかもしれない。

そんなことを考えていたら、テレビ画面の中の俺は敵に殺されてしまっていた。

「…あぁ糞!」

ゲームの電源を切り、俺は着替えた。

お袋はもう就寝しているだろう。親父はまだ家に持ち帰った仕事をしているかもしれない。

そう思い、俺はできるだけ音を立てないように廊下を歩いて、家を出た。


『月見駅』。この駅の名前だ。この駅名と同じように、俺の家があるこの町は『月見町』という名である。

東京から電車で1時間以内には着くので、それほど田舎ではない、と思いたい。他の町に対して誇れるほどの何かがあるわけではないが。

そんな俺の認識の通り、この町の駅は田舎ほど寂れてはいないものの、大都会のそれほど大きなものでもない。

ただ駅前の広場には、特徴的な白色をした四角柱のオブジェが等間隔で円形に置かれており、その頂上同士も屋根のように繋がれている。高さは4メートルくらいあり、世界遺産のストーンヘンジみたいだ。その一つの傍らに俺は立っていた。

もうすぐ冬であるせいか肌寒い。ジャケットを着てきたのは幸いだった。

家を出る前に持っていった腕時計を見ると、時刻は深夜0時10分前。終電はまだ先だから、人通りが皆無なわけではない。

残業帰りみたいなくたびれたサラリーマンや、飲み会の帰りらしい見るからに酔っ払ったおっさんが、駅前の通りを歩いていく。

こんな時間だ。不良に絡まれでもしたら面倒なことになる。

あと20分ここにいて、何も無ければ速攻で家に帰ろう。明日も学校だし。そう思い、俺は首筋に吹き付ける北風に耐えながら、ここで待っていた。


果たして、目的の0時になった。当然ながら、周囲の様子は変わりない。


「…眉唾だったな」

改めて周囲を見回すが、やはり光る蝶なんか見つかりはしなかった。



有明さんは、何故突然俺に都市伝説なんか話したのか。俺がオカルト好きにでも見えたんだろうか。たとえそうだとしても、これまで半年間碌に話したことも無い俺に、突然あんな話をするとは。

傍から見ている分には、彼女は非の打ち所の無い優等生に見えたんだが、意外な面があったんだな。

そんな風に同級生のことを考えながら、俺は帰路についていた。

「担がれたかな」

自嘲気味にそう呟き、頭上を見る。


「…え?」


俺の真上に、蝶が飛んでいた。

冬が近いこの季節に、蝶なんて飛んでる筈が無いのに。



気が付けば、俺の足は家への方角から、その蝶の向かう先へと変わっていた。

蝶はそんな俺を翻弄するように、頭上から降下したかと思うと、俺の前方をヒラヒラと舞う。

光る蝶と有明さんは言っていたが、見た感じ鱗粉が光に青く反射しているように見える。名前は忘れたが、南米かどこかにいた種だったように思う。

そんな蝶が日本に、しかも冬が近いこんな季節に生きている筈も無いのだが、どこかの金持ちが飼っていたのが逃げ出したのだろうか?

そんな考えが浮かびつつも、それでも俺は追いかけてしまっていた。


「っ!?」


蝶が曲がり角の街灯の下を通ったと思った瞬間、視界から消え失せていた。

光のせいで一瞬見難くなったせいだ。その曲がり角まで来て、俺は途方に暮れた。

「あっ…!」

曲がり角の先の通りの、向こうの方に見つけた。やはり相変わらず、俺の心境なんてどこ吹く風とでも言うようにヒラヒラと舞っている。

俺は駆け出した。


どれほど時間が経ったろうか。

いつしか、俺はここが町のどの辺りなのか、分からなくなっていた。

気が付くと周囲に街灯も無いことに気づく。今日は新月だから、月の光も無い筈だ。それなのに、やけに辺りが明るく感じられる。

暗闇に目が慣れたのか?そう考えてみたが、何か違う感じがする。

俺は蝶を追いながら、頭上を見上げた。


驚愕した。

空には、これまでプラネタリウムくらいでしか見たことが無いような、多くの星々が空に瞬いていたからだ。

そして今日は新月だった筈なのに、不気味なほど明るい満月が、煌々と夜空を照らしていた。

「な、何で…」

何で月が出ているんだ。それもあるが、星々の多さにも驚きが隠せない。飛行機の光なんかでないことは明らかだ。

こんな夜空は見たことが無い。まるで、町から一斉に明かりが消えたかのようだ。

普通は、いくら深夜でも街灯は付いている筈だ。それに駅の周辺は24時間営業のコンビニもある。つまり、こんな夜空はあり得ない。

空の光景に気を取られて、俺の頭から蝶の存在は消し飛んでいた。



どれくらい時間が経っただろうか。再び通りに目をやると、もう蝶は視界から消えている。

そして周囲は、多数の民家に囲まれてはいたものの、俺の見覚えのある通りではなくなっていた。


急に、凄まじい焦りが俺の中に芽生えてくる。衝動的に、駆け出した。


いつのまにやら、俺は異世界にでも来てしまったのか?

もしそうだとしたら、俺は戻れるのか?

それとも、幻覚でも見てるのか?

そんな考えが一挙に頭の中を吹き抜け、どこかに見覚えのある景色が出てくれることを願いながら、俺は走っていた。



遂に息が上がり、俺は立ち止まって必死に呼吸する。

どこまで走っても街灯に出くわす気配が無い。それどころか、今までずっと住んでいた町なのに、見覚えのある景色にも出くわさなかった。

そんな時だ。コツコツと足音が聞こえてきたのは。

顔を上げると、通りの先から、スーツを着たサラリーマンらしき人影が歩いてくるのが分かった。

俺は必死に、そのサラリーマンに向かって駆け出した。こうなったら、あの人に駅の方角を聞くしかない。方角さえ分かれば、そちらへ進めばいい筈だ。

「あのっ!!すいませ…」


愕然とした。


そのスーツを着たサラリーマンには、頭が無かったからだ。


頭のあるべき場所に、黒い煙のようなものが渦巻いている。


袖口からも同じように煙が噴き出しており、まるで煙がスーツを着ているかのようだった。


そして『それ』は、カクカクと不気味な動きで、ゆっくりと俺の方へ歩いてくる。


「ひっ!!?」

そんな悲鳴を上げて、俺は元来た道を全速力で駆け出していた。

何だアレ。何なんだアレ。

俺は夢でも見ているのだろうか。本当は駅前の広場になど行っておらず、昨日と同じようにゲームをしたまま寝てしまっているのか?

むしろそうであってくれ。そう願って目を瞑ったが、再び目を開けても、景色は変わりはしない。周囲には暗闇に包まれた民家と、星々と月が見える。

どうにかして、ここから出なければ。俺はもう、ただそれだけを考えて、路地裏を闇雲に走り続けていた。



視界に、蝶が再び現れたのはその時だった。

視線の先、通りの遥か向こうに、相変わらずヒラヒラと舞う姿が見える。

さっき見ていた時より明るく、その羽根から発せられる青い光が、辺りを照らしていた。

それは再び通りを横切って、俺の視界から消えようとしている。

「待て!待ってくれ!!」

あの蝶を追いかけていけば、探し物を見つけてくれる妖精が現れる。そう有明さんは言っていた。

都市伝説だと言ってたが、こんな世界に連れてこられたら信じるしかない。そして、そんな話が伝わってるってことは、この世界から脱出した人間がいる筈だ。

そんなことを考えながら、俺は懸命に蝶を追いかけた。


そして。


「…え?」


路地を出て視界が開けたと思った瞬間、駅前にあったストーンヘンジみたいなオブジェが、再び俺の前に姿を現していた。


「…あ、あれ?」

円形に配置された、高さ4メートルくらいの四角柱のオブジェ。頂上同士が繋がっているのも同じだ。

駅前の広場にあったのと同じものだが、違うのは、周囲は駅前の広場などではないということだった。

「ここ、どこだ…?」

オブジェを取り囲んでいるのは住宅街の家々で、それらの家から距離を取って、この場所に配置されている。

そんな俺の当初の目的を思い出させるように、いきなり視界の前をあの蝶が横切った。

蝶を目で追うと、ヒラヒラと空中を上昇していく。

「っ…!?」


息を呑んだ。オブジェの上に、人が座っていたのに気付いたからだ。


そこに人がいたなんて、その瞬間まで気が付かなかった。

俺が気付いたのを見計らったかのように、その人物は言葉を紡ぐ。


「帳は落ちた」


その声が高く細かったので、女性だと分かった。

やけに明るい月に照らされて、その人物の姿がよく見える。

腰まで長い白髪。藍色の裾の長いコート。鍔のある帽子を深く被っており、顔はよく見えない。片手に長いキセルを携え、キセルの先からは煙が漂っていた。

下半身は灰色のスラックスに黒いブーツで、オブジェの上に片足を乗せ、膝にキセルを持った片腕を乗せている。

そして座っているものの、かなりの長身であることが見て取れた。恐らく、俺より背が高いだろう。

そして、俺を導いた蝶は、その女性が持っていたキセルの先端に止まると、そのまま煙のように消えてしまった。


「ようこそ、『夜界』へ」


そう言うと、その女性は立ち上がり、軽い動作でオブジェから飛び降りる。

まるで下から強い風でも吹き付けられたかのように、女性はふわりと地面に降り立った。


明かりの差す角度が変わり、女性の顔が露になる。

俺も息を呑むほど、整った顔立ちだった。

ただ。

褐色の肌。切れ長の目。赤い瞳。そして普通の人間でいう白目の部分は、漆黒に染まっていた。

それが、目の前の女性が普通の人間でないことを物語っている。


有明さんの話は、眉唾物だと思っていた。

それでも、妹との一件で俺の心にしこりがあり、それをどうにかしたかった。

でも、たったそれだけのことで、俺は取り返しのつかないことに足を突っ込んでしまったらしい。


女性は、歯を見せて笑みを浮かべた。


「歓迎しよう、彷徨い人よ」


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