10-6 ひとりの体に、ふたりの心

「天魔は消えたんじゃないのか。どうして……ティラ」

「わからない。……きっと、心がふたつに割れてしまったのかも。目覚めを巡る混乱の末に」


 古海は唖然としている。


「どっちなんだよ。天使か。それとも天魔か」


 息が整うと、ティラは立ち上がった。


「直哉くん……」


 熱を帯びた瞳が、濡れて輝いている。


「ティラ……。ティラなのか?」

「うん……」


 天使は微笑んだ。


「おとなになったよ、私。ほら、触ってみて……翼」

「あ、ああ……」


 近づいてきたティラに、優しく抱かれた。腕と翼で包むようにして。


「……柔らかい。羽毛って、すべすべしてて柔らかいんだ」

「ええ」


 笑いかけてきた。


「いい匂いだな、羽。天使とも天魔の匂いともまたちょっと違って」

「そうよ。私は今、ふたりだもの」

「ティラ……」


 俺はティラの瞳を覗き込んだ。天使の赤い瞳……。奥がいつものように輝いている。


 右目が金に、左は銀に。


「そうか……」

「よく聞いて、直哉くん。ふたりがこの体を同時に使っていて、すごく苦しい。いつまでこの不安定な心と体でいられるかわからない。私は最悪、もうすぐ存在自体が消えてしまう。だからその前に、絶対絶対あなたを幸せにする。天魔だって賛成してくれている。掴まっててね。直哉くんを父親の記憶に飛ばすから」

「えっ!?」


 一度丸まり、それから広がった翼が空気を捕らえると、俺を抱いたまま、ティラは空に舞い上がった。


 俺の目に、権現山の頂上に残る三人と一匹が映る。手を口に当てて驚いている野花。複雑な表情の古海。黙って見送っているミントとケルちゃん。


「ティラ……俺を記憶に飛ばすって」

「天使と天魔、両方の力を同時に使える今だけ。今だけはそれができる。だから」

「でも俺、あんな奴の記憶なんて——」


 柔らかなもので、唇を塞がれた。ティラの唇。温かく、そして優しい。


「……」

「……」


 ティラは、そっと唇を離した。


「……ごめんね。嫌なことさせて」

「ティラ……」

「だから……これがお詫びの印」

「……」

「そして、私の気持ち。私と……もうひとりの私の」


 ティラが優しく微笑んだ。ふたりのティラが。


「じゃあ行くよ、直哉くん……」


 目の前が真っ白になる。頭の中にティラの声が響いた。俺になにか伝えようとする声が。


 しかし、ティラがなんと話しているのか、もう俺にはわからなかった。心が自分の意識を離れたから。

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