厄介な性分
〜2.厄介な性分〜
夜明けの光の当たらない屋根裏部屋の中、陰を帯びた茶の瞳が微かに揺らいだ。
空気を飲み込んで、喉が上下する。
ほんの少しだけ手を動かして、震える指先を自覚して、シェーナは動作を止めた。
ふぅ、と軽く溜息をつくと、気が抜けたような、呆れたような笑みを浮かべる。
紙を掴んで一瞥すると、無数に発生させた風の刄で微塵に切り裂いた。
「……薬草知識も豊富なのね。確かに、調合すれば解毒に効く薬になるわ。それに、この辺で採取可能な草ばっかり羅列してある。……まったくもう」
シェーナは不敵に微笑むと、交渉は決裂だからよろしくね、と歌うように言いながらアズロの服に手を伸ばす。
抵抗する厄介な手を押しのけつつ、袖口や足元に仕込まれた数々の武装を解除させつつ、慎重に腕や足を覆う服をまくって幾つかの傷の形、皮膚状態、脈と呼吸の変化、痛覚と高熱とを再確認すると、シェーナは自分の服の懐を探って一つの小瓶を取り出した。
悪いもんじゃないわ、毒でやられてる人に毒を入れる必要はないしね、と一言断ってから力技でアズロの口を開かせると、小瓶の中身を流し込む。
アズロの鼻と口を押さえて半ば強引に飲ませると、少しの間反応を確かめてから、ゆっくりと深呼吸した。
一言一言、息と同時に吐き出すように、言葉を口にする。
「侵入者対策の致死毒ね……間に合ってよかった。これだけ毒矢連射をくらって長い時間もってたのが不思議だわ。……この薬なら効く。安静にしてれば大丈夫。だけど、あと少しは起きてなさい。苦しいだろうけど、今寝るとさらに身体機能が低くなる」
「……」
何度か軽く咳をした後、アズロはきょとんとした眼差しで傍のシェーナを見つめた。
「……シェーナさん、これってぐん──」
「余計な口叩かないで黙って下さいねアホズロ師団長。……確かに貴重品よ。接近武器での致命傷は全部避けたくせに厄介な矢を浴びてきたどこぞの間抜けになんて使いたくなかったわ」
口を開きかけたアズロの言葉を制止しつつ、でも、とシェーナは呟く。
屋根裏部屋にほんの一筋だけ差し込んだ光を見て、ゆっくりと口ずさんだ。
「悪夢が増えるよりはずっとマシ。……いいよ別に、大罪人になったって。師団長だろうが何だろうが、助けたことは後悔しない。……あなたに言われた通りの……今のあなたにはろくに役に立たない薬草を集めてきて調合して手渡して、見返りに衰弱してくあなたの最期を看取りながら、ずっと欲しかった情報を得られたとしても……その後一生夢見が悪くなるに決まってるわ」
吹っ切れたような、晴れ晴れとしたシェーナの物言いに、アズロは瞳を細めて微笑んだ。
何度か浅く呼吸を繰り返した後、落ち着くことのない息苦しさに苦笑しつつも、面白そうに呟く。
「安く買える得を……蹴って、損だらけの……ことするなんて……奇特な人だね」
シェーナは片手で自分の肩を叩きながら、呆れ笑いを浮かべた。
「察しはついてたんでしょ? 簡単に解毒できる並の毒じゃないって。……なのに私にあんなくだらない条件提示して、一方的に貴重な情報教えようとしてたあなたの方が奇特よ」
「あー……あはは……」
荒くなる息遣いを抑えながら、アズロはシェーナを見据えて語る。
普段より少しだけ低めの声で、ゆるやかに。
「……僕は……毒には耐性がある。並大抵の……毒なら、死なない。ある程度経てば回復するんだ。……でも、限度もある。万一の時……シェーナさんが……薬草を採って、調合して……それだけの時間が……経っても……悪化が進むなら……真に、交渉を……成立させようと思った」
結局決裂した挙げ句、特効薬までもらっちゃったけどね、と笑うアズロを少しの間黙って見つめたシェーナは、姿勢を保とうとするアズロの体を無理矢理横たえると、ぽつりと呟いた。
「あなたも、私の大切だった人も、こんな状態になってやっと初めて口にする……。ラナンキュラスって……厄介そうね」
シェーナの表情が、ほんの一瞬だけ懐古に染まる。
いとおしむような、何かをひどく憂うような眼差しに気付いて、アズロはそっと目を閉じた。
「……あともう少し……起きてなきゃ駄目……なんだよね? なら……ひとつ……聞いていいかな。シェーナさんにその……言葉を……伝えた人の……髪と眼は……何色だった?」
問うたアズロに、シェーナは大切だった人を、もう手の届かない人を想いながら、静かに答える。
「金色に輝く髪と、不思議なくらいに澄んだ青い瞳をした……春風みたいな人だった。性格は全然違うけど……今思うと、纏っていた雰囲気がほんの少しだけ、あなたに似ていたわ。時折遠くを眺めて、何かを考えているような所もね」
アズロは瞳を閉じたまま、息苦しさと熱とは別に込み上げてくるものを抑制しながら呟いた。
微かな、僅かな声の揺らぎが、荒い呼吸に紛れて沈む。
「……そう……か。……結びし……鳥の……あの子が──。……ありがとう、シェーナさん。ありがとう……」
瞳をゆっくりと開くと、アズロは心底嬉しそうに、けれどとても悲しそうに微笑んだ。
普通に笑っているのに、ちらちらと、相反する二つの感情が見え隠れする。
いつものへらへら笑いではない感じの笑みをただ見つめるシェーナに、アズロは一言だけ言って、誘われるように眠りにおちていった。
「アズロ・ラナンキュラス。……僕の名です。宜しくね、シェーナさん」
「……」
静まり返った部屋に、落ち着かない調子の寝息が小さく響く。
苦しげな浅い呼吸が続いた後、ゆるやかな呼吸に戻り、また荒い呼吸に。
何度かそれを横目で見つつ、シェーナは溜息をついた。
薬と毒との攻防が、薬が勝つ形で早々に落ち着くことを願いつつ、顎に手を当てて少しの間何かを考えると、眉間に皺を寄せて唸る。
「油断できない病状の厄介者に、油断できない周囲の状況って……。……あーあ、アホは私か」
朝の光が差し込む自室に一度降り、素早く屋根裏に戻ると、シェーナの貰った金髪の鬘をアズロに被せ、空色の髪を中にしまい込んだ。
自室のベッドに重ねられていた掛け布のうちの下の一枚をアズロにかけると、いつも通りの時間に、朝食を取りに下りる。
いつもと同じ時間をかけて食事を済ませると、食事をしながら周囲の目を盗んで懐にしまった朝食の半分を落とさぬよう細心の注意を払いながら、自室へとゆっくり戻っていった。
昨日街全体を歩き回って疲れたから、疲れがとれるまではゆっくり宿で過ごしたい。
シェーナは、宿を切り盛りする女性にそう断っていた。
何度か一階に下りて来てはテーブルで本を読んだり、時には他の客たちの会話に混ざったりと、のんびり過ごすそぶりを見せながら、屋根裏に置いてきた患者の容態を思って冷汗をかく……それが二日ほど続いた日の晩。
屋根裏に戻ったシェーナは、久々に、本当に久しぶりに、立ち姿……飄々とした風貌のアズロの姿を見た。
シェーナに気付くとアズロは少しだけ目を伏せて、ありがとう、と笑った。
いつもの真意の解らない柔らかな微笑みに似て非なる、その小さな微笑みに、シェーナはただ笑みを返す。
「もうしっかり立てるようになったのね……驚いたわ。あなたは治りが早い」
アズロはシェーナのその言葉を聞くと、面白そうにくすりと微笑んだ。
緑の瞳が、穏やかに、茶の瞳を映し出す。
毒との攻防を繰り広げていた時にシェーナがかけた一言一言を思う。
毒が致死毒の一種で強力だということは口にしても、特効薬の効果はそれを上回るほど甚大だと言ったシェーナ。
この薬なら効く、と断言した揺るぎのない瞳。
力強い眼差しと、自信溢れる微笑み。
諦め悪くも生を……今後為すべきことを想い渇望しているアズロに、生存確率の低さを覚らせないような振る舞いの数々。
「シェーナさんは立派な医者だね」
ゆったりとした笑顔に、シェーナは瞳を揺るがせた。
動揺のような、呆れのような、面白いような色が、映し出される。
「あなたは……」
アズロの言葉の意図したことを理解して、シェーナは溜息とともに口を開いた。
「まったく……。……ええ、そうよ。あなたの負った毒は、もちろん治すことなんて考えて作られていてない。……あなたが治ったことは本当に奇跡的よ。あの特効薬だって、間違って味方にかすった時のための保険のようなもの。完全に効く薬なんて作られていないし、どこにもない。かすり傷程度なら効くけれど、あなたのように集中連射をくらったら間違いなくあの世行きだわ、即死でね」
早口に言うと、深く大きく溜息をつく。
シェーナはそのまま、体中の力が抜けたように床にへたりこむと、回復したアズロを見上げて、とても珍しい表情を見せた。
満面の、笑み。
嬉しさを溢れさせながらも、澄んだ風のように清々しい表情。
「──よかった」
普段の平坦さを逸脱した声音が、そっと響いた。
アズロはシェーナの傍にすとんと座ると、ふらつきかけたシェーナの体を支えて、ゆっくりと微笑む。
まだ若く、しかし強い想いの心を抱いた少女に、呟くように、言の葉を送った。
「我、蒼の民──響きの風に今宵、幸の祈りを捧げん」
アズロから発せられた何らかの力が、シェーナへと流れていく。
あたたかく柔らかいその力は、シェーナの疲労を拭い去り、何処かへと流れ去っていった。
シェーナは茫然とその感覚に身を任せ、その後戻ってきた体力と、綺麗さっぱりなくなった数日間の疲労とを認識すると、アズロに向かって微笑んだ。
呆れの混じった、いつものシェーナの表情で。
「……私が真面目な……生粋のヴァルド軍人だったなら、会うたび混沌が広がるような得体の知れないあなたは、とっくに通報されてるわね」
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