第四章 雲上のラナンキュラス

◇第四章 雲上のラナンキュラス◇

〜1.微かな戸惑い〜



 昔は知り得なかった、様々なことを知った。

 リリーではない能力……異能の力については、毎日のようにルーアンと一緒だったあの三月で。異能者の特異な立場や、役割などは、その後から現在にかけて。

 様々な場面に接する度に、知識が増えていった。


 一般にリリーの力は左手に宿るが、異能者は左手にリリーを持たない代わりに個々で異なる能力を宿すという初歩的なことから、リリーの清い力を信仰する姿勢をとり続けているヴァルドの守備の要所要所の大部分を、異能者が支えているという軍事機密まで……表裏、様々な事実。


「うーん……」


 夜明けの光がうっすらと差し込んできたラシアンの宿屋の一室で、シェーナは呟いた。

 知ったことも多いけれど、まだまだ、知らないことが多すぎる気がする。


「……」


 そっと、左手を動かしてみた。

 ほんの少し思念をこめただけで、ふわりと、そよ風が生まれる。

 シェーナの前髪が、少しだけ揺れた。


 リリーの力にも大小があるように、異能にも大小があって、指の先に微かに明かりが灯るような能力もあれば、半径百メートルの円の内部全てに洪水を起こさせるような能力もある。

 比較的危険度の低い異能を持つ者は、アフィリメノスの地下施設に併設された能力の研究機関に従事したり、一般兵に扮して兵役についたり、あるいは異能自体が発見されぬまま、リリーの力が開花しない者……未開者として民間で普通に過ごす者もいる。


 一方、攻撃性や防御性、特殊能力の高い異能者は、国の要所の守備や、偵察などの特殊任務を請け負う場合が多い。

 もっとも、攻撃性や防御性の高い異能といえど万能ではなく、能力発揮の持続時間……力がもつだけの時間は限られており、威力の高い能力を使えば使うほど体力は奪われる。

 交戦の状況によっては、一般兵より異能兵が不利になることもある。


 シェーナの能力は風を司るもので、慣れるまでにはかなりの時間を要したが、今ではだいぶコントロールが効くようになってきていた。


『……手の延長線上に線を描く感じ……、強張りすぎず、楽に息をして……。指先も、その先も、同じ身体のように……。そっと遠くを撫でる感じで……少しずつ、試してみてはいかがでしょうか』


 何気ない、いつかのルーアンのアドバイスが、今でもかなり役に立っている。


 ルーアンは、異能者それぞれに合わせたアドバイスが的確だった。

 まるでそれぞれの抱えた感情を読むかのように、個々のてこずっている所に的をしぼって助言する。

 シェーナの世話役を外れた後は、新たな異能者の補佐についたらしい。


 彼女は施設の中でもある程度自由に動ける立場にあり、施設の管理者と異能者とのパイプ役さえ果たすことがあった。


『それでも……最低限のことしか伝わってこないのよね……』


 度々ルーアンは嘆いていたっけ。

 曖昧な立場だわ、と、ふわりと笑っていた。

 少しだけ、淋しそうに……。


「最低限のことしか……か」


 シェーナは身仕度をしながら、小さく呟いた。


「力には慣れたものの……。まだ、解せないことだらけだなぁ……」


 髪を結おうとして、後ろに回した手を、ふと止める。


「解せないといえば……あの日の夢、最近はみなかったのに……どうして今頃……」


 素早く髪を結うと、後ろに回した手を正面へと戻し、顎に手を当てた。

 鮮明すぎる過去の夢を、反芻する。


「……ん?」


 脳内の映像が、シェーナの姉、シエラの、最期の微笑みと重なったところで、シェーナは眉間に皺を寄せた。


「……ラナン……キュラス?」


 ふと頭をよぎった言葉を、そっと、声に出してみる。


 助けてくれてありがとうね、と言ったシエラねえさん。

 ねえさんの、どこまでもあたたかい、最期の言葉……。


 だけど、あの後……

 あの後、ねえさんは言っていた。

 言って、言いかけて……そして……苦しい中、微笑んで……


 本当に、目を閉じたんだ。


『あなたが……いなかったら……わたしは……ラナン……キュラスの……おき……を……』


 ラナン……キュラス。


 ラナンキュラス。

 その言葉を、忘れはしなかった。


 色々な資料を漁ったけど、何の手がかりも掴めなかった。


 人に尋ねることはしなかった。

 シエラねえさんが、最期の最期まで、口にしなかったことだから……。


 言ってはいけない気がしていた。


 何の手がかりもないまま、今日まで……。

 だけど……どうして今…?


「……」


 シエラねえさんの微笑みと、ラナンキュラスという言葉が、何度も何度も脳内を廻って離れない。

 言い様のない妙な胸騒ぎが、シェーナの鼓動を乱した。




 ふと、何かに誘われるかのように、シェーナは天井を見上げた。


 同時に、小さな小さな、物音。


「……?」


 上を向いて静かにしていなければ──着替えていたり、何か作業をしていたら気付かない程度の、ごくごく小さな音が、天井に一度だけ響いた。


 この宿は一階と二階に客室があり、二階部分の上には、今はもう使われていないらしい屋根裏部屋がある。

 シェーナが泊まっているのは二階にある二室のうちの一室で、今現在、客は二階にはシェーナ一人、一階には三組の宿泊客がいる。

 シェーナの部屋は、ちょうど屋根裏部屋の真下にあたっていて──。


「猫さん? ……ってことは無いわよね。屋根裏部屋への入り口は鍵もかかってたし、隙間だって……。いや、鼠さんなら入れるかも……」


 声にならないような声で小さく呟くと、天井を眺め回した。

 鼠がいるなら、もっと頻繁に音がしてもいいはずだ。

 ここ数日静かだった天井に、ほんの少しだけ物音がしたのが気に掛かる。

 シェーナは小さな声で、小さな声ながら、屋根裏部屋から耳を澄ましていれば聞こえるであろう声量で、上を向いて語りかけてみた。


「誰かそこにいるなら聞きなさい、私はラシアン警備軍の者です。貴殿がラシアンの街に害なす者でないならば、早急に下りてきなさい。そこに入れたんだから、出ても来られるでしょう。……一度目の警告で下りてきたなら、悪いようにはしません。今ならまだ皆寝てるし、話すことだけ話してくれたら、軍の目の届かない所に逃がしてあげる」


 本音半分嘘半分の言葉を投げ掛け、待つこと一分。


 二分。


 返事は、ない。


 誰かいたとしたら、それなりの反応はあるだろう。

 逃げる気配も、上方からの攻撃の気配も無い。


 急に天井の雰囲気が変わった様子も無い。

 息を潜めたような緊張感も伝わってこない。


「……空耳だったかな?」


 ふぅ、と溜息をついてシェーナが呟くと同時に、上方から、微かな声がした。


「その声……それに気配……シェーナ……さん……ですね?」


 ここ最近聞いていなかったその声に、シェーナは瞳を見開いた。

 その後すぐに、声の不自然な調子に眉をひそめる。


「そういうあなたは北方の鳥で合ってるわね? 合ってるなら返事はしなくていいわ」


「……」


「……わかった。……屋根裏部屋には、階段以外にも繋がってるとこがよくあるわよね? 部屋から物を上げ下ろしできるような戸とか……あなたの近くに、この部屋と通じてそうな所はある?」


 少し急ぎ足にシェーナが聞くと、返事の代わりなのだろう、軽くコンコンと叩く音が、小さく天井に響いた。

 音が響いた辺りを見上げると、手近な机を引っ張って足場にして天井に近付き、天井に貼られた壁紙を傷つけぬよう、壁紙の途切れ目に合わせて、ギリギリまで細くした風の刄を当てていく。

 修復可能なように慎重に接着面を剥がすと、現れた戸をそっと開いた。

 机を支えにそのまま天井を…屋根裏部屋の床を掴むと、風の力を借り、一瞬だけ軽くした身で屋根裏部屋へと入り込んだ。


「はぁ……骨が折れる。いつも厄介な所に現れてくれるわね」


 溜息をついたシェーナの視界に、横たわるアズロの姿が映る。

 久しぶりだね、と小さく呟いたアズロの衣服の至る所に、くすんだ染みのようなものが浮かんでいた。


 こころなしか、顔色もよくない気がする。

 シェーナは服の中にしまっておいた、軍支給の小型の人工燈をアズロの身体へと向けると、思わず額に手を当てた。


 ……かなり熱い。


「……いつから。どこで。何があった? この際だから吐きなさい」


「昨日の深夜にここに。……傷は……首都付近で。たぶん毒に……」


「具合は」


「傷に……致命傷は無し。ただ、矢か何かの毒が……厄介……だね……」


 アズロは額にはりついた前髪を左手で後ろへと梳くと、そのまま左手の甲で脂汗を拭った。

 荒い息をなんとか整えると、上体を起こし、口の両端を上げてにっこりと微笑む。


「そうだね……吐け、と言われたから……今吐いておこうかな。僕は……セレス軍、特務師団の……師団長だよ」


 シェーナは微笑むアズロに、深い溜息をついた。


「馬鹿……。何故今ここでそれを言う……あなたはどこまで馬鹿なんです。余計に助けにくくなるじゃないの……」


 アズロは苦笑いすると、襟元に手をやり、服を掴んでぱたぱたと扇いだ。

 その後、一枚の紙切れをシェーナに向かって差し出す。


「いいんだ。……そこで、シェーナさん、僕と交渉する気はあるかな? この紙に書いてある薬草を、持ってきてほしい。代わりに僕からは、とっておきの秘密を教えるよ。……ラナンキュラスの伝承……とかね」



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