囁く舟で人形の夢を

 鈴蘭ミュゲ農場ファームからは様々なおぞましい生命の廃棄品や培養体が見つかった。キトリは恐らく、長い裁判のあとで自らの生命を刑場に差し出すことになるだろう。

 隣のヴィゴがそう話すのを聞きながら、僕は事務所のソファに座っている。あの夜、当のヴィゴの偽装人形ドッペルゲンガーをバラしたソファは買い替えた。


「報告書は事実通りに書いた。ジークリット・シュレーディンガーは鈴蘭ミュゲが作った偽装人形ドッペルゲンガー原版オリジナルの一人――不満か? 


「僕はマルグリットじゃない。あんたにそう呼ばれたくない」


「生体情報から言えばお前が間違いなく真正人間オーセンティックだろ」


 ヴィゴが何と言おうと、マルグリットは死んだ。

 何しろ僕にはもう、記憶がない。

 として過ごした記憶はあるが、

 マルグリットオリジナルだった頃の記憶はもう、ない。


 通りの向こうの裏道からは、誰かが煙草に火をつけた音が聴こえる。セッティングが狂って久しい僕の耳は音の距離をアンバランスに拾い、目は薄暗がりでも本を読める。ソファのきしむ音よりも、信号で立ち止まった子供のくしゃみが聴こえる。

 ヴィゴは僕の肩を抱く。偽装人形ドッペルゲンガーではない本物のヴィゴが、僕の、マルグリットの、わたしたちの身体を。

 引き倒して、馬乗りになった。あの晩ここでそうしたように。ヴィゴは文句も言わず黙って乗られている。僕は彼の目の周りを触れる。

 本物の骨と組織だ。感覚入力が壊れた僕は、人造の骨格や皮膚、眼球を見分けてしまう。心理迷彩カモフラージュシステムも僕には効かない。

 ヴィゴは本物だ。真正人間オーセンティックで、僕に興味を持ち、僕の能力を生かすことを考え、僕を人間扱いする、この世で唯一のオリジナル

 鈴蘭ミュゲになんか、僕のヴィゴは作れない。決して。


「泣くなよ」


「泣いてない」


「もう終わったろ」


「終わってない。わたしたちの何人かがまだどこかにいるかもしれない。探さなきゃ」


「そうだな。でも、まずはちゃんと眠れ」


「嫌なんだ」


 眠ると、それきり完全停止オールダウンしそうで嫌なんだ。

 それなのにあんたはいつも僕を寝かしつけてしまうな。


 のっそり身体を起こしたヴィゴは当然のように僕の背を抱いて、ジーク、と呼んだ。

 温かい。声に乗って生命が入ってくる。出会った頃、ヴィゴが僕の名を選んだ。僕はマルグリットではない。


「いい子だから。必ず起こしてやるから」


「あんたの起こし方は勝手なんだよな……」


 まぶたが重くなる。この瞬間いつも、ヴィゴの身体には睡眠薬でも染み込ませてあるんじゃないかと思う。

 そしてそのことを、毎回、忘れる。




 ざあ、ざあ、と耳の奥で波のような音がしていた。

 これは血流の雑音であって外界の音ではない。

 この音は聴覚入力から減じてよい。でも僕にはそれができない。

 古いいくつかの記憶は読み出し回路から切り離されたままだ。ジークにとってその記憶は不必要だから。


 僕は、思い出さない。


 暖かな海には帰らない。



 代わりに僕は、ヴィゴという舟に拾われた。


 行き先は知らない。これからもずっと乗せていってもらえるのだろうか。それも分からない。




 ああ、ヴィゴの鎖骨あたりの匂いがするな。





 そして偽装人形ドッペルゲンガーの擬態のまま僕は、




――意識一時停止シンカピィ









〈了〉

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偽装人形の眠り 鍋島小骨 @alphecca_

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