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 女の写真だった。


 まだ若い。十代、二十代前半。


 日本人に見える。


 正面から、こちらを睨むような視線。


 丸い輪郭、高い鼻。血色のやや濃い唇。


 美女である。


 つまり、学校での聖の予言は見事に的中した事になる、のだが……。


 聖だけでなく、劉生、勇次も膠着した。

 その理由は定かではない。

 絶対にそうだとも言い難い。

 ただ、誰の心にも浮かんだ疑問。


 見た事が、ある。


 知らない人間だと言われれば、そうだとも答えられる。


 しかしどうにも、親近感が拭えない。


 いつか、どこかで見た顔だった。


 聖、勇次も停止する中、劉生だけは冷静だった。


「年齢、不明。国籍、不明。本名、不明。出身、不明。親族、不明。性別、女。

 ……通称『ネル』。だとよ。つまり、女って事以外、全てが不明」


 聖は表情こそ動かさなかったが、声は冷静に反応した。


「何言ってるの。まさか、知らないの? この、コードネーム」


「……知っては、いるさ。例の『三姉妹』の一人……。ネルは、その次女。だが、本当にそうなのか? 偽装犯じゃないのか?」


「なぜ? これが例の『ネル』ならば、これだけの包囲網を敷いていても不思議じゃない」


「不思議だ。そこが、不思議だ。確かに『ネル』は、近年犯罪史のビッグネーム。彼女の開くダークウェブ上での闇市で、日に何百万ドルもの金が動いている。

 とはいえ、あくまでネット犯罪者じゃないのか?」


「数百万ドル、じゃない。数千億ドル」


「は? そんなはずがない。つい先日も開かれたマーケットでは、総額七百万ドル程度だと予測されている。かなり濃い線からの情報だぞ」


「それ、潜り切れて無いんじゃない? あのマーケットの趣旨をはき違えるアナリストなんか、即クビ程度の大馬鹿者よ。


 表向きに取引されている品は、あくまで一般向け。

 あの取引商品の中に、いくつもの暗号データが隠されている。

 そのデータを元に、現実世界ではその数百倍の闇取引が行われている。


 これ、別にネルが始めたわけじゃなく、いつものパターンだから。いくらダークウェブで身元特定が不可能に近いとは言え、絶対に不可能じゃない。

 世界中から化物級のネットポリスが監視する中、堂々と高額商品の取引なんかできないよ。一次取引はあくまで氷山の一角。そこから、無数に取引は広がっていく。


『ネル』がその支配人と呼ばれている理由は、彼女にしか解析できない暗号を作成できるから。


 彼女のサイトに絶対の信頼が集まるのは、未だかつて、どんな学者もネットポリスも、それを解読できた事が無い上、それが毎回変わる。


 つい最近、ネルが五年前に作成した暗号が解読され、それがリーマン予想の証明に直接干渉した話は、知っているでしょ? あの予想、160年前に提唱された予想だよ。160年かけて、漸く一つの暗号が解読できた。


 彼女が作成したとされる暗号は、数百にも上る。

 はっきり言って、イタチごっこにすらなっていない。紛れもない天才。希代のマッドサイエンティスト。


 彼女の戯れで、おそらく、億単位の人間が死んでいる。


 故に彼女は、世界最高額の懸賞金。25億円が掛かっている」


 現実味の無い、馬鹿げた話に思えた。

 勇次はただ「25、億……」と聖の言葉を連呼するだけだったのだが、劉生は違っていた。


「つまり、世界中のマフィア、反政府組織、そいつらまとめて、『ネル』のバックってわけか」


「うん。どの程度の包囲網を作っているかは知らないけど、日本政府だけじゃどうにもできないはず。おそらく、もっと巨大な物が動いでいる」


「例えば?」


 聖は人差し指を立てて、冷静に答えた。


「世界の正義。その、全て」


 劉生は、巨大な胸板を大きく膨らませ、どこまでも続く大きな溜息を吐いた。


「なるほど。『長女』のベルは、今ではCIAだったな」

「国連の懐刀って方が近いと思うけど」

「世界政府というところか。まさに、世界の表と裏の抗争だな。どちらも出し抜くには……骨が折れそうだ」


 馬鹿な。

 何を言っている、劉生。


「うん。やってみよう」


 この頭のイカレた女に、いちいち付き合うな!

 困惑する勇次に、聖は視線を送った。

 心の挙動を全て見透かす、魔眼に思えた。


「勇次君は、どうする?」


 決して、目を合わせてはいけない。

 これは、人を石に変える悪魔の瞳。狂信者達の神への接吻。先導者への貞操の提供。心の闇への渇望欲求。


 相手は、世界最悪のネットハッカー。


 競技相手は、世界政府。


 とはいえ、女。


 レバレッジの傾きは、容易く見てとれる。


 故に、劉生は即答した。

 こいつは、化物だから。


 でも、化物と魔女が居る今なら、どうにかなるのではないだろうか?


  本当か?


  そうして今まで、彼の太鼓持ちになってきたのではないか?


  女と言えど、拳銃くらいは手中に収まる。


「考え、させて」


 そう、答えざるを得なかった。

 今、この場で即答できる内容ではない。父にも相談すべきであり、母に如何に心配を掛けさせないか……。


「あっそ。別にいいよ。邪魔だし」


 魔物の瞳に、石化した。

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神の目から零れた聖者 水谷 遥 @mizutani-h

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