第10話 夏と海のまんなか




 船内のトウコちゃんはすっかり落ち着いたのか、元気そうな笑顔を向けて来た。ただ結構な距離を走ってたみたいだし、水分補給はしないといけないな。ペットボトル、一本しか買ってないけどあげちゃえ。


「トウコちゃん。ノド乾いたでしょ? これ飲みなよ」

「それはハルの飲み物。欲しくないです」

「欲しくなくても飲んで。あとで頭痛くなったりしたら困る」

「ふふふ……そう言うと思って、ちゃんと用意してあるもん」


 トウコちゃんは嬉しそうに、ポシェットから巻かれたタオルを手に取る。くるくると包みを外すと、ラムネが二本出てきた。道理で走って来る時にポシェットが重たそうだったわけだ。ラムネには水滴が薄く結露していて、よく冷えているのが分かる。


「ハルの分もあります。開けますね……わわっ」


 ラムネの蓋を押し込むと、勢いよく泡が噴き出した。

 滴った泡が床のタイルに落ちていく。


「え? あれ、なんで……?」

「走ってたから、ラムネが振られた状態になってたんだな。もう一本のラムネ、貸してみて……ビー玉を押す時に、こう、しばらく体重をかけてやれば……!」

「あ、中の泡が小さくなった!」

「これで大丈夫。はいどうぞ。俺はこっちね」

「ちょ、だめです! トウコが零れた方飲みます」

「あんまりノド乾いてないんだよ。それに、トウコちゃんが開けてくれたラムネが飲みたいッ!」


 一気にラムネを流し込む。

 冷たくてうまい……スポドリより何か炭酸系のジュース買えばよかったかな。爽快感が違う。トウコちゃんはちょっとむくれた顔をしていたけど、渋々ラムネを口に運び、何回かに分けて飲み干した。


「うう……せっかく用意したのに、ご恩を返せてないよぉ……」

「ありがとう。美味しかったよ。瓶はそこのペットボトルのとこにでも置いておいて。それで、屋上のブリッジに登ってみない?」

「まだクジラいないのに?」

「いいからいいから」


 冬子ちゃんを連れて、ほぼハシゴって角度の急な階段を登る。


「帽子を飛ばされないようにね。おお!」

「はい。あ、風が気持ちいい――」




 そこには空と海だけがあった。


 前も後ろも、右からぐるりと見回しても……青一面が広がっている。

 青すぎる世界。そのど真ん中。潮風に乗って浮かんでいるような、包まれているような錯覚さえ覚える。




「すごい! すごい! ハルっ! 海が!」

「なんて……! なんだこれ!? すっげえ!」

「どこまで続いてる!? この海っ!」

「水平線の先も海だ! うーみーだぁ!」


 声の出る限り叫ぶ。

 俺もトウコちゃんも、同じような顔をしていた。


 ブリッジの柵から身を乗り出しそうになっているトウコちゃんの手を捕まえた。トウコちゃんも手を握り返す。高さはそうでもないが、本当に落ちて吸い込まれそうになる……波を越えていく船の揺れが浮遊感をより強調させ、怖いくらいの絶景だ。

 太陽が海のしぶきに反射して、きらきら輝いている。


「ね、なんでわかったの!? ……手を繋いで欲しいって」

「そのまま浮かんで、飛んでいきそうな気がしてさ」

。心がどんどん軽くなって、ドキドキして、重たいものが消えていく。今まで知らなかった。こんな気持ち……!」

「確かに、悩みとか何もかもぶっ飛ぶくらい、でっけえよな」

「うん。きれいで大きい……トウコなんてあわ粒だ……あははっ!」 

「ちょ、はしゃいでると落ちる、てか揺らさないで怖い!」

「あ! ハルあれ! あれ見て!」

「んん? なに――」

『8時の方向。左ね。イルカの群れあり。……これたぶん船に寄って来るかもねぇ。近くで見るなら降りて来たら?』


 すぐ後ろの伝声管でんせいかんから、舵を取ってる人の連絡が聞こえた。トウコちゃんの指差す方向に眼をやると、イルカが列をなしてこっちに近付いて来る。列と言うより大群……百頭以上はいる! 船もルートが重なるようにスピードを調整しているみたいだ。


『ハセイルカの群れだねぇ。おほ、ざっと200頭くらいかな? 餌場に向かってる感じじゃないから、船遊びに来てくれたね』

「ハル、行こ!? イルカ見たの初めて! 近くで見ようよ!」


 トウコちゃんが手を引っ張って催促する。普段の大人びた表情と違い。はしゃいでいる様子だけ見るとずいぶん幼い印象だ。

 二人で甲板に降りると、ちょうどイルカの先頭集団が船を追い抜くところだった。遠目から次々に飛び跳ねるのも見ごたえがあったけど、真横から並走するイルカは近くて迫力すらある。


 大きくても二メートルちょっと。ハセイルカの群れ、そのほとんどが俺やトウコちゃんくらいの身長らしい。思い思いに交差して泳いだり、ざばざばっと潜水と浮上を繰り返すかと思えば、ジャンプしたり、尾びれで水面を叩いたり……鳴き声はちょっととんびに似てる。


「ね、いま鳴いた! ほら、あの子!」

「うん。分かった。分かったから身を乗り出さないで……!」

「もう少しで届きそうなんだもん! あ、さわった!」

「え、マジ?」

「おでこと身体なでれた……ちょ、ハル!?」

「俺も! 俺もイルカ触りたい! ヘェイ! ハセイルカ! キャナイタッチットオーケィ!? オゥ、イェア!」

「OKじゃないですっ! 止めて……危ない、落ちちゃうから!」


 トウコちゃん以上に手を伸ばしても、イルカたちは全然寄ってこなかった。ツンデレかな? それともフツメン以下NG。飛び抜けた美形にしかサービスしないってか? そりゃイルカは頭がいいって言われるよ。

 はしゃいでいると背中を力強く引っ張り上げられ、太い声がした。


「お客さん、それくらいで。海に落ちても回収はするが、わりと面倒なんで。お嬢も貸せるライフジャケットは用意してません。羽目を外しすぎるようなら、救助用の浮き輪くくりつけますよ?」

「久万倉さん、すみませんでした……つい興奮して」

「……悪かったわ。もう気をつけるから」

「お願いします。イルカの群れもそろそろ最後尾になりますから、落ち着いて見送ってください」


 ポケットから携帯を取り出して、録画を始める。防水カバーがあっても、操作性や画質にはさして影響はなかった。イルカの大群が横切る様子だけでも土産として申し分なし。


「人に慣れてるってか、しっかり認識してるって感じだったな」

「頭が良いよね。こっちまで楽しくなっちゃう。あ、最後に跳ねた!」


 イルカに手を振るトウコちゃん、ものすごい動画映えしてる。そういう舞台のワンシーンみたいだ。おお、つば広帽に手を添えて遠くを見る姿もいい。

 イルカ映ってる部分だけ切り取って、澪と高校メンツに送っとこう。トウコちゃんの声入ってるけど、ツアー参加客としてみんなにはイメージされるから問題ない――。


「あれ? 動画送れないな……」

「そりゃそうだよ。圏外だからねぇ」






 *  *






 振り返ると、舵取してる人が窓から頭を出していた。気弱そうだけど偏った知識と知性を感じる顔つき。電車好きの運転士さんというか、インテリ……というよりはマニア的な。


「陸から大分離れたから、沖合じゃスマホ繋がらないよ。今も昔も、海で頼れる通信機器はこの無線くらい」

「無線でクジラやイルカの情報を共有してるんですね?」

「そうそう。あとは天気や、市場の組合からのお達しとか来るかな」


 確かに携帯の電波表示は圏外になっている。

 高校の友だちからメッセージがかなりの件数入っていた。きっと俺がトウコちゃんの件で相談したから、どうなったんだって催促だ。返信したいが魚市場に戻ってからになるな。


「スマホで撮るのもいいけど、大海原を見て欲しいね。船酔いきつくなると楽しさも半減しちゃうし、人生に何度もないホエールウオッチングだし」

 

 気さく、とは違うけど。お詫びの追加ツアーなんて、言わば貧乏くじを引かされて駆り出された、いやいややってる感じがないな。この人は本当に船の運転とか機器類……あと海のことが大好きなんだきっと。


「とりあえずイルカ見せられてよかった。巳海の爺ちゃんにどやされずに済むねぇ。まあ、イルカもクジラも生物分類上同じだから、なんて言うつもりはないよ。せっかくなら大物、見たいでしょ?」

「はい。できればクジラを見たいです」

「うんうん。もうすぐニタリクジラの定住域だから、待っててね。15メートル以上ある子たちがいるんだ。上手く息継ぎ……潮吹きを見つければまた潜る仕草や、尾ビレの裏側まで見せられるから、みんなで探そうか」


 ジジ、と無線の音がする。

 途切れ途切れの声しか聞こえないが、木地が不機嫌そうな顔で応答している姿が見えた。


「……本当ですか……では、どこに……はい……」

「木地ぃ? 近くにクジラでも出た?」

「黙ってろ……スピード落とせ。微速前進だ」

「お、今回はちょっと離れたか。ここから全方位捜索だね。了解!」


 操舵手の人が窓に引っ込むと、船の速度がゆっくりになった。木地が営業スマイルを張り付けて、こちらに近付いて来る。


「お待たせしました! この近くから、クジラが呼吸をしに浮上します。潮吹きがその合図。私たちが注意深く辺りを探りますが、良ければお客様がたにも発見のサポートをしていただければ幸いです」

「やべえ……楽しくなってきたわ」

「ハル。どっちが先にクジラ見つけるか、勝負しよ?」

「ああ、久万倉さんたちが見つけたら引き分けで」

「トウコが勝つんだから!」

「俺も負けるつもりは……ない」


 トウコちゃんがふんすと鼻を鳴らし、甲板脇から舐めるように海を眺め始める。屋上のブリッジに上がらないつもりなら、こっちも同条件でやるか。


 ジジジ、っとまた無線が入った。クジラの位置を他の船と共有しているのか、木地が頻繁に何かやりとりを交わしていた。


 ええと……ニタリクジラの定住域に向かってたんだから、後ろは警戒しなくていいだろ。息継ぎで場所はズレるらしいけど、そんな大きくは外れないはずだ。三人の凄腕クルーより速く見つけるには、全方位より的を一点に絞った方がいい。


 右か、左か。


 こればかりは運だ。決め打ちしよう。集中して見るべきは――

 ふと、トウコちゃんがつば広帽子を後ろにずらし、じっと遠くを見つめた

 のが眼に入った。その真後ろ、木地が


「危ない!」

「……っ」




 鈍い音がして、トウコちゃんが倒れる。




 え、殴った……? あの棒で、木地が、トウコちゃんの頭を?

 ぐったりと横たわる、その帽子と髪の間からは血が滴りだした。甲板の網状タイルに、トウコちゃんの血が流れていく……!



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