死を受け入れるという生き方

橋本

第1話 死を受け入れるという生き方

 二十年間勤めてきた会社は、何の躊躇いもなく俺を切り捨てた。様々な原因が俺にあったと思うが、最も大きいのはおそらく裂けた大動脈のせいだった。


 半年前、突然腹部及び前頭部に痛みを感じ、救急搬送先の病院で血管の解離と診断された。一命をとりとめはしたものの、裂けた大動脈から腎臓に血液が回らなくなっていると説明され、しばらく人工透析が欠かせなくなった。そして脳死の一歩手前であったとも若い医者に言われた。幸いにも腎機能は回復し、頭や脳にも問題は出なかったが、長期入院とリハビリで暫くは歩くことすらままならなくなっていた。


 俺が入院している間、会社では俺の代わりに後輩の三井がでかいプロジェクトを動かしていた。三井は俺より三つか四つ年が下だが、リーダーをやるに相応しい行動力と注意力、そして人望があった。俺の病室にも度々見舞いに来たが、仕事のアドバイスなんかは決して求めては来なかった。俺を気遣い、ゆっくり休むよう念を押してきた。失礼します、と帰り際に三井が俺に頭を下げたとき、あいつの口許は笑っていた。それを見たときに、全てが馬鹿らしくなった。


 三井は、人の不幸を蔑むような奴じゃない。俺はかなり三井に良くしたし、それなりに恩は感じているはずだ。本能としての優位性のようなものが勝ってしまったのか、それとも俺の斟酌に対して思うところがあったのか、どちらにしてもそのときの三井を見て、俺は運命のようなものを感じ、やり場のない感情を病室の天井に押し殺した。俺は偶然病気になり、三井は偶然助かった。そして、それまで確固たる地位を築いていた俺の場所に三井は一気にかけ上がってきた。俺を通過点として、俺より遥かに上を目指さんとしているのだ。今の俺が会社に戻っても、もう居場所はないだろうとそのとき感じた。


 しかし入院生活が長引くにつれ、そのとき感じた悔しさは、まるで蒸発したかのように奇麗に消えてなくなっていた。俺は偶然助かった、つまり運が良かったのだと考えるようになったからだ。それは、献身的に看護をしてくれる牧谷由美という看護師の存在もあったが、中々治らない腹部の痛みや、さざ波のように繰り返す節々の痛み、そして同室の若者の死が深く関係していた。話し振りから察するに、彼は高校生だった。反対側の俺のベッドまで音が漏れるほど音量を上げたイヤホンで、ユーチューブを見て笑っていた。心臓を開いて手術をしたらしいが、詳しい経過はわからないが術中に容態が急変したのだと後で聞いた。滅多にないことらしかった。ICUに入ったっきり二度と俺たちの病室に戻っては来ず、父親が無言で彼の荷物を整理する姿を見たとき、俺は全くの他人事であるにも関わらず声を出して泣いてしまった。自分の術前には可能性が五分以下だと言われたが、決して泣くことはなかった。だがその若者の死は、俺の脳髄に容易く侵入し、脳を溶かすが如く恐怖をじわじわと浸潤させていった。俺は何かにつけて涙脆くなった。


 そうこうしてリハビリや検査を繰り返し、ちょうど三月後に退院できることになったが、そのときには俺の心はすっかり丸くなった。上司とやり取りをして、退院の翌週には会社に出ることになったが、出社したその午前中のこと、営業部の熊倉が俺の所属する購買部に怒鳴り混んで来た。大手鉄鋼メーカーと懇意にしている熊倉が、石炭の価格高騰に伴い、その営業先と無理な価格交渉を強いられていたことは、社内の誰もが知っていた。熊倉からの再三の要求にも関わらず、購買部は期待に沿う数値を出すことができていなかった。しかし、購買部としても、それについてはベストの対応をしているに過ぎないのが現状であり、熊倉の心境は痛いほど伝わってきたが、他に打つ手はなかった。その熊倉には三井が対応した。


 熊倉は俺の二つ年上で、俺の入社より数年遅れて前述の鉄鋼メーカーから転職してきた。俺は二十年来のよきライバルだと思っていた。俺は熊倉の言い分に矛盾点を見出だしながらも、三井の対応の浅さに口を出しそうになった。「三井、駄目だ。熊倉に共感しろ」俺は心の中で三井にアドバイスを送ったが、三井は頑なに無理だと言い張るだけだった。その応対に熊倉は激昂し、掴みかかるような勢いで三井に迫った。そんな熊倉と三井のやり取りを聞くうちに俺は狭心症のように胸が痛くなり、その場に蹲った。復帰一日目の午前中であったが、俺は再び病院に搬送された。看護師の牧谷から、「おかえりなさい」と温かい言葉をかけられた。その夕方、数回会っただけの役員がわざわざ俺の病室に見舞いに訪れ、その場で退職を勧めてきたため、俺はベッドに寝ながら頭を下げて会社都合による退職にしてもらった。不思議と、全身が安堵に包まれた。明日の生活など何も考えられず、ただ、ゆっくり休めることに有り難さを感じた。






 会社と交渉して手に入れた退職金と、これまでの貯金を合わせると、結構な額になった。俺は、快く送り出してくれた会社の後輩たちと連絡を断ち切り、しばらくゆっくり過ごそうと考えた。送別会の帰りの電車の中で、Kindleである女性作家の小説を全て買った。そして駅から近くのコンビニで安いビールとチョコレートを大量に買い、一歩ずつ歩いて自宅へ帰った。これから二週間くらいは自宅から出ずに身体を休めようと思った。独り暮らしで今さら誰に気兼ねすることもなかった。そしてそれが終われば、バイトでもしながら残りの人生を趣味に生きようと思ったのだ。


 俺は働き過ぎた。四十を超えたこの身体は、そういう荷重にはもはや耐えられなくなっていた。新入社員の頃は、日付が変わるまで会社にいても、例えそれが毎日続いてもなんでもなかった。一日に十杯のコーヒーを飲み馬鹿みたいに糖分を摂ったが、寝る前に温かい飯を食い、酒を煽って僅かでも睡眠を取れば翌日には身体は羽のように軽くなった。また、内臓は鋼のように強靭で、病魔などの付け入る隙などまるでなかった。三十を過ぎても、周りの人間ほど老け込むことはなく、俺はスポーツ選手ほどではないが特別な身体を持っていると感じたものだ。そうして、実は、辛うじて生き永らえてきた。本当に、紙一重だったと自分でも思う。紙一重で生かされてきていたのだ。


 アパートまでの道のりの中途で、俺は神を信じないが、それとは別の何か大いなるものの存在を確かに感じていた。自分の皮膚の一枚外側にそれらはいる。俺はそれを、目を閉じて意識せずにはいられなかった。


 無理なく働き細く長く生きる、そういう人生を生きようとそのときの俺は心に決めていた。静かな部屋に帰宅し、ロイヤルコペンハーゲンのデザートプレートに買ってきたチョコレートを全て流し入れ、パソコンの配信サイトで自分より一回り若い女性の配信を開いた。特に美人なわけでも歌がうまいわけでもないが、俺は彼女の配信がある度に携帯に通知を受け取り、必ず顔を出すようにしていた。いつか振り向いてくれるような淡い期待を抱いていたわけではないが、どちらかというと自分と同じ匂いをモニター越しに感じたのだ。既に諦めた世界に申し訳なく置かせてもらっているような、そんな匂いだった。女性は少ないコメントに大袈裟に反応していた。それを眺めながらゆっくりと熱いコーヒーを落とし、ビールの缶を一缶冷蔵庫から取り出してデスクに戻った。


 夜が更けてきた頃、リスナーはおそらく俺一人なったので、俺は会社を辞めたことを報告した。女は温かく俺の話を聞いてくれた。しかしふと油断すると、俺の頭にはたちまち三井のことが浮かんできた。あいつに悪気がないことは、飲み会の席でも確認できた。三井は俺のためにわざわざ寄せ書きを貰って回り、また、俺にちなんだクイズなんかを企画してくれた。有りランチみたいな。管理職ではないけど。管理職では多分難かった。しかし、そういう行動の全てが俺への当て付けのようにも取れたのだった。俺は自分のマイナスな気持ちを決して誰にも漏らさず、最後まで最上級の感謝をした振りをして飲み会を終えたが、結局自分自信を騙すことはできなかった。俺は三井の存在を頭から追い出すため、いつも以上に饒舌になった。冗談を言い、女性のコメントに気の利いた一言を返した。しかし、俺の思考をどう辿っても、必ずどこかで会社に繋がっていた。そしてふっと笑う三井が頭から離れなくなる。


 ふと、デスクの向こうに無造作に置いてあるハイライトとライターが目に入った。俺は入院以来吸っていなかった煙草に火をつけた。会社で倒れたとき、俺は最後に煙草を吸っていたことを思い出した。そのことで恐怖はあったが、俺の二本の指や肺、鼻の穴、身体中のあらゆる臓器がニコチンを欲していた。一本抜き出し、口に咥え、ターボライターで火をつけた途端に、たちまちドクンと心臓が高鳴り、血圧の急上昇を感じた。胸が苦しくなったような気がして直ぐに煙草を灰皿に押し付けた。あのときの痛みが甦る寸前のところまで顔を出していた。俺はすぐに立ち上がり、ビールとコーヒーをシンクに流し捨て、ミネラルウォーターのペットボトルに直に口をつけて飲んだ。冷たい水が体内に流れ、それが一瞬痛みのようにも感じたが、徐々に水の甘いような感触が、尖った身体を滑らかにした。しかし、しばらくキッチンから動くことができなかった。何者かに鷲掴みにされた心臓が、俺が僅かでも動くことによってキュッと握り潰されるような、脅迫に似た感覚に鳥肌が立った。俺の動きとは対称的に、俺の心臓の音だけが静まり返った室内にやけに響いた。血が血管を突き破り、再び血管が裂けるのではないかと思えるほどに心臓は高鳴った。背中にじっとりと汗が滲み出た。激しい動機と締め付けられる心臓、倒れたときの痛みを思い出すには十分な出来事だった。もう嫌だと、俺は神に祈る心持ちになった。






 そのまま身体の違和感が去るまでに費やした時間は十分ほどだったか、俺はゆっくりと確かめるように深呼吸をして、ミネラルウォーターのペットボトルを冷蔵庫に戻し、パソコンデスクに座った。涙が出た。コメントを打ち込もうとしたが、配信は既に終了し、モニターにはスクリーンセイバーがかかっていた。この世の終わりを見たような感覚が押し寄せ、空っぽになった。まるで砂時計の中にいるような息苦しさを感じた。砂時計の、下ではなく上の部分である。周りの砂が一粒残らずに下に落ちていくような空間で、不運という感覚すらも自分を置いて狭い隙間から流れ落ちていくような気がした。


 俺の心はすっかり弱ってしまっていた。パソコンをシャットダウンし、タブレットで小説を開いたが半ページ読むのに十分ほどかかった。ひどく疲れた。記号の羅列を読んだ気がした。大学生のときに習った無意味記憶という単語を思い出した。日本語が、まるで別の言語のように感じた。俺は再びパソコンの電源を入れ、マウスに手を置いた。なんでもいいから世界と繋がっていたかった。配信サイトを開きながら動画サイトを開き、ニュースサイトのコメント欄で自分を代弁してくれるコメントを探した。外は既に明るくなっていた。


■日本神話『日韓法的地位協定によって在日は二世までしか滞在が許可されていませんよ。出ていってください』


■通りすがり『二世までは認めるということしか書いてないでしょう。三世以降を禁止しているわけではありません。明らかなヘイトスピーチです』


 在日韓国人の処遇を巡り、コメント欄でやり合っているのを見つけた。二人はしばらくやり取りを繰り返したが、俺は日本神話に加勢することにした。


■日本神話2号『在日は何世になっても滞在は可能だと記憶しています。ただ、地位協定は権利ではなく許可です。帰れる人から早く帰るべきです』


 あっという間に、通りすがりの攻撃対象は俺に切り替わった。様々な反論が飛んできたが、俺はそれらに丁寧にやり返した。そして最後に次のようにコメントを打った。


■日本神話2『日本に不満があるのなら帰ればいいじゃないですか。保護はもらいたい、でも日本人とは同化したくない、そんなの認められるわけないじゃないですか。日本人は日本、韓国人は韓国、それぞれ祖国がありますよね。その祖国のために生きればいいじゃないですか。あなたは先ほどアイヌ人は差別されていると言いましたが、アイヌ人は日本人ですよ。ここが祖国です。でもあなたたちは違います。帰るところがありますよね?あなたたちにあるのは権利ではなく許可なんですよ。日本に居ても良いっていう許可があるだけなんですよ。なんの権利もないんですよ。早く帰ってください。帰りたくないなら韓国籍を捨ててくださいよ』


 俺のそのコメントを最後に、やり取りは終わった。何度ページを更新しても、通りすがりからの返信は来なかった。俺は満足したが、すぐにその満足の空虚さに辟易し、死にたくなった。何度ページを更新しても、通りすがりから返信は来なかった。もともといた日本神話は、俺のコメントにいいねをつけたが、砂粒のようないいねだった。通りすがりは砂時計の下の部分に落ちていったが、俺は相変わらず空っぽな部屋に取り残された。そして、この部屋が俺の心そのものなのだと悟った。

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