5-4 美ら海水族館でなんか出た×2
「……んだよ、あいつら。ソフトクリーム食べるとか言って、人の財布を持ってっといて。いつまで待たせるんだっての」
美ら海水族館。メインの「黒潮の海」水槽の前で、俺は待ちぼうけを食わされていた。
「それにしてもさすがに凄いな、ここ」
三十五メートル×十メートルの水槽には、イワシの群れからイソマグロ、さらにはグレイリーフシャークなどの大型のサメに交ざって、世界最大の魚類であるジンベイザメややはり世界最大のエイであるマンタまでが優雅に舞っている。
「直哉」
後ろから声をかけられ、振り返るとティラだった。ライティングされた水槽の水は、深く
「なんだティラか」
見ると、小さなバッグしか持っていない。
「俺の分のソフト、買ってきてくれなかったのかよ」
「館内は飲食禁止だ」
「そうか……。古海は?」
「さあ」
「さあ?」
なんか変だ。いつものティラじゃない。
「どこぞを散歩しているのであろう」
肩に頭を預けるように寄り添うと、ティラは俺の胸に手を置いてきた。
体からは誘うような甘い香りが立ち昇っている。やばい。なんか知らんがコーフンしてきたw
めまいがして倒れそうというか。とにかくすごく……そう、とにかく抱きつきたい。
これいつもの煩悩じゃないだろ。なんか知らんがずっと激しい。操られているみたいだ。
「……お前、ティラじゃないな。タナトスって野郎なのか」
「ふん……」
口の端に笑みを浮かべた。
「よく我慢できるものだな。今日はいつもと違って少し本気を出してみたのだが、私の魅力になびかんとは」
瞳を細めて、見透かすように俺を見つめてくる。
「ティ……ティラとはそれなりにくっついたりしてるからな。……慣れだ」
「ふん。変な男だな、お前。さすがに運命の連れ合いだけある」
唇を歪めた。
「正体を現せ、タナトス」
「……どうも勘違いしているようだな」
首を傾げた。
「私はティラミンだよ。いつぞやも教えたはずだが」
手を伸ばして俺の頬を撫でてくる。
「嘘をつくな。お前、全然ティラと違うじゃないか」
「ふん……」
謎の存在は、呆れたように俺を見た。
「お前……、あっちの『ティラ』が好きなのか?」
「別に好きとか……」
言い淀むと……。
「それは残念だったな」
回していた手を放すと、俺を突き飛ばす。
「あっちが偽物、仮の姿さ。本物は私だ」
「偽物って……」
「そう、私がティラミンだ。人間からは天魔と呼ばれるが」
「天魔?」
「私はイェレレ・ティラミン・モート・マーラ・パーピヤス。お前にも名乗ったではないか。私は第六天魔王、
「そんな名前でわかるわけないだろ」
「うるさい。お前はもう私のものだ」
天魔は言い切った。水槽に青く照らされて、瞳が複雑な色に輝いている。
「……なんのことだ」
「私はこの世を我がものとする。天魔だからな。お前には、女を思うがまま自由にできるハーレムを与えよう。ただしハーレムの女は私ひとりだが……」
「そいつは楽しそうだけれど……」
時間稼ぎに適当に受け答えながら、俺は考えた。どうにもこいつは怪しい。信用できるわけがない。そもそもティラを乗っ取ってやがるし。
俺は心を決めた。
「お前、悪として君臨するんだろ」
「もちろんだ」
「――なら、やなこった」
睨まれたが知ったこっちゃない。俺は続けた。
「お前、ウチの親がなんで離婚したかも知らないだろ。俺はいいかげんな男だけどよ、悪い野郎は大嫌いだ」
「いいから私のものになれ。お前がうんと言わないのなら、ここに不幸をもたらすぞ。お前のせいで人が大勢死ぬことになる」
にやりと唇が歪んだ。どこか奥のほうで、ガラスの割れるような音が響いた。
「……」
同じような音が次々に、右でも左でも起こり始めた。
「ま、小さな水槽ばかりではつまらないしな……」
――ビシリ。
天魔の背後にある大きな水槽に、斜めにヒビが入った。それは次第に大きくなってゆく。
唐突に、非常ベルが鳴り響いた。大水槽の周囲でざわついていた人々が、叫び声を上げて逃げ出し始めた。
「お前……」
「さあ、どうする」
「ふふ、ふざけるなっ」
「声が震えているではないか。かわいいのう」
頬を撫でてきたから、はねのけてやった。
「おう。生きがいいな。ふふっ。初夜が楽しみだ」
大きな破壊音が響くと、ひびから水が勢い良く漏れ始めた。床に落ちた小魚がピチピチ跳ねて、銀色に輝いている。漏れ出した水流が周囲を削り、水槽の穴はどんどん大きくなってゆく。もうすぐ全面が一気に割れるだろう。
「ここを潰したら、次は暴風雨だ。明日の新聞には、局地的竜巻で死者何百人と出ることやら……」
他人事のように言う。
「お姉ちゃんダメよ。おいたしちゃ」
声が響いた。少女だ。ひびのすぐ前に立ち、灰色の猫を抱いている。十二歳くらいだろうか。水色のワンピースで、青い水槽に溶け込んでいるようにすら見える。藍鉄色のショートヘアで、瞳は銀色。この騒ぎでも猫が落ち着いているのが不気味だ。
「危ないっ。逃げろっ」
叫んだが、俺の言葉を聞かず、少女はじっとしている。
「お前……」
天魔の赤い瞳が縦に裂け、猫目になった。じっと少女を見つめている。
「人間ではないな」
「ここは、お姉ちゃんが出てくるべき場所ではないわ。……少なくとも今はね。だからおとなしくして。お願い」
「何者だ……お前」
天魔は首を振った。
「……わからん」
「波旬の娘よ。今は寝ておれ。むがし夢を見て」
男の野太い声で、少女が命じた。天魔はふっと瞳を閉じると、そのまま俺にもたれかかってくる。
なんか知らんが、気を失ってるみたいだ。
「おい。ティラだかタナトスだか天魔だか。おいったら……」
いくらゆすぶっても起きない。
「お兄ちゃん」
少女だ。普通の声に戻っている。
「お姉ちゃんを大事にしてあげてよね」
振り返ったが、少女の姿はない。水槽からはドウドウと音を立てて水が流れ落ちている。職員が遠くから叫んで、手招きしている。周囲にはもう誰もいなかった。
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