正義感は犬を殺す

正義感は犬を殺す 1

 地方の小さなリフォーム店。それがオレのやっとの思いで手に入れた職だった。

 高校卒業後に様々なバイトを転々とし、あっという間に2年が過ぎた。いい加減にどこかに腰を落ち着けようと就活したのだが、特に目標もなくフラフラとしていただけのオレを雇ってくれるところは中々見つからない。

 そんな時になんの縁もゆかりもないこのオレを拾ってくれたのが、この店の親方だった。


 親方は無口で厳しくて、仕事覚えの悪いオレはいつも怒られたばかりだが、本当は不器用で口下手なだけなことを知っている。中々行き着く先が決まらずにイラついて1人でやけ酒をし店の前で潰れていたオレは、言葉の通り親方に拾われたのだ。

 動けずに倒れていた店先から強面の親父が突然出てきたので、オレはこっぴどく怒鳴られると覚悟したのだが、親方は無言で水を差し出してきた。オレがそれを受け取ると、親父は去って行かずに隣でタバコを吸い始めた。ポツリポツリと言葉を交わすうちに、オレは就職活動での愚痴を見知らぬ親父にこぼし始めていた。

 すると親方は、酔いがさめた時に覚えてたらうちに来いと言ってくれた。オレはその時は深く考えずに家に帰ったのだが、翌日の昼に起きて思い出し、半信半疑で昨夜倒れていた場所へと記憶を頼りに戻って行った。

 

 店の前でキョロキョロしていると、親方が出てきた。親方自身も半分社交辞令みたいなものだったのだろう。オレの顔を見て、ガハハと笑った。親方が思いっきり笑っている姿を見たのはそれ以来一度もない。

 そうしてオレはここで働かせてもらえることになった。もちろん親方は言わないが、後になって、本当は新人を雇う金もギリギリだったのに置かせてくれたのだと分かった。


 オレが2年もブラブラしていたのは、なんとなくやりたいことが見つからなかったからで、社会に出るのが怖かったからでもある。そんなオレを拾って育ててくれた恩は、いつかしっかりと返したい。

 そうするにはまず一人前になることが大事だろうと思って、オレは仕事に精を出していた。


 親方の店にはオレの他に数名の従業員がいる。みんなかなり年上で、下っ端で最年少のオレはさまざまな雑用を押し付けられていた。だが、それを一生懸命にこなしていたからか、かなりかわいがられるようになってきたように思う。オレにとってはみんな師匠なので、いろんな人から技術を盗む機会をもらえるこの職場は、ありがたい限りだった。


 中でも高橋さんという人は、オレが一番お世話になっている師匠だ。高橋さんについて様々な現場にまわり、経験を積ませてもらっている。この人も親方と一緒で無口な人で、多くは語らないが、その技術は一流だった。

 一口にリフォームと言っても様々なものがある。高橋さんは片っ端からオレに教え込んでくれて、そのおかげで今では比較的簡単な仕事は任せてもらえるようになった。


 今回の仕事は壁紙の張り替えだった。壁紙も、オレが任せてもらえるようになった仕事の一つだ。責任がでてくれば、やりがいも出てくる。オレはどんな現場でも、一つ一つ丁寧な仕事をしていこうと決意していた。


「こちらです。お願いします」

 そう言って出迎えてくれたのは、スーツを着た落ち着きのある男性だった。通されたのはマンションの一室だが、男はそんな中でも髪型をピシッと整えて、服にはしわ一つなかった。オレと違って、しっかりした人生を歩んできたんだろうなと思いながら、案内されるままに部屋へ足を踏み入れる。

 オレが任せられた仕事だが、今日は一応のサブとして高橋さんが後ろからついてくる。無口なのは相変わらずだが、その日はどこかいつもと違うような雰囲気があった。

 仕事をきちんと全うするところを見てもらおう。そんな決意は、現場を一目見てあっさりと崩れ去るのだった。


 白い壁には一面に、真っ赤な液体が飛び散っていた。あまりの光景に思わず悲鳴をあげそうになる。テレビや映画で観るような、惨劇の現場にしか見えなかった。

 スーツの男はにこりともせず、淡々と説明を続けている。オレは内容もほとんど耳に入ってこないまま、ただ口をパクパクとさせているばかりだった。


「では、よろしくお願いします」

 男は去っていこうとする。

「あの」

 オレはそれを呼び止めた。

「はい?」

「いや、その、一体何があったのかなと……」


 おちゃらけた言い方で聞いてみた。聞かずにはいられなかった。だが、オレが発言した途端に部屋の中の空気が変わったのが分かった。背後から誰かの刺さるような視線を感じる。それが誰のものかは、目の前のスーツの男の目線を見れば分かった。スーツの男は高橋さんをちらりと見て、そこから目を離さずにこう言った。

「絵具ですよ。正確には、血のりです」

 そしてスッとオレの方へ視線を移す。口元は微笑んでいたが、その目の奥は、笑っていないように思えた。


「こんな惨状なので、驚かれるのも無理ないですね。ちょっと動画の撮影をしていまして。演者が思ったより張り切り過ぎたので、血糊が壁にも飛んでしまったんです」

 有無を言わさないような雰囲気に、オレは首を縦に振るしかできなかった。男はにこりと笑うと、会釈をして部屋を出て行った。重々しい音がして玄関の扉が閉まる。部屋の中にはオレと高橋さん、そして赤い血糊が四方八方に飛び散った壁だけが取り残された。


 高橋さんは大きくため息をつくと、作業に取り掛かった。

 オレは何か聞こうとしたが、そうして失敗したばかりだ。それに圧倒的な存在感のある壁が目の前に立ちあらわれ、言葉を発することができなかった。とにかく作業をはじめよう。何も考えないようにして、黙々と壁を剥がしていった。

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