10-5 ティラ、大人になって羽が生える。とんでもない羽が……

「オンキリキリ・ハラフダラン」


 古海を中心に、五芒星を包む周囲にピンと緊張の糸が張っている。胃が痛くなるような緊迫感に、見ているみんなの額にすら汗が浮かんできた。


「オンバッサル・ケルベロス・トシャカク。サラマンダーの蘇りをパラケルススより受け継ぎし……」


 経を読むように腹からの息遣いで、呪文を唱えた。


 ケルベロスの体から蒸気が立ち上り始め、風景が歪んで見える。


 古海の頬は火照り、額からは汗が滴り落ちた。汗が目に入るのも構わず、詠唱を続ける。発汗が激しく、白いTシャツは水を被ったかのようにぐっしょり濡れていた。


「粭島一族古海、闇逐やむやらいを奉ずるに応じ、ケルちゃんの御霊を遷化入寂せんかにゅうじゃくより救い、常世とこよから現世うつしよに戻し給え」


 両手で、五つの印を順番に結んだ。闇逐とかいう儀式の印だろう多分。ケルベロスの肉体が、一瞬痙攣するように動き、霧の放出が加速する。


「そう。そうよ……。こっちよこっち。光が見えるでしょ」


 古海の体が震え始めた。汗が間断なく流れ落ちる。


 そのとき結界の中から、なにかが折れるような痛ましい音が響いた。ケルベロスの周囲にいったんは立ち込めた霧が、ふと揺らいだ。


「――!」


 古海の顔が歪んだ。霧は徐々に薄れてゆく。


「ダメよっ!」


 立ち上がると叫んだ。


「ケルちゃん戻ってらっしゃい。この世界に。マナは全部注ぎ込んだ。あとはあなたの気迫次第よ。ほらこっち。あたしがいて、ミントもいる。見えるでしょ。見えるはずじゃんっ!」


 叫びに応じるようにケルベロスの耳がひとつ、ぴくりと動いた。


 腹を包む肋骨が、呼吸するかのごとく上下する。白い霧が激しく噴き出し、その体をすっかり包んだ。


 霧は周囲を覆い、まったくなにも見えなくなって……。晴れると、晴明紋の中心にケルちゃんがいた。トラ猫の姿に戻って。


 体を起こして、こちらをじっと見つめている。


「ケルちゃんっ!」


 ミントと古海が同時に叫んだ。猫はにゃあと鳴いて、駆け寄ってくる。両手を開いた古海とミントに向かい……。


 そのままふたりの間を潜り抜けると、ぴょんと飛んで、野花の胸にふんわり着地する。野花は猫を抱いて、愛しげに撫で回した。


 ケルちゃんは、にゃあにゃあ鳴いている。


「……ちょっとあんた」


 古海が振り返った。腕を腰に当てて、怒り心頭の表情だ。


「どういうことよ、このクソ猫っ」


 頬がピクピクしている。


「い、生き返らせてあげたあたしを無視して、しかも飼い主スルーして、なっなんで野花なのよっ」

「ま、まあまあ……」


 さすがの俺も苦笑いだ。


「あっあたしが、どんだけ命懸けで取り組んだか。しっ失敗したらあたしの命だって危なかったんだから。あっあたしの……命……」


 ふっと頭が垂れると、そのまま倒れ込む。間一髪で抱き止めると、荒い息で汗まみれの古海を、そっと寝かしてやった。


「古海……」


 目を開けた。


「直哉……」

「よくやった。お前、コオロギ・カエルレベルから人間蘇生とか一気に飛ばして、冥府の番犬蘇らせたんだ。自慢していいぞ」

「直哉……。お父さんも……お父さんも、喜んでくれるかなあ……」


 邪気のない笑顔を、古海は浮かべた。俺がそれまで見たことのない、かわいい微笑みを。


「ああ、もう嫁に行けなんて言わないぞ、きっと」

「よ、嫁には……行くもん」


 抱きついて、俺の胸に顔をうずめた。


「今日はこうしていいでしょう。この間のティラのように」

「……ああ」

「……でも良かった」


 まぶたを閉じて、胸に頬をこすりつけてくる。


「そうだな」

「ティラちゃん……」


 背後で野花の声がした。ティラが、よろめきながら立っている。


「ティラ……。も、もう平気なのか」

「は、はい……」


 ティラは、額を手で揉んだ。


「す、少しだけ……気持ち悪い……かも」


 ふらふらしている。


「そりゃ、あれだけ天魔が大暴れしたんだから、当然というか……。ティラ!?」


 こらえ切れず、天使はしゃがみ込んだ。背中の膨らみがもぞもぞ動いてる。


「まさか……」


 バリバリと乾いた音が轟き、右側が裂けた。激しい痛みに、ティラが絶叫する。裂けた背中から黄金の光が漏れ、中から翼が覗いた。伸び切ると広がり、体液で濡れていた羽毛が乾いて空気をはらんでゆく。白い羽毛が。


 前ティラが言っていた。白い翼なら天使の翼、黒い翼は天魔の翼だと。つまりティラは望み通り天使になれたってことだ。


「ティラ……」

「おとなになったのね」


 古海が呟く。


「魂が成長したのよ。天魔が育ち切って心がすべて解放されたから」


 続いて、左の膨らみが裂けた。激痛に、ティラは体を震わせている。こちらからも翼が伸び、羽毛が空に広がった。


「どういうことだ……」


 眼前に、信じられない光景が広がっている。はあはあと荒い息で地に手を着いているティラの背には、二メートルほどの翼が左右に広がって輝いている。


 右は純白、左が漆黒に。

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