第6話 隣人襲来



「…………んぅ」


 薄らと開けた目へ入る明るい光。

 見慣れた天井、慣れないあどけなさの残るハスキーボイス。

 ……そして、頬を押す何か。


「おはよ、はるちゃん」


 俺の顔を覗き込むのは桃色のスウェットワンピースを着込んだ陽菜。

 ベッドで上半身だけ起こしながら太陽のような笑顔で朝の到来を告げる。


 どうやら頬に感じるものは陽菜の人差し指らしい。

 ――思い出した。

 昨日退院した俺の家に事後承諾の形で陽菜が転がり込んできたんだった。


「……おはよ、陽菜」

「まだ眠そうだね」

「少し、な」


 猫のように目を擦りながらも、まだ寝ていたいと怠惰な心が顔を出す。

 何時だろうとベッドサイドの置き時計を見ると、午前9時を過ぎたくらいだとデジタルな表記が教えてくれた。

 疲れのせいか長く眠ってしまったらしい。


 何も予定が無いとはいえ二度寝をしてしまえば何かを失う気がして、半ば無理矢理に身体を起こす。

 独りでに漏れた欠伸が空気を取り込み、朝日を浴びたお陰か徐々に頭が回り出した。


「朝飯でも作るか……って、材料ないんだった」

「コンビニで買ってくる?」

「うーん……それでもいいけど時間帯が微妙だしなぁ。どうせなら朝昼兼ねて外で食べるか?」

「賛成っ、陽菜は駅前に出来たパンケーキ屋さんがいいな!」

「……たまにはいいか。んじゃ準備するか」


 一食目から甘いものというのはどうなのかと感じたが、陽菜の希望なら仕方ない。

 なんだかんだで陽菜が選ぶ店に当たりが多いのは周知の事実だ。

 男の頃も連れ回されて肩身の狭い思いをしたことは数しれずだが、少女の姿ならそれもないはず。

 そう考えて外出の支度に取り掛かるのだった。


 一言で言えば見通しが甘かった。

 俺は何一つ知らなかったのだ。

 女の子としての身支度というものを――


「――ほんと綺麗な髪で羨ましいなぁ。色にしても、髪質にしても」

「そうなのか? 俺は陽菜の茶髪も好きだけどな」

「これが無自覚アタック……危うく手元が狂いそうになったよ」

「お願いだからやめてくれ」


 洗面所の鏡には見るからに少女然としたフェミニンな服を纏った俺と、俺の髪を弄る陽菜の姿が映っていた。


 グレーのストライプ柄があしらわれた、袖口がふんわりと膨らみ細いリボンが結ばれた七分丈のブラウス。


 膝の少し上で波打つ黒いスカートはキュロットと言うらしく、一見スカートと同じだが内側は半ズボンのように股下がある構造になっている。

 まだ抵抗感がある俺への配慮なのだろうが、それならズボンでいいのではと言うと「勿体ない!」と一蹴された。


 膝下まではソックスが包み込んでいて、陽菜の話ではここに編上げの茶色いブーツを合わせるらしい。

 落ち着いた色合いなのに軽さのようなものも備わったデザインのそれは、確かに可愛いと思えるものだった。


 それを着ているのが俺じゃなかったら手放しで褒められるのだが。


「ほら、動かないでー」

「いやさ、なんかこそばゆくて」


 純白の長髪へプラスチック製の櫛を通しながら、絡まっていたら手櫛で解す陽菜の手つきはまあ見事なものだ。

 肌に自分の髪が触れるのはどうしようもないが口には出てしまう。


 いずれは自分で出来るようになるのだろうか。

 変わったことが多すぎて酷く憂鬱である。


「こんなに綺麗だと結ぶのは勿体ないし……緩くウェーブをかけてみようか」


 言ってヘアアイロンの電源を入れて毛先の方を挟み込み、くるりと巻き上げる。

 数秒待ってヘアアイロンを抜くと……俺の髪は緩やかな曲線を帯びていた。


「へぇ……凄いもんだな」

「そう? このくらいは普通だよ」


 体感したことのない世界の神秘に触れて感動を覚え声を漏らした。

 こんな手間がかかっていたとは女性の世界はなんと恐ろしい。

 何度か繰り返すと、全体的に柔らかさを増した印象の髪型へと変化していた。


「うん、やっぱり可愛いね」

「褒められてるのに素直に喜べない」

「はるちゃんは少しくらい素直になってもいいと思うんだけどなぁ」

「俺は十分に素直だろ」

「えっ……?」

「なんだその目は」

「はるちゃんが素直ならこの世の人はなんなのかなぁと思って」

「普通に傷つくが?」


 それはあんまりじゃないのか。


「……で、これで準備完了?」

「バッチリだよ! 結構時間かかっちゃったけどね」

「もう11時ってマジ?」


 何気なく弄った携帯端末に表示された昼前の時刻。

 同時に後ろからくぅ、と可愛らしい音が聞こえた。


「はるちゃんにお腹の音聞かれたぁ……もうお嫁に行けないよ……」

「なわけあるか」

「それははるちゃんが陽菜をお嫁に貰ってくれるってこと?」

「なんて都合のいい解釈」


 そんなしょうもない理由で結婚させられた人なんて聞いたことないぞ。

 出かける前から疲れるとかどうなってんだよ。

 準備にかけた時間と手間が勿体ないから行くけどさ。


 なんて考えている時だった。

 ピンポーンと唐突にインターホンの音が響く。


「誰だ」

「はるちゃんの友達?」

「煽ってんのか? ん?」


 確かに友人と呼べる人の数は多くないけどさ、それは心外だ。

 もし今の来客が本当に俺の数少ない友人の一人だったらどうしてくれるんだよ。


 ……まともにインターホンを鳴らすような友人、いたっけ?

 いや、いないわ。


 アイツら平然とドアの前で叫んだりイタ電してくるし、なんなら窓から入ってくることもある。

 常識で図ることなかれ。

 ということは、だ。


「回覧板とかか? ポストに入れとけばいいのに」

「陽菜が出ようか?」

「んー、そうだなぁ。念の為任せていいか」

「はーい」


 俺の頼みに応じて陽菜が玄関へ向かい、扉が開く音が聞こえた。

 ――そして、すぐさま俺の元へ戻ってきた。

 顔に喜色を滲ませながら。


「はるちゃんも来て!」

「うぉいっ!?」


 くるりと視点が上へと向き、首の後ろと膝裏へ腕を通され陽菜に抱えられた。

 俗に言うお姫様抱っこの体勢。

 抵抗する間もなく玄関までドナドナされた俺を待っていたのは――艶のある黒髪を左右で結んだ中学生くらいの少女だった。


 色素の薄い肌色、保有する呪力の影響で変色した夜空のように綺麗な青藍色の瞳。

「可愛いは正義」と迫力を感じる筆致で書かれたTシャツの上にパーカーを羽織っている。


 下はショートパンツで細く華奢な両脚を黒いタイツが包み込む。

 身長は今の俺と同じくらい……いや、俺の方が少し小さいか。


 左手に持ったビニール袋には何か入っているのだろう。

 見知った仲ではある彼女と目が合い、僅かながら好奇の色が青藍に混じる。


海涼みすずちゃん、連れてきたよ!」

「陽菜さん、その女の子が先輩なんですか……?」


 信じられないとばかりに聞き返した黒髪の少女――海涼に陽菜が頷き返す。


「――あー、その、なんだ。こんな体勢で悪いが俺は確かに琥月遥斗だ。そっちは氷上海涼でいいんだよな」

「……本当に先輩ですね。微かに感じる呪力の波長も同じです。その何も考えていないような言葉遣いも、そのままです」

「おい」

「ごめんなさい、本心です」

「そこは冗談って言うべきでは?」


 ぺこりと腰を折って謝罪の姿勢を見せる海涼に呆れながらも、床へ降り立ち胸を撫で下ろす。

 知らぬ間に緊張していたらしく、長い息が独りでに漏れだした。


「今日は挨拶と確認に来ました」

「確認はわかるが……挨拶?」

「はい。この度、隣へ引っ越して来たので挨拶を……と思いまして」


 海涼はそう言って左手に持っていたビニール袋を差し出した。

 それを受け取ると、中には二枚のTシャツが入っていた。

 恐らく海涼が愛用する文字Tシャツシリーズなのだろうと予測を立てながら、有難く受け取ることにする。

 間違っても引越しの挨拶で渡すものじゃないけどな。

 ……ん?


「今、隣に引っ越して来たって言ったか?」

「……先輩の記憶力に期待はしてませんでしたが、これは想像以下です」

「歳上をなんだと思ってるんだ」

「歳の差以前に先輩は先輩ですから」


 軽口を叩き合える程度には仲は悪くないと思っているが、言葉を交わすごとに一方的な意識だったのかと疑ってしまう。

 海涼に悪気はないのだろうけれど、どう接すればいいのか困る。


「そういえばお兄さんは?」

「家のバカは協会の支部に行ってます。因みに部屋は別です」

「妥当だな」

「当然です。アレが居たら心が休まりません」


 酷い言い草ではあるが、海涼の兄――冷士れいじを知る人物ならば全会一致で賛成するだろう。

 何せ特級呪術師『絶氷』の氷上冷士は……極度のシスコンなのだから。

 本当に優秀な人なんだが、その一点が全てを台無しにしていると言っても過言ではない。


「そうだ! 海涼ちゃんはお昼まだだよね?」

「そうですね」

「なら一緒に食べに行かない? 駅前のパンケーキ屋さんなんだけど」

「おい、いきなり誘うのは迷惑だろ。別に断ってくれても大丈夫だからな」

「……それではお言葉に甘えて。先輩の奢りなら懐も痛みませんし」

「おい」

「やったー!」


 すぐさま纏まった結論。

 チラチラと俺を見ては目を逸らす海涼を不審に思いながら、俺たち三人は昼食のために駅前へと向かうのだった。

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