第5話 罪に溺れて



 カーテンの隙間から淡い月明かりが射し込む薄暗い寝室。

 あるのはシングルベッドとデスク、雑多なジャンルの本が詰まった本棚。

 窓辺に飾られた観葉植物が見守る中、またしても奴はそこに居た。


「んふふ……はるくんの匂いだぁ……」

「ド変態だ、ここにド変態がいる」


 ベッドで天井を仰ぎながらドン引きする俺の隣。

 俺の枕へと顔を埋めて深呼吸を繰り返し気味の悪い言葉を発する残念少女――陽菜の姿があった。

 身体をくねくねと捻らせ、バタバタと足を動かす姿は始めて友達の家に泊まる子供同然。

 やってることの犯罪臭は半端じゃないが。


「陽菜のベッドを用意する時間くらいあったろ」

「用意しなくていいって言っちゃったから」

「お前が諸悪の根源か」


 何故一緒のベッドで眠っているのかという理由は至って単純明快。

 一人暮らしだった俺の家にはベッドが一つしかないからである。

 しかもこの状況が陽菜によって作られた人為的なものであると判明してしまった。

 怪訝な目を向けてしまうのはしょうがない。


 当然のようにベッドに連れ込まれた俺だったが、当初は陽菜をベッドに寝かせて俺はソファで寝ればいいとか考えていたのだ。

 それを伝えると陽菜は猛反対し実力行使(物理)でこのザマだ。

 誰だこんな大怪獣を育て上げたのは……俺か?


「はるくんニウムの過剰摂取で倒れそうだよ……」

「架空の物体を作り出すな」

「あるんだからしょうがないじゃん」

「ねぇよ」


 至極当然のように言ってのける陽菜へ冷静に言葉の棘を突き刺し、放置して目を閉じる。

 すべすべとした薄手のパジャマの感覚が頼りない。

 同じシャンプーを使っているはずなのに、隣から香る柑橘の匂いは甘く心が落ち着く。

 シングルベッドでは手狭で手の甲と甲がブランケットの中で擦れ合う。


 普段は一人なのに、今日はそうじゃない。

 小さな違いがボタンを掛け違えたかのように、隣の気配を敏感に感じていた。

 不快感は微塵もない。

 得体の知れない安心感と共に、眠気は意思に反して直ぐにやってきた。


 すう、と沈む意識の中で聞こえた陽菜の声。

 その中身は頭に残ることはなく、瞬く間に眠りへ落ちてしまった。



 ▪️



「――ほんと、可愛い顔」


 先に眠ってしまったはるちゃんのお餅みたいなほっぺに指を当ててみる。

 起こさないよう力を込めていないのに、指先は簡単に奥へと沈む。

 癖になるような柔らかさに思わず顔が緩んでるのが自分でもわかる。


 でもやり過ぎは禁物。

 今は、はるちゃんの寝顔を見ていたいから。

 安心しきったように目を瞑って静かに規則的な呼吸音が響いている。

 少しだけ空いた桜色の唇がなんだか水槽の中の金魚みたいで面白い。

 ……多分はるちゃんが聞いたら怒るけど。


「……どうして、かな。陽菜はもっと責められるべきなのに」


 はるちゃんは何一つ陽菜を責めなかった。

 それどころか全部自分のせいだなんて受け入れて、表面上は平気そうな顔を見せる。


 ――ああ、


 あればどう取り繕おうと、誰がなんと言おうと陽菜自身の失敗、失態。

 あの時は本当に心臓が止まったかと思うほどに、身体を凍えるように冷たい水が血の代わりに血管を満たしたとすら錯覚した。


 事実として呪術師――『千剣』の琥月遥斗は死んだと言っても差し支えない。

 他でもない、陽菜のせいで。


「謝っても謝りきれない。はるくんが赦しても陽菜自身が陽菜を赦せない」


 ギュッと全身に力が入って強ばるのを感じた。

 布団の中で硬く握られた手。

 爪が手のひらに食い込んでいるのか鈍い痛みを感じる。


 ……けれど、『残呪』ではるくんが受けた痛みはこんな生易しいものじゃないはず。

 穢れた呪力が全身を壊し、蝕み、蹂躙する感覚を陽菜は知らない。

 それでも、目に焼き付いたはるくんの顔が忘れられない。


 苦痛を耐えるように食い縛り引き攣った頬が、不快感で土気色に染まった顔色が、正気の色が次第に失われる黒い瞳が。

 だというのに、陽菜を抱き留めた腕だけは最後まで解けなかった。


 呪術師協会から最高位である特級の免許を与えられる『千剣』――琥月遥斗と2級呪術師の陽菜。

 世の中における価値の差なんて明白だ。

 なのに、どうして。


「はるくんは陽菜にそこまでしてくれるの……?」


 わからない、わからない。

 何度考えても答えなんて出てこない。

 霞がかった心模様、思考の螺旋で堂々巡りだ。

 でも、一つだけ確かなことがあるとすれば。

 今のはるくんを守れるのは陽菜以外いない――いや、違う。


「――やるんだ、陽菜が。他の全てを差し置いてでも」


 これだけは譲れない、揺るがない。

 応援として氷上兄弟が来るけれど、それとこれとは関係ない。

 階級の差も実力の差も理解はしている。

 陽菜なんかより二人がはるくんを守ってくれた方がいいなんて当たり前。


 ――嫌だ。


 子供の駄々と変わらないかもしれない。

 力不足は重々承知。

 その上で変わらずに、陽菜は強く強く思うんだ。

 もう二度とあんなのを見たくないって。

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