12駅目 千駄ケ谷

 どうして昨日をもっと大切に生きなかったんだろう。都心の割には拓けた空を観ながら思う。


 明日の今頃は、デスクに向かい早く退勤時間になることを望みながら仕事しているに違いない。憂鬱だ。

 特に予定のない休みを有意義に過ごすため、何をするか考えているうちに一日が終わった。今日はその反省を生かし、何がなんでも活動してやる。そう思い降り立ったのは千駄ヶ谷。特別思い入れがある訳では無いが、好きな作家が昔住んでいたと知ってから1度来てみたかったのだ。


 それにしても何も無い。目の前には新しく出来た競技場があるばかり。蝉の声が白い雲に吸い込まれる。少し歩こうか。


 神社を横目に通り過ぎる。否、通り過ぎようとした。ゴツゴツとした岩山が目に入り、思わず歩みを止める。富士塚、昔の人は本当に富士山が好きだったのね。丁度歩きやすいスニーカーを履いてきた。登ってみる。思っているよりも高い。頂上まで登り詰めると景色がガラッと変わる。こんなにも視界が拓けるものなのか、と少し感動した。


 日頃の運動不足が祟り、富士塚を登っただけでも少し汗ばみ、喉が渇く。坂を降り、少し大きめな通りに行き着く。近くにお洒落なカフェを見付けひと休みすることにした。アイスティーを注文し、席に着く。

 隣の席には、同い年くらいの眼鏡をかけた男性が優雅に本を読みながらコーヒーを飲んでいた。私もつられて本を読む。

 20ページほど一気に読んだのち、ふと彼が読んでいる本に目を移す。同じ作家の本だった。これはもしかして運命か。「君もこの作家さん好きなの」なんて声を掛けられるかもしれない。


 そんなことはなく、彼はコーヒーを飲み干すと足早にカフェを後にした。まあ、こんなもんだよな。


 私はまだ読み足らなかったため、アイスティーのおかわりを頼む。店員は愛想の良い笑顔を向ける。それに癒されつつ、読み進めた。気が付くと日が傾き始めていて、少し慌ててカフェを出る。


 のんびりとした街の雰囲気に騙され、時間の感覚を完全に失っていた。明日からまた仕事だが、まだこの街を離れるのが惜しい。時間はあると言い聞かせ街を探索する。古い店が幾つか集まった飲み屋街にたどり着く。なんてノスタルジックなんだ。


 ひとつの暖簾をくぐる。地元の人と物珍しさに集まった人とで既に埋まっている席に圧倒される。座れないかと諦めようとしたが、常連らしき男性が席を空けてくれ、なんとか座ることが出来た。

 ハイボールと豚の角煮を頼む。1人で呑んでるはずだったのにいつの間にかその店にいる全員と共通の話題で盛り上がる。


 スマホのバイブレーションでふと我に返り、店を後にする。


 明日も仕事だ。憂鬱だ。

 だが、こんな休日を味わえるのは憂鬱な仕事があるからだ。またすぐにでも来たい。何も無いのに安心感のあるこの街に。たった1日の間に恋していた。

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