間章 悪夢


 チセの悪夢は、いつも決まって、同じ場面から始まる。


『――おい、抵抗してんじゃねえよ、役立たず! ゴミはゴミらしく、黙って踏まれてろ!』


 もういいか、と心の中では思っていた。抵抗さえしなければ、もっと早く、この暴力の嵐が過ぎ去るかもしれない、と。

 けれど痛みに呻く身体は、反射的に、防御行動を取ってしまう。暴力に抗う本能と、心の奥にわずかに残った、もはや削り尽くされて今にも折れてしまいそうな芯のようなものを投げ出し、チセが何もかも諦めようとした、その時。



『――目障りだ、どけ』



 降り注ぐ理不尽は、突如として響いた静穏な声とともに、払いのけられた。

 何が起きたのかわからず、呆然と瞬きを繰り返すチセの視界に最初に飛び込んできたのは、鮮やかな――


 紅い、緋い、長髪だった。


 続いて、黒い衣に包まれた、長い手足が。凛と伸びた背中が。

 ゆっくりとこちらを振り返るその影の、横顔が。高い鼻筋が。整った顔立ちが。


 ――あかいろの、切れ長の瞳が。


 まるでうつくしい幻のように、次々と、目に映った。


(……きれ、い)


 人間の、同胞の、悪意と非道に長年晒され続けていたチセにとって、それはあまりにもまばゆい色彩だった。


(人間の、血の、色じゃなくて……そう、夕焼け、みたいな、きれいないろ)


 床に倒れたまま、目の前の相手に、息も忘れて見惚れていると。


『――立てるか?』


 真っ白な、あちこちに傷痕が走る手を、差し出された。それまで誰かに手を差し伸べられたことなどなかったから、まったく意図が読めずに固まってしまったチセの手を、笑うでもなく掴んだ、その手は。


『ひどい怪我だな。動けるか? ……なぜ泣く? どこか痛むのか?』


 ――泣きたいほどに、あたたかかった。


 どうして自分を助けたのか、と問うチセに、相手は眉根を寄せて、吐き捨てるように答えを口にした。


『あいつらが見苦しい真似をしていたからだ。……人間に成り下がるような行為を、見過ごしたくなかった。それだけだ』


 だから、お前が気にする必要などない、とぶっきらぼうに告げて、身を翻した相手はそのまま立ち去ろうとした。


『まっ、て……待って、ください!』


 ――このまま、行かせてしまってはだめだ。

 なぜ自分がそう思ったのか、願ったのかもわからないまま、気付けば口から言葉が零れ出ていた。

 足を止めた相手が振り返り、紅い双眸をこちらに向ける。引き留めたチセの言葉を待っていてくれるのだ、と悟ったものの、二の句がまるで出てこない。何か告げなくては、伝えなくては、と口をはくはくと動かすチセに呆れるでもなく、相手は黙ってその場に佇んでいた。

 この相手は怒らずに待っていてくれる、と悟ったことで少しだけ落ち着きを取り戻したチセは、ようやく見つけた伝えるべき言葉とともに、深々と頭を下げた。


『あの、……あの、ありがとうございました』


 そのまましばらく姿勢を保ち、ややあってからおそるおそる頭を上げると、相手は不思議そうな面持ちでじっとチセを見つめていた。


『なぜ、礼を言う? 気にする必要などないと言ったろう。私は私の信念に従ったまでだ』

『ご、ごめんなさい。……でも、わたしは、すごく、うれしかった、から』


 怒らせてしまった、と反射的に身を縮めながらも、これだけは伝えなくては、と勇気を振り絞って口にする。


『今まで、だれも、目を向けてなんてくれなかったけど。……あなたは、わたしを、助けてくれました』


 気付けば、忘れて久しかった笑みを、頬に浮かべていた。嬉しさと感謝をそのまま表情に湛えて、まっすぐに相手を見つめていると、不意に、あかいろの瞳がふっと和んだ。


『――お前の名は? 何という』


 脈絡もない問い掛けに、再びしどろもどろになりながらも、チセはどうにか答えを返した。


『え、と……三〇二号、です。あなたの、お名前は?』

『私の名か? ――シンシャだ』


 シンシャ、シンシャ――。けっして忘れないよう、そのうつくしい響きを、自分の胸に刻むように、何度も心の中で繰り返した。


『シンシャ、さん……きれいな、名、ですね』

『シンシャでいい。――お前は、名が欲しくはないのか?』


 思いもよらぬことを問われ、チセは答えに窮する。――名。呼ばれ方。自分と他者を、区別する手段の一つ。

 ……混成種の中でも、落ちこぼれの自分には、望むべくもないもの。

 けれど。その時チセは、ほんの少しだけ、願ってしまったのだ。


『名が、あれば。……わたしでも、あなたみたいに、なれますか』


 ――綺麗な響きで。記号ではない、素敵な名を、目の前の相手に、呼んでもらえたら。

 それはどんなに嬉しいことだろう、と。


『お前が何を望んでいるのかは知らないが、私を目指すのは止めておけ。――名が欲しいというのならば、こんな名はどうだ?』

『……え?』


 わたし、の。――名?

 戸惑うチセに、後に姉と呼ぶことになるシンシャは――微笑を浮かべて、その名を告げた。



『――〝チセ〟。先程のお前の笑顔を見て、真っ先に思い浮かんだ名だ』



 それきり俯いて黙り込んだチセに、さすがに単純すぎるか、と淡々と呟いたシンシャは、それなら、と他の候補を口にしようとしたところで、チセの様子に気付いた。


『――どうして泣く?』

『……うれしい、から、ですっ。――〝チセ〟がいい。この、名が、いいです』

『……そうか』


 その声は、相変わらず静かで、穏やかなままだったけれど。

 先程までよりほんの少しだけ、あたたかな響きに、聞こえた。


『お前が――チセがいいなら、それでいい』




 ゆっくりと、姉の声が、微笑が、陽が翳るように、遠ざかっていって。

 夢は、いつもと全く同じ順番で、記憶をなぞってゆく。




『シンシャ、さん。……となりに、座っても、いい?』

『好きにしろ』


 断られなかったことが嬉しくて、表情をほころばせたチセは、木に背を預けたシンシャの隣に、いそいそと腰を下ろした。


 シンシャが施設にやって来て、早三日。彼女の登場によって、施設内の混成種の勢力図は、大きく塗り替わっていた。

 混成種たちを、暴力でもって我が物顔で支配していたザネルたちの一派は、シンシャが現れた初日に〝洗礼〟を行おうとして、こっぴどく返り討ちに遭った。実力では敵わないと思い知ったザネルたちは、今度はシンシャにすり寄ろうとしたがすげなく一蹴され、現在は遠巻きに恨みがましい視線だけを送っている状態だった。


 結果として彼女は、施設内の混成種の頂点に君臨する実力を有していると証明したにもかかわらず、勢力図などどこ吹く風で、静かに一人、木蔭の下で日がな読書に励んでいる。

 その姿勢をチセはとても好ましいと感じたし、もっとシンシャのことを知りたい、と願ってもいた。けれど、読書の邪魔をしたくはなかったので、言葉を発することなく、ただじっと、うつくしい横顔を見つめていた。


 ……ほんとうに綺麗だ、とチセはひそかに溜息を零す。


 凛とした眉。瞳に影が落ちるほど、長い睫。綴られた内容を辿る、少しだけ伏せられた紅玉の瞳。すっと通った、完璧な形の鼻梁。つややかな朱唇。

 無造作に一筋だけ耳から零れ落ちた緋い髪が、木漏れ日を弾いてきらきらと輝くさまが、はっとするほどうつくしかった。


『――何か、用があったのか?』


 ぼうっと見惚れていたため、自分にかけられた言葉だとすぐに気付けなかったチセは、ややあってから「はぃっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。


『いえ、あの、……ただ、そばにいたかっただけ、です。シンシャさんのことを、もっと知りたいなって思って。――ごめんなさい、わたしがいたら、読書の邪魔ですよね』


 詫びてチセが立ち上がろうとすると、シンシャは視線を本に落としたまま、いつも通りの凪いだ声音で呟いた。


『別に構わない。暇で読んでいるだけだ。――何が知りたい?』


 想定外の答えに目を丸くしたチセは、えっと、と言葉を詰まらせ、何度も視線を右往左往させてから、ようやく一つ、質問を口にした。


『どんな本を、読んでるんですか?』

『生物学に関する書物だ』


 聞き慣れない単語が返ってきて、チセはことんと首を傾げる。常ならばわからない言葉は笑って聞き流していたが、それではせっかく答えてくれたシンシャに申し訳ないな、とチセは素直に尋ねることにした。


『せいぶつ、がく……って、何のことですか?』

『簡単に言えば、わたしたちの身体の造りについて書いてあるものだ』

『なるほど、そういう本もあるんですね! ――じゃあ、どうしてその本を選んだんですか?』

『ずいぶん訊くな?』

『ご、ごめんなさい……!』


 つい調子に乗ってしまった、と青ざめるチセに、「謝ることはない」と穏やかに告げ、シンシャは静かに本を閉じた。


『私が、何の化身かわかるか?』

『わからない、です』


 首を振ると、シンシャはゆっくりと頷き、真っ白い掌を、チセにかざした。


『私は、不死鳥の化身となるべく造られた。幸いにして不死性を得ることはなかったが、私は己が血を、燃やすことができる。――それを、止めたくてな』


 出逢った時から印象的だった、彫刻のごとくうつくしい手に刻まれた、無数の傷痕。

 ――それは、彼女が己の力を使ったことによるものなのだと、ようやくチセは悟った。


 気付いた瞬間、シンシャの傷だらけの手を、無意識にチセは握っていた。


『どうした?』

『――痛くは、ない、ですか?』


 痛まなかった、はずがない。彼女は己が能力を使うたびに、人間に使われるたびに、血を流していたのだ。そのことに思い至り、ひどく、胸が痛んだ。


『……今は、痛まない。ありがとう、チセ』


 やわらかい響きで名を呼ばれ、胸の中に、あたたかいものが広がってゆく。

 お礼なんて言われるのは生まれて初めてで、だからとても嬉しくて、くすぐったくて。

 ――だけど、どうしても、チセには不思議だった。


『どうして、お礼、言うんですか……?』

『何でもない。――チセ、お前は何の化身なんだ?』


 珍しく口ごもった様子のシンシャに、少しだけ早口で問い掛けられて、チセはかすかな違和感を抱きつつ、答えを返した。


『……鷹、です。ちょっと回復が早くて、目がいいだけ、ですけど』

『では私たちは、鳥の化身同士ということか。――さながら姉妹鳥だな』


 きっと、シンシャはその時、冗談で〝姉妹〟と口にしたに違いなかった。

 けれど、チセにとって、その響きは、あまりにも甘美なものだった。


『――シンシャ、さん。……あの、本当に、わたしの、お姉ちゃんに、なってくれませんか?』


 言葉が胸の底から転がり出てすぐさま、チセは激しい羞恥と後悔にかられた。――姉妹になんて、望んだだけでなれるはずがない。まして、混成種である自分に、姉妹など、家族など、存在するはずがない、と。


 何より、シンシャがチセと姉妹になりたいなどと、願うはずがないのだ。

 彼女と自分では、あまりにも、何もかもが、違い過ぎる。全く釣り合いが取れない。


 長年の付き合いである自己嫌悪の沼に、チセが頭まで呑み込まれそうになっていた、その時。



『――――別に、構わない』



 そっけなくすら思えるような、ひどく静かな声音で。

 シンシャは、チセの姉になる、と言ってくれたのだった。




 おぼろに溶けてゆく姉の表情を留めんと願いながら、チセは、毎日、毎晩、己に問い掛ける。

 もし、この時、自分がシンシャに、姉になってくれと、乞わなければ。

 自分と姉に訪れる未来は、何かが変わっていたのだろうか、と。




『お姉ちゃん。――お別れって、どういうこと?』

『そのままの意味だ。私は、■■■■の被検体に選ばれた。この身を捧げることは、すでに定められている。だから、もうお前と一緒にはいられない』

『……そんなの嫌。どうして? ひけんたいって、何? なんで、お姉ちゃんが、そんなことしないといけないの?』


 姉との蜜月は、呆気ないほど残酷に、ある日突然打ち砕かれた。

 常と変わらぬ静かな声色で、己の死を淡々と口にしたシンシャは、事実を呑み込み切れないチセを宥めるように、ことさら穏やかに告げた。


『より強い混成種を復活させるために、私の臓器が必要らしい。この施設に連れて来られたのも、それが目的だ。最初から決まっていたことなんだ、チセ』


 いずれ訪れるべき結末が、目の前に現れただけだ、と何でもないように言うのが哀しくて、悔しくて、チセはぼろぼろと涙を零した。


『いや。……いや、だよ。どうして、そんな、諦めるようなこと、言うの……?』


 どうやってでも、姉の運命を覆したかった。抗いたかった。仕方がないと、認めたくなどなかった。自分を救ってくれた姉を助けることができないなら、自分の存在など何の意味もない、と思った。


『わたしが、もういい、もう何もかもどうでもいい、って思った時に、助けてくれたのは、お姉ちゃんなのに。――そんな哀しいこと、言わないで。お願いだよ……』


 絶対に離さない、と言わんばかりにシンシャにぎゅっと縋り付き、何も答えない姉に向けて、必死に言葉を紡ぎ続けた。


『わたしにできることがあるなら、何だってする。お姉ちゃんの代わりに、内臓をあげたって構わない。だから、行かないで』


 姉は、答えない。――それが答えなのだと認めたくなくて、チセは、シンシャの胸元の衣を掴み、涙に濡れた目で、まっすぐにあかいろの双眸を見つめた。



『お姉ちゃん、だって。――――本当はまだ、生きていたいんでしょう!?』



 叫んだチセを見返し、ゆっくりと一度瞬きをしたシンシャは、深く息を吐いた後、ぽつりと呟いた。


『――この生から解放されるなら、それでいいと思っていた。……お前と、出逢うまではな』


 瞬きも呼吸も忘れ、続く言葉を待ち受けるチセに、シンシャは困ったような微笑を浮かべ、言葉を継いだ。


『この世に何一つ、未練などなかったのに。――チセ、お前のことだけが、気がかりでならない』


 声もなく泣き崩れたチセの背を、あたたかな手が、そっとさすってゆく。

 何度も、何度も。あやすような、甘やかすような、この上なくやさしい手つきで。


『――もう、一人で、戦えるな?』


 それは、確認だった。チセが頷くべき、問いだった。あるいは、姉を安心させてやったとチセに思わせるための、やさしさだった。


 けれど、チセの答えは。



『お姉ちゃん。――一緒に、逃げよう』



 わたしは、一人では戦えない、と。

 しかし、二人でならば、何にだって立ち向かえるのだと。

 二人で生きてゆくのだと、チセは、目を見開いた姉に、宣言した。


『わかった。……まったく、お前には敵わないな』


 苦笑した姉の表情は、困っているようで、でもほんの少しだけ、嬉しそうだった。




 その面影も、留めておくことすら赦されず、夢は次の場面へと、否応なくチセを押し流していく。




『チセ、見えるか? ――これが、外の世界だ』


 姉の炎が、天を焼くほどの火柱となって立ち昇り、背後の施設を包み込んでいくのを背景に。

 息を弾ませ、必死に道なき道を駆け続ける二人は、沈む夕陽が世界を黄金色に染め上げるさまに、思わず見惚れていた。


 塀に遮られることのない、風景は。視界のすべてを輝かせる、夕映えの光景は。


 ――これほどまでに、うつくしかったのか、と。


 知らず、ひとすじだけ、涙が頬を伝った。胸の中まで黄金色のひかりに満たされていくようで、さざめくように、心が震えていた。


『きれい、だね』

『ああ、そうだな。――この景色を、二人で見られてよかった』


 珍しく、少しだけ弾んだ口調の姉が、隣にいることが、ただ嬉しくて。

 ようやく囚われの身から解放されたのだ、とじわりと実感が込み上げてきて。

 どちらともなく、ふふ、はは、と子どものように、無邪気に顔を見合わせて笑い合った。




 ――いっそ、あの瞬間に戻って、死んでしまえたならば。

 どれほどよかっただろう、と、チセは思う。

 この先は、見たくない。見せないでほしい。その願いが聞き届けられるはずもなく、幸福だった夢は、どうしようもない結末へと近付いてゆく。




『――チセ、逃げろ!』


 姉の忠告も虚しく、チセの両手は、屈強な男たちに捻り上げられる。とっさに能力を用いようとした姉の機先を制するように、黒衣の男は告げた。


『やめておけ。お前の力を使えば、これまで巻き添えになるぞ』

『お姉ちゃん、――逃げて! わたしはいいから!』


 自分は逃げられない、と悟ったチセが真っ先に願ったのは、せめて姉だけでも逃げおおせることだった。せいぜい殺されるだけの自分など、どうなっても構わない。ただ、被検体として選ばれていた姉にだけは、何としても逃げおおせて欲しかった。


『姉? 混成種に姉妹など存在しないはずだがな』『疑似家族ごっこでもしてるんだろ、獣風情が』『お涙頂戴か、泣けるねえ』『無力な役立たずに感化されて、脱走を企てるとは。やはり混成種など、』



『――――黙れ、耳障りだ』



 ごう、と、大気が焦げる、においがした。

 白い手からぼたぼたと滴る血が、地に落ちる前に、灼熱の炎へと姿を変える。

 熱波に緋い髪をなびかせ、怒りに赫灼と瞳を燃やすシンシャは、躊躇なくチセを捕らえた二人へと躍りかかった。

 絶叫とともに、じゅう、という音と、肉が焼ける嫌な匂いが立ち昇る。ようやく解放されたチセの耳を、シンシャの声が鋭く打った。


『チセ、早く逃げろ! ここは私が引き受ける』

『……だめ、わたしも、』


 足を止めたチセと、迫り来る敵の間に素早く割り込んだシンシャは、瞬くうちにまた一人、劫火の中に沈める。ちらとこちらを一瞥したシンシャは、チセがてこでも動く気はないと悟ったのか、困ったような笑みを口の端に浮かべて告げた。


『全員屠ったら、すぐに追いかける。だから、先に行け』

『いや! 絶対行かない!』


 首を振り、姉の隣に並び立とうと、駆け寄るチセを、押し留めるように。


『まったく、お前には敵わない。……チセ、これは、お前の姉としての、私の務めだ。今回ばかりは、お前の願いを聞いてやることはできない』



 ――炎の壁が、姉と自分の間に、立ちはだかった。



『お姉、ちゃん? ――ひどいよ、なんでこんなことするの!?』

『早く行け、チセ! ……お前にだけは、生きていてほしい』


 ごうごうと爆ぜる炎の向こうとこちらで、怒鳴るように叫び合う。男たちの悲鳴と銃声が交互にこだまする中、チセは夢中で炎の奥に手を伸ばした。


『お願いお姉ちゃん、一人で行かないで! わたしも連れて行って!』

『それだけは駄目だ! ――頼むチセ、一度だけでいいから、私の願いも聞いてくれ』

『いや、いやだよ!』


 肌を舐める炎に炙られ、皮膚があっという間に焼けただれる。しかし腕が落ちようと、身体が燃え尽きようと、姉を置き去りにすることなどできなかった。


『だって、だって、わたしより、お姉ちゃんの方が、大事なの! だから、一緒に、』

『――私も同じだ。チセ、お前と出逢えてよかった』


 ぶっきらぼうな、それでもチセにはこの上なくやさしく響く、その声に。

 炎の向こうに立つ、姉が浮かべた笑顔が、はっきりと視えて。

 一気に膝から力が抜けて、チセはその場にへたり込んだ。


 ……ああ、だめだ。


 今回ばかりは、姉は、自分の願いを聞き入れてはくれない。はっきりと、そう確信した。――してしまった。


 直後に、甲高い銃声が、パァン、と響いて。


 ――炎の向こうで、誰かが、とさりと倒れた音がした。




 そこから先の記憶は、断片的だ。覚えていないし、思い出したくもない。けれども、奔流のように、感情ばかりが生々しくなだれ込んでくる。




『いやだ。いやだいやだいやだ、いやだ!!!』『だれか、お姉ちゃんを助けて』『わたしを殺して』『お願い、嘘だと言って』『本当はわかっているくせに』『お姉ちゃんは、わたしを銃からかばったんだ』『わたしさえいなければ』『お姉ちゃんは』『死ななかった』『あ、あ、あ、あ、ああああああああっ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!!!!!』



『――こっちに、来い?』『お姉ちゃんの下に行けるなら行きたい』『行けば、助けてくれる?』『何だってする。お姉ちゃんを救えるなら』『たとえ、人間どもに、魂を売ったって』『構わない』『もう、失うものなんて、なにひとつない』『お姉ちゃん、待っていて』『今度こそ、必ず』『わたしが助ける』



 いつもなら、混沌と絶望の中で目を覚ます――はずだった。

 それなのに。その日に限ってはまだ、悪夢は終わらなかった。



『――怖かったな。もう、大丈夫だ』


 低く、力強い、チセを安心させるための、声音。――一世一代の演技で、これから彼を罠に掛けようとしているチセに、思いがけず向けられた、優しい言葉と表情が、鮮やかに浮かぶ。


『肩、診てもいいか?』


 わざわざ混成種の自分に、触れる許可を取って。いつ敵が追いかけてきてもおかしくない状況の中、チセの治療なんかに、時間を使って。


『じゃあ、決まりだな。俺はじじいを、チセは姉貴を。――世界中を回ってでも、見つけてやろうぜ』


 混成種に姉など存在するはずがない、と一笑に付すこともなく。それどころか、一緒に探してやる、なんて言い出して。


『それでも痛いだろ。ちょっとくらい冷ましてから食えよ、逃げやしないんだから』


 本当に久し振りの、誰かと一緒に食べる、あたたかい食事だった。呆れながらも、少しだけ嬉しそうな顔で、お代わりをよそってくれた。汁物はほとんどチセに譲ってくれて、自分は固そうな干し肉をかじっていた。


『俺には、お前の嫌な記憶を消すことも、夢の中に入ることもできない。……だけど、お前が魘されるたびに、手を握って、夢から目覚めさせることくらいなら、いつだってできる』


 あの言葉通り、毎日、毎晩、手を握ってくれた。泣き叫んで目を覚ましたチセの隣に、黙って寄り添っていてくれた。


『――チセ、いっそ俺の弟子になるか?』


 そう言われて、本当に嬉しかった。誇らしかった。こんな自分にでもできることがあるのだ、役に立てることがあるのだ、と思えた。


『ま、気を詰めるのもほどほどにな、お弟子さん。……俺も頭と手くらいなら貸すぜ』


 ぶっきらぼうなのに、やさしくて。


『俺は、言ったよな? ……後で、説教だって』


 時々、すごく怒られることもあったけど、それは心配されているからで。


『――後で一つだけ好きなもん買っていいから、どれにするかよく考えとけよ』


 無自覚にチセを甘やかしていることに、彼本人は気付いてなんかいなくて。


『チセ! いい加減にしろ!』


 あの激しいまなざしが、燃え立つような灰緑の瞳が、灼きついて離れない。


『何でもかんでも、自分のせいにしてんじゃねえよ! そうやって思考を止めて、可哀想ぶんな! そもそもあの街に残ることを決めたのは、ユーディスとエレオノールだろ! あの二人の決断を、意志を、勝手にお前のものにするな!』


 頬を打たれたような、衝撃だった。片時も頭から離れなかった任務も一瞬だけ忘れて、本気で、あの時チセは怒りを覚えていた。


 ……でも、どうしてわたしは、あんなに激昂したの?


 その理由を、思い出してはいけないとわかっているのに、悪夢は容赦なく、チセに現実を突き付けてくる。


 ――ジーク。……ねえ、ジーク。


「……やめて」



 ――わたしは、いつの間にか。



「や、めて」




 あなたに、――――――――――――――――……




「――――――――もう、やめてっっっ!!!!!」



 叫ぶと同時、今度こそ意識を取り戻したチセは、荒い息を吐きながら、暗い周囲を見渡す。見張りが蔑みを隠そうともせずに、舌打ちをすることなど、もはや慣れ切っていたから、気にも留めなかったけれど。


 ――無意識にジークの姿を探した己に気付き、チセは愕然と目を瞠った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る