草薙陰陽奇譚
赤鷽
CASE 1
第1話
午前9時過ぎの代々木駅のホームに列車が滑り込んでくる。鰯雲が映りこんだ運転席の窓が、秋の日差しを受けて一瞬、反射した。俺は軽く眼を細めた。
ラッシュの時間は過ぎたとはいえ、まだまだ乗客の多い時間帯だ。
「ほう」
俺はその列車が到着する前から異変に気が付いていたが、周りで同じように列を作っていた乗客たちが、一斉にその客車を避けたことに感心したのだ。俺の付近で列車を待っていた乗客など、隣の客車まで、開いたドアをわざわざ無視するように通り過ぎていったのだから。
この車両には乗りたくない――。
誰もがそう思ったのだろう。ひと頃、人間は生きていく本能が退化しただのと言われていたが、どうして、まだまだ捨てたもんじゃない。
俺には、その理由が分かっていた。
俺の前に停車した車両には、濃密な瘴気が満ちていたのだ。
俺が車両に乗り込むと、近くの座席の真ん中にポツンと女性が独り、座っていた。
他には誰も乗っていない。
その女性は自分以外がこの車両に乗ってこないことを知っているのか、いないのか、俯き加減にひっそりと座っていた。
俺は斜め向かいのドア付近にもたれ、そっと窺った。女性がこちらに気付いた様子は無い。
背の中ほどまで伸ばした長い黒髪、ほっそりとした顔付き。俯いていて判断しづらいが、それでも美人と言っていいだろう。ただし、何故か、地味な印象も抱かせる。
トートバッグを膝上に抱え、細身の若草色のワンピースが似合う、すらりとしたスタイル。少々華奢なほどだが、その儚い感じが、雰囲気に合っていた。
しかし――。
その身に
その女性を中心にして、この車両全てを包むほどの瘴気が満ちているのだ。それは一般人ですら、無意識にこの車両を避けてしまうほどのものだった。
意を決し、俺はその女性に声を掛けることにした。
俺にも都合がある。いつまでもその女性を見張っている訳にもいかない。助けを求めてこなければ、敢えて手を差し伸べてやることも無い。
だが、チャンスは万人に平等に与えられるべきだ――というのが、俺の信条だ。もっとも、そのチャンスを掴めるかは――当人次第だがね。
「ああ、ちょっと……」
俺は女性のすぐ傍まで近付き、声を掛けた。
「はい?」
女性は訝しげに俺を見上げた。俺を見つめるその顔はやはり美人であったが、受ける印象もやはり儚げであった。
「最近、おかしなことは無いですか? 身の周りで」
「え……?」
ますます訝しげな顔付きになる女性。それはそうだろう。いきなり声を掛けてきた男が、訳の分からんことを聞き始めたのだ。
「ええ。特に夜。変な声が聞こえたり、変な物を見たり、妙な事件が起こったりしてませんか?」
「え……、いえ……」
「そうですか? 本当に?」
女性は少し、惑っていた。言うべきか、言わない方がいいのか。どうしようかと。
「でも……。ちょっと失礼」
そう言って俺は、女性の耳元に右手を伸ばした。女性はびくりと身を硬くしたが、俺は気にせず、何かを掴むように拳を握り締め、その手を戻した。
「こんな物を見た覚えはありませんか?」
そう言って掴んだ物を女性に示した。
キキッ――。
「ひっ……⁉」
掌中の物が、甲高い鳴き声を漏らした。女性が眼を見開き、息を呑んだ。
手の中で後ろから首を掴まれたそれは、小さな猿のような身体に鼠のような長い尾を持ち、それを俺の手首に巻きつけ、逃れようと身を捩ってもがいていた。ただ、その顔は紛れもなく、人のものだ。開いた口から覗くのは鋭い牙の羅列。
俺がその首を強く握り締めると、キッと一声大きく鳴いて、それは霧散した。
俺はもう1度、女性に尋ねた。
「見覚えがあるんですね? あの顔に」
女性がゆっくりと、怯えたようにこくりと頷いた。
「……あ、あれは……
震える声でそう答える女性に、俺はこう告げた。
「ああ、俺は
俺たちはちょうど差し掛かった池袋駅で降り、付近の『九条珈琲』という珈琲店に入った。俺の行きつけの店の1つだ。マスターはイタリアの
「ここのコーヒーは美味いんですよ。何にしますか?」
奥の上座の席を勧め、いつものようにエスプレッソを注文しながら、俺は言った。
「あ、何がいいかしら」
そう彼女は言いながら席に着き、
「じゃあ、ハワイコナを」
と、メニューを眺めて、注文した。
「それで、美鈴さん。あなたのお姉さんの彼氏が、その望さんという人なんですね?」
俺は彼女――
「はい。でも、姉は2ヶ月前に別れたと言っていました。それ以降は会っていないとも」
「で、奇怪な事が起こり出したのは、ここ1ヶ月?」
美鈴は青い顔で頷いた。先ほどの化け物を思い出したのだろう。
「……草薙さん。さっきのあれは……望なんですか?」
「ああ、あれは瘴気に巣食う
〝望〟――ね。
俺は、運ばれてきたエスプレッソに砂糖を2杯入れて掻き混ぜ、スチームミルクを少しだけ垂らし、2口ほどで飲み干した。この飲み方が、いっとう美味い。
「問題は、あなたに纏わり付いていた瘴気だ。それを根本から絶たないと、あれはいなくならない。あれが望さんの顔をしていたのは、望さんが、瘴気の発生源に何らかの形で関わっているからでしょう。あれは容易く影響を受ける。まあ、その程度の存在なんですがね」
俺は重い後口を流すように、水を少し飲みながら、そう言った。
「もしかすると、望さんはもういないかもしれませんよ?」
「それって……」
美鈴が血の気の引いた顔で、小さく言った。俺は静かに頷いて見せた。
「死んでるかも知れない」
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