第2話



「あの……。草薙さん、それで、その……。お礼は……」


 おずおずと聞いてくる美鈴に俺は、


「ああ、そうですね。じゃあ、前金として、ここのコーヒー代とお昼ご飯代を。きっちり片が付いたら、


と、指を1本立てて、言った。


「ひゃ、100万円……?」


 目を丸くして呟く美鈴。余りの高額な報酬金に、血の気が引いていく。


「ん? ああ、いや……」


 俺は、自分の指を見やった後、美鈴に向き直り、


「1万円。今日の俺は機嫌が良くってね」


と、美鈴にウインクして見せた。

 ようやく美鈴がホッとした顔で、微笑を浮かべた。

 それから、珈琲店を出た俺たちは、美鈴のマンションのある五反田に向かった。ついでに、軽い昼食を済ませると、すでに時刻は昼を回っていた。


 数年前に建った12階建てのマンションの8階の部屋に、美鈴は姉と2人で暮らしているという。美鈴に案内されたそのマンションを見て、俺は内心で唸った。このマンションなら知っていた。俺の住む目白にも広告が入っていたからだが、確か結構な値段だったはずだ。普通の姉妹が、おいそれと買える額じゃない。


 マンションの前に建ち、見上げてみれば、美鈴たちのであろう部屋から、異様な瘴気が揺らめいている。思っていた以上に酷い瘴気だった。

 俺たちは2人の部屋に向かった。瘴気は頑丈そうなドアの外までも溢れていた。こんな部屋で生活していれば、その身に瘴気を纏わり付かせていても不思議ではない。

 こいつは面倒そうな相手だ。

 聞けば、左右とも、隣の部屋の住人は出て行って、今は空き部屋だそうだが、それも納得だ。


 俺はオイルドコットン製のジャケットコートからスマートフォンを取り出し、自宅に電話した。4回コールしたところで、繋がった。


『お待たせいたしました。草薙ですが』


 凛とした美しい声が向こうからした。


たまき、俺だ」

『雫様、どうなされました?』


 環は、俺の家の家事一切を取り仕切っている。そう、総てだ。


「これから言う所に、を持って来てくれないか? 環には辛いだろうが、どうも必要になりそうだ」


 俺の言葉を聞いて、ほんのわずかに環が息を呑む気配が伝わってきた。だが、それも一瞬で、


『分かりました。どちらへお持ちすればよろしいのですか?』

「すまんな。夕方までに届けてくれればいい。それまでは動きもないだろうからな。で、場所は……」


 俺は美鈴に聞いたマンションの住所を教え、電話を切った。それから、すぐにもう1箇所に掛けた。


『よう、草薙君。君から掛けてくるとは珍しい。何か用かね?』


 2回ほどのコールで出た。聞こえてきたのは、貫禄のある老人の声だった。


「土御門さん。折り入って、頼みたい事があるんですよ。聞いてくださったら、前に伺った件、引き受けますよ」

『おお、引き受けてくれるか。なら、何でも言ってくれたまえ』

「ある人物の行方を調べてください。裏の宮内庁副長官の貴方なら、こっそり警察を動かせるでしょう?」

『容易い事だ。それで? その人物とは?』

須賀すがのぞむという人物なんですがね。ここ1月ひとつき

ど、行方不明なはずなんです」

『ほう。では、やはり死んでいるのかね?』

「おそらく、生きてはいないでしょう。ちょっと、動向の確認を取っていただきたい。怪しいのは、2月ふたつきほど前から先月までです。本人の家には俺が行きます」


 俺は土御門の爺さんに望の住所を告げ、スマートフォンを切った。土御門の爺さんとは、俺の祖父の代からの付き合いだ。あまり頼み事をすると、厄介な話ばかりを持ち込んでくるので、こちらとしては極力、関わりを持ちたくはないのだが、今回は急な話だし、止むを得ない。


 俺と美鈴が部屋に入ると、どんよりとした瘴気がじっとりと肌に纏わりついてくる。美鈴にはわからないかもしれないが、部屋のあちこちに先ほどと同じような魑魅魍魎が湧いている。

 あそこの壁には蜘蛛のようなもの、こちらの隅には蜥蜴のような姿態のものといった具合で、その他、様々な形態をした魍魎どもがうようよだ。まあ、俺に触れた奴らは、片っ端から、霧散していく。何をするでもなく――だ。

 つまりは、その程度の奴らなのだ。


 見たところ、ここの間取りで、東北に位置する部屋がやはり、最も瘴気が濃い。鬼門だからな。

 聞けば、そこが美鈴の部屋だそうで、姉の部屋は南向きの1番良い位置に配された部屋だという。美鈴の部屋を見せてもらえば、やはりと納得がいく状況だった。鬼門に位置するために、邪気やら、瘴気やらの通り道になっている。そりゃあ、気も沈む。

 とりあえず、ポケットから取り出した手持ちのお札を2、3枚貼った。瘴気を弱めるためだ。この札には、表には朱色で5芒星、いわゆる安倍倍晴明印が描いており、黒墨で文字が幾つか書いてある。

 我が草薙家は代々、陰陽師の家系で、明治の御代に、遷都とともに東京へ移り住んだそうだ。平安時代の大陰陽師・安倍晴明に師事し、あまつさえ、その娘を嫁にした――と伝えられている。

 ちなみに、安倍晴明を祖とする陰陽師としての安倍家は、やがて土御門家と名乗っていった。俺のご先祖さんが安倍晴明の娘を娶ったということだから、かなり遡れば土御門の爺さんとは親戚ということになるが、さすがに遠過ぎる。

 まあ、1000年も昔のことだ。晴明の娘を嫁に――云々うんぬんはどこまで真実かは分からない。

 と、そんな我が家の来歴はともかく、やり過ぎれば、相手に敵――つまり俺だ――の存在がわかってしまうので、少し、瘴気を薄めるような感じで止めておく。


 しかし、先ほどから何か違和感を覚える部屋だ。インテリアはなかなかに趣味の良い品々であるし、部屋自体も片付けられていて、清潔感を与えるというのに。

 だが、受ける印象は――〝いびつ〟だ。眺めてみれば、部屋それぞれの調度品に、1、2点ずつそぐわない品が含まれており、その結果、全体としてまとまりがなく、どこかゆがんで見えるのだ。シックリこないというか、何となく落ち着かない。

 美鈴に確認してみると、それらは全て、姉の選んだ物で、配置を決めたのも姉だという。

 センスが良いのか、悪いのか、判断に苦しむところだ。まあ、そのあたり、所詮は他人ひとの家だから、とやかく言う筋合いではない。


 それから、姉が帰ってくるまで、美鈴にはここにいてもらって、俺は教えてもらった須賀望の住居に向かおうとしたのだが、ちょうどその時、姉の美登里が帰ってきた。


「美鈴、あんた帰ってるの? 仕事はどうしたのよ?」


 玄関で、居丈高に美鈴に声をかけ、現れた美登里は男連れであった。

 長い髪に整った顔、美鈴よりも背が高くプロポーションも素晴らしい。胸元と背中が大きく開いた赤いドレスも似合っていた。美鈴も美人ではあるが、この姉と比べれば、確かに美登里の方が華もある。もっとも、それを悪く言い換えれば、派手――ということであるのだが。

 モデルでもやっているのだろう、年の頃25、6のがっしりとした体格の男前イケメンと互いの腰に腕を回して、べったりと親しげに寄り添い、部屋を見回すように美鈴を捜した。


「姉さん……」


 美鈴が少し青褪めた顔で答えた。まるで蛇に睨まれた蛙だった。それほどに、この姉が苦手なのか。


「あんた……。あ、あら、お客さん?」


 俺の存在に気付いた美登里が、取り繕うように、急に柔らかな語感になる。その前に一瞬、美鈴をねめつけた視線を俺は見逃さなかったが。


「あら、かわいい子だこと」


 俺を品定めするように見回した美登里が、僅かに熱っぽい声音で言った。俺も美登里が連れてきた男前に負けない顔立ちだからである。


「お邪魔してます。草薙と言います。先ほど、美鈴さんと知り合いになりまして」


と、俺は答えた。美登里は俺に興味を持ったらしい。肩に手をかけ、ねっとりとした意味深な眼差しで俺を見てくる。妖艶な微笑を浮かべ、顔を近付けてきた。こんな艶やかな微笑を浮かべられたら、落ちない男はいないだろう。

 俺を除けば――だが。

 香水の香りが鼻腔をくすぐる。この香りは確か、サンタ・マリア・ノヴェッラのスズランだったか。香水のセレクト自体は悪くない。

 ただ、付け過ぎだ。香水なんてものは、むせ返るほど付けるもんじゃない。ここまでいくと、水商売の女性のようだ。品性を疑ってしまうな。

 自覚があるのかどうか、どうも、この姉はセックス・アピールが強すぎる。


 そこへ、先ほどの男前が文字通り、割り込んできた。不穏な雰囲気を読み取ったようだ。まあ、このままでは自分の立つ瀬がないもんな。

 177センチの俺より、10センチほども背の高い。上から見下ろすように、威圧してくる。自分よりも大きく、がっしりとした相手に睨まれれば、大抵なら、相手は尻込みする。これまで、それでやってきたし、通用してきたのだろうが、俺は歯牙にもかけなかった。

 だから、何だ――。

 俺は眉一筋動かさず、美登里と話を続けた。


「須賀望さんと、2月ふたつき前までは付き合っていたと聞いたんですけどね」


 自分の存在を無視して、前の男の話を出されれば、まあ、ムッとするだろう。男の顔が怒りに歪む。


「おい……」


 苛立ちを隠そうともせず、凄みを効かせて、男が睨む。いい男が台無しだ。

 俺は何気なく、その男の鼻先に人差し指を突き付けた。その瞬間に、男の体が強張っていた。意識すらもない。

 俺は一瞬にして、男に暗示をかけたのだ。これ以上、話の邪魔をされてはかなわない。安心しろ。お前の気に病むような展開にゃ、なりやしない。何故なら、美登里は俺の好みじゃない。

 俺はさらに続けた。


「それっきりですか?」

「それっきりって?」


 美登里も少々、鼻白んで聞き返す。どうやら、癇に障ったようだ。肩から首に回されていた彼女の腕を、俺はそっと外した。


「会ったこともないんですか?」

「ないわよ。あんな男、2度と会いたくもないし、会うこともないわ」

「電話とか、メールもなし?」

「くどいわね。ないわよ。あっても、無視するわ」

1月ひとつきくらい前までなら、連絡はあったでしょう?」

「あったかも知れないけど、覚えてないわね」

「そうですか?」


 美登里の答えに、俺が念押ししたその時、と、部屋の中で動く気配があった――。



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