かおちゃんと錆びた遊園地

 翌日、予備校にかおちゃんの姿はなかった。窓際の彼女の席は、最初から誰も座っていなかったみたいにぽつんと空いていた。


 英語の授業中、今西先生の視線が何度もその席に向くのに、僕は気付いていた。


 先生はかおちゃんの事情を知っているのだろうか。いや、知らないだろうなと僕は予想した。学校ならいざ知らず、ここは予備校だから、かおちゃんの親が一言「辞めます」と言えば、それで関係は絶たれてしまう。わざわざ理由なんか話すとは思えない。


 休み時間になると、僕は窓際に行っていつものように遊園地を見下ろした。メリーゴーラウンドに視線を移したとき、僕はあることに気づいた。


 幌の破れた隙間から見える馬の配置が、変わっている。


 一番前にいたはずの白馬が消えて、一部しか見えなかったはずの馬車の屋根がはっきり見える。


「動いてる」


 思わず声に出して呟くと、近くでしゃべっていた女子がちらりと僕を見て、何こいつ、みたいな顔をした。


 それからの授業は、まるで手がつかなかった。


 夜7時になり、ようやく缶詰から解き放たれると、僕は職員室に向かった。今西先生に、かおちゃんのことを相談しようと思ったのだ。同時に先生なら、あのメリーゴーラウンドが本当に動くかどうかも知っているかもしれない、と期待していた。


 でも、いざ職員室の前まで来てみるとしり込みしてしまった。いくら今西先生が信頼できそうといっても、他人にかおちゃんの出会い系とか、妊娠とか、そんな話を勝手にしてしまっていいのだろうか。


 うじうじしていると、さっき返却してもらったばかりのスマホが震えた。電話だった。


 画面を見ると、かおちゃんからだった。


 僕は飛び付くように電話に出た。


「かおちゃん!」


 彼女の声の代わりに、ギリギリギリギリ! と物凄い騒音が僕の耳を襲った。


 僕の頭に、錆びた歯車が噛み合わさって動く様が思い浮かんだ。


 耳障りな金属音の向こうで、音楽が流れていた。少し音程が狂っていたが、軽快なリズムに聞き覚えがあった。


『スケーターズワルツ』だった。


(遊園地でぼーっとしたいよなぁ)


(ほんとそれ。一日中メリーゴーラウンドに乗ってぐるぐる回ってたい)


 いつかの会話が、僕の頭の中に甦ってきた。


 昨夜、かおちゃんは遊園地に行きたがっていた。


 あの潰れて、何もかも錆びついたような遊園地に。


「……かおちゃん? いるの? そこに」


 音楽が少しだけ大きくなった気がした。


 僕は踵を返して走った。


 ビルを出ると通りを渡って、遊園地の外壁に沿って走り続けた。どこかに入口があるのかもしれない。中にかおちゃんがいるかもしれない。


 8月の長い昼が終わり、夜が訪れようとしていた。太陽はもう、街並みの向こうに沈んでいる。僕は完全に暗くなる前に、遊園地への入口を探そうと焦った。


 不意に何か軽いものを蹴飛ばした感触があった。小さな紙パックのジュースだ。


 イチゴと牛乳瓶が描かれたピンク色のパックには、すでにストローが刺さっていた。ストローの先はぺったんこに潰れ、歯形がいくつもついている。


(かおちゃんがここに来たんだ)


 僕は今来た方を見上げた。予備校の看板が見える。教室で見た遊園地の様子と、僕の今の位置を重ねると、この壁の向こうがおそらくメリーゴーラウンドだ。


「かおちゃん!」


 金属製の高い塀の向こうに向かって、僕は声をかけた。


「かおちゃーん!」


 僕は声を限りに叫ぶと、錆びついた金属板の隙間に耳を当てた。


 ギリギリギリ、ガシャン。ギリギリギリ、ガシャン。


 金属の悲鳴のような音が、一定のリズムを持って耳に届いた。それに混じって、チューニングのずれた『スケーターズワルツ』が微かに聞こえる。


 僕は遊園地の周りをくまなく探した。どこにも人が入れるような場所はなかった。背の高い金属板と金網が、どこまで行っても続いている。金網の向こうにはベニヤ板や廃材が積まれていて、中がどうなっているのかよくわからなかった。


 いつの間にか完全な夜が訪れていた。僕はジュースのパックが落ちている場所に戻ってきた。


「かおちゃん」


 息を切らして呼びかけながら、金属板に耳を当てる。


 もう何の音もしなかった。




 あれから1年が過ぎた。


 かおちゃんは、今も行方不明のままだ。


〈終〉

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かおちゃんと錆びた遊園地 尾八原ジュージ @zi-yon

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