10-3 冥府の番犬、ケルベロス

「なに百年もかければ、お前だって私のことを受け入れられるはずだ。それでなければ……悲しすぎる」

「だめよ、お姉ちゃん」


 ミントが一歩進み出た。


「お姉ちゃんと約束したもの。天魔になりそうになったら、止めてあげるって」

「ふん」


 面白そうに瞳が笑っている。


「お前、誰だかわからんが、私を制止できるとでも? 沖縄のときとは違うぞ。私は真の意味で目覚めたのだからな、ティラの人格を抑え込んで。おまけに面足神社が私に力を与えてくれている」

「試してみましょうか。お姉ちゃん」


 ミントの声が野太くなった。


波旬はじゅんよ。お前のもうひとつの声に耳を傾けるのだ。それはお前の心の声を代弁しているのだからな」

「ふん」


 天魔は鼻を鳴らした。


「だからなんだ。私は私の道を進む」

「ならば再び眠りに就け」


 ミントは腕を前に伸ばし、手を重ねるようにした。十本の指の先から、紫の細い火花が何十本も散って、天魔を包んだ。


「……さすがに強いな、お前」


 火花に包まれ紫に発光しながら、天魔は首を傾げた。


「誰だかわからんが、冥府のよほどの実力者と見える。この間の私だったら、封印されるどころか、討滅されていたかもしれん。だが……」


 早回しのような勢いで走り込むと、ミントの細い首を掴んで宙に吊るし上げた。


「冥府に帰れ、小娘」


 ギリギリと首を締める。首に回った腕を外そうと、ミントはもがいている。紫の火花が、明滅を繰り返しながら弱々しくなっていく。


「やめろっ天魔」

「だめっ!」


 羽交い絞めしようとした俺を、ミントが制止した。


「来ちゃだめ。消えちゃうわ、お兄ちゃんが」

「しかし……」


 ためらう俺の肩を、なにかがポンと踏み台にした。


 ケルちゃんだ。


 猫は俺の背を駆け登ると勢いをつけて跳び、天魔の腕に噛みついた。がぶりと恐ろしげな音が、俺の耳にまで届く。


「――っ!」


 ミントを放り投げると、天魔は猫を掴んで地面に叩きつけた。


「私なんか齧らずに、カリカリかチュールでも食ってろ」


 腕を掴んで振っている。


「おーいて。乱暴な猫だな。……まあ猫風情の噛みつき方じゃあないが。正体を現せ」


 素早く起き上がると、猫は唸り声を上げて体を縮め、跳躍の体勢を取った。


 その体から、湯気のような煙が立ち昇る。もの凄い殺気だ。体が白銀しろがねに輝くと、ケルちゃんの首の模様が体から立ち上がった。それはしゅるしゅると大きくなり、「もうひとつの首」となる。


「ケ、ケルちゃんが……。首三つ……」


 野花は呆然としている。


 三つ首となった猫の、足がにゅるりと伸びた。耳や鼻先が伸び体も膨満して、なにか「この世の生き物ではないもの」に変容してゆく。そう、狼に似た存在へと。


「あ、あれは……」


 直哉は言葉を失った。体躯三メートルほどの獰猛な怪物としか言いようがない。三つ首を持ち、耳まで裂けた口からは鋭い牙が覗き、体からは紫の燐光を放っている。


「あれは……なんだ。なんなんだ」

「ミアキスよ、猫と犬の共通祖先」


 古海には心当たりがあるようだ。


「それくらい旧い形を残しているもの。――つまりあれは、ケルベロスね。冥府の番犬、ケルベロス。ミントを護るために付き従っていたんだわ」


 それで「ケルちゃん」か。


「ふん。面白い見世物だな。こいつが出てきたってことは、小娘は冥府を仕切る神ハーデスの係累か」


 天魔は楽しそうに哄笑した。


「冥府が全力で来るってんなら、私としても潰し甲斐があるさ。子猫を殺すのは気が引けるしな」


 怪物が飛びかかり、天魔はそれをがっしりと受け止めた。


 冥府の番犬は大きく口を開き、天魔を噛み骨を砕こうとする。ふたつの頭を、天魔は押し返した。しかし中央の頭に、首を噛まれた。


 唸り声を上げ、ギリギリと噛み込もうとする。天魔の顔が苦しげに歪んだ。


 バキリ。


 嫌な音が聞こえて、ケルベロスの左の首が垂れた。天魔に折られたのだ。続いて右の首も。中央の頭は、天魔の首を放して苦しげに天を仰ぐ。


「痛いんだっての、お前」


 天魔は両手で残った首を掴んだ。折ろうと力を込めた瞬間、天魔の背中にミントが抱きついた。


「――!」


 不意を突かれて、天魔がなにか叫んだ。身じろぎすらできず、感電したかのように苦しんでいる。


 ミントの体は、黒く輝いた。黒々と闇の色を現しているのに、まぶしくて目を開けていられない。


 その輝きは、ケルベロスからも発せられている。天魔の体は赤く輝いたが、闇に包まれ、次第に見えなくなってゆく。


 権現山の頂上に、季節外れの突風が巻き起こった。樹々の葉を根こそぎにし土を呼び、天魔を中心に竜巻のように渦を巻く。飛ばされないよう、本能的に俺は樹にしがみついた。

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