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 クワッ、クワッ、という鳥の鳴き声と、草木のざわめきだけが時折響く夜半。


(……あー、やっちまった)


 チセと盛大な喧嘩をやらかしてしまったジークは、水鏡のごとき湖面の畔で、立膝に頭を乗せ、自己嫌悪に陥っていた。


(せめて、追いかけるべきだったよな。……でも、仮に追いかけてたとしても、いったい何が言えたんだ?)


 ――あんな、顔をさせるつもりじゃなかった。


 叫んだチセが、背を向ける直前に、一瞬だけ垣間見せた、あの表情。

 必死に怒りで覆い隠そうとしていた、深い哀しみと嘆きを目の当たりにして、そんな顔をさせてしまったのは自分だという事実に、愕然とした。


 引き留めようにも、喉も、手も、足も、凍り付いたかのように、まるで動かなくて。


(そりゃ、気持ちを切り替えて前に進め、なんて正論を突き付けられても、すぐにできるわけがないよな……)


 激昂に任せて吐き散らした自分の言葉が蘇り、胸中を苦いものが満たす。ジークとて、過去を完全に吹っ切れているわけではない。十年以上の歳月があったからこそ、今となってみればそう言える、というだけで。


 ――チセはまだ、姉と別れ別れになって、一年も経っていないというのに。


(本当に大人気ねえな、俺……)


 ついかっとなって、余計なことを口にしてしまった理由は、明白だった。


 ――だからって、あんな風に、自分を否定しなくてもいいだろ。


 思い出すとまたふつふつと怒りが込み上げてきて、ジークはこれでは堂々巡りだ、と気付き、どさりと両手を上げて後ろに倒れ込んだ。


「あーくそ、どうすりゃいいんだ……」


 謝らなければいけないとは思うが、そうするとチセの自己否定を認めるようで腹が立つ。かといって、謝罪をしないという選択肢はなかった。


「つーか、ロウニの件も、早く見つけねえとな……」


 山積した問題から逃避するように、ジークはぼんやりと、夜空に輝く星を見上げた。


「どこ行ったんだよ、チセ……」




 どうやら物思いに耽ったまま、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。こんな状況でも眠れる己の図太さに呆れながらも、反射的にチセの姿を探す。


「戻ってるわけ、ないか……」


 溜息を吐き、一人朝餉の支度をする。チセの騒がしさに慣れ切っていたせいか、周囲に響く鳥のさえずりが、妙に大きく聞こえた。


(……さて、どうするかな)


 携帯食料を頬張りながら、今日の行動計画を練る。本来ならチセを探しに行きたいところではあるが、あいにくまだ頭と心の整理がついていない。仮に見つけられたとしても再び口論になる可能性が高いと踏んで、ジークは頭を冷やしがてら、ロウニの扉のありかを検討することにした。


「つっても、手がかりは何もないけどな……」


 懐から取り出した茶色い小袋を開け、使い込まれた真鍮の鍵を眺める。


(見たところ、そんなにでかい物の鍵じゃなさそうだな。伝言のとおり、どっかの扉の鍵、が一番妥当な線か)


 とはいえ、スヴェルクの街の扉を片っ端から開いていくわけにもいかない。ロウニまで姿を消した今、街を不用意にうろつくのはどう考えても危険だった。


(せめて、二、三か所くらいに絞り込めりゃあな……そうだ、この前じじいと来た時は、どこ回ったんだったっけ?)


 ――運河沿いの店を冷やかした後は、渡し舟に乗って〝銀の飛魚〟へ。


(〝銀の飛魚〟……はないか。ロウニが捕まったんなら、徹底的に家の中は捜索されてるだろうしな。それに俺なら、他の修繕師が訪ねてくるかもしれない場所は、張っておく)


 ――その後は? 〝銀の飛魚〟を出た後は、どこに行った?


(確か、木彫りの置物が置いてある、工芸品の店に寄って、金物屋を覗いて、薬問屋でじじいが何か調達して、それで宿に帰った……くらいだよな?)


 ……ということは、工芸品の店か、金物屋か、薬問屋か?


「あーくそ! 全然わからん!」


 数年前の記憶なのでうろ覚えだが、特にどの店も取り立てて特徴があったようには思えなかった。まして、秘密の扉が店内に存在していたかどうかなど、覚えているはずがない。


「……もう一回、歩いてみるか」


 当時と同じ道を歩けば記憶が蘇るかもしれない、と思い立ったジークはごそごそと荷を探り、目当ての物を取り出す。目を瞑り、噴射式の簡易的な髪染めを思い切り頭に吹きかけてから、咳き込みつつ湖面を覗き込む。


「おお、いいんじゃね?」


 水面に映る黒髪の自分と目が合い、にやりと口角を上げる。あとはこれに変装用の眼鏡を合わせれば、そうそう見つかることもないだろう。


「あとは――……まあ、何か残しとくべきだよな……」


 今の状況で自分が街に行けば、チセは本当に置いて行かれたと思いかねないだろうと危惧したジークは、悩んだ末に、書き置きと食料が入った缶を残して出かけることにした。


(確か、簡単な文字なら読めるって言ってたよな……?)


 若干の懸念と後ろ髪を引かれるような未練を抱きつつ、ジークは再びスヴェルクの街に向かった。




「何だよ、ここも閉まってるじゃねえか……」


 記憶を頼りに店を訪れること、二軒目。

 色褪せた〝空き物件〟の張り紙が貼られた店の跡地を前にして、ジークは小さく舌打ちした。


(工芸品の店は、食堂に変わってるし、ここも空振りか……この調子だと、薬問屋も望み薄だな)


 髪色を変えているせいか、現在のところ不審な気配は感じない。だが、どこから見られているかはわからない、と警戒しつつ、ジークはできるだけ人通りの多い道を進んでいった。


(薬問屋は、ここから十分くらい歩いた所だったか……つーかじじい、あの時何の薬を買ってたんだっけ?)


 毛生え薬でも買うのか、と尋ねて、拳骨を落とされた記憶ならあるのだが――と余計なことを思い出しつつ歩いていると、頭上から、ごぉん、ごぉん、と重厚な鐘の音が降ってくる。

 もう昼時なのか、と腕の時計を一瞥した、その時。


(――――?)


 ジークの脳裡に、びり、と電流のように、ある可能性が駆け抜けた。


(時刻は、一秒たりともずれてない。……時計は手入れをしないと少しずつ遅れ出すから、この街の時計台も、最近修繕されてる可能性が高い!)


 つまり、この街の修繕師たるロウニが訪れている可能性は、充分にあるということだ。勢い込んだジークは、よそ行きの笑顔を貼り付けて、それとなく道を行く街の人間に声をかけた。


「あの、すみません。この時計台って、どなたが管理されてるんでしょうか?」

「――さあ? よく知らないけどね」

「確か、隣の教会の、神父さまが管理されてるんじゃなかったかしら? 違ってたらごめんなさいね」


 ちょうど通りかかった年配の夫婦らしき二人連れに尋ねると、首を傾げる夫の後ろから顔を覗かせた妻が、朗らかな声で教えてくれた。老夫婦に礼を告げ、ジークは駆け出したい気持ちを堪えながら、時計台の左隣に慎ましやかに立つ、教会へと向かった。




「時計台の、見学ですか? それはまた、どうして?」


 庭先の落ち葉を掃く手を休め、丸眼鏡の奥の柔和な瞳をぱちぱちと瞬かせながら、神父はジークに物珍しげな視線を向けた。


「僕は建築技官の見習いをしておりまして、この周辺の素晴らしい建造物を視察しているんです。実は、近々新しい時計台を建てる予定がありまして、その参考にさせていただけないかと」


 すらすらと口から出まかせを並べ立てながら、にこりと営業用の笑みを浮かべる。いかにも人が良さそうな神父は、ほほう、そういうことなら喜んで、と二つ返事で了承してくれた。


「私はもうすぐ祈りを捧げる時間ですので、終わった頃にこちらをお返しいただければ。では、ごゆっくり見学なさってくださいね」


 身分証の提示を求められなくてよかった、と内心胸を撫で下ろしつつ、鍵を受け取ったジークは、早速時計台に足を運んだ。入り口の錠を預かった鍵で開け、内側から鍵を閉めてから、木造の階段を早足で上っていく。

 逸る気持ちもそのままに、半ば駆け上がる勢いで階段を踏破すると、時計台の心臓部に続く扉が立ちはだかっていた。急いで懐から真鍮の鍵を取り出し、ここまで来て違ってたら泣けるな、と思いつつ、鍵穴に差し入れる。


(頼む、開いてくれよ……!)


 ジークの祈りが天に通じたのか、ぎぃ、と鈍い音を立て、ゆっくりと扉が開いた。転がり込むように室内に飛び込んだジークは、めぼしい場所を探して機械の間を歩き回った。そのまま十分ほどあれこれと検分し、そして、ついに。


「――これか!」


 時刻調整盤の裏に、目立たぬように括りつけられた紙片を見つけ、むしり取るように紐を解いて目を通す。

 その、文面は――


『水の月、九日。ここのところ、やけに嫌な視線を感じる。どうやら私は、誰かに目をつけられているようだ』

『風の月、二十日。久し振りにムジカが訪ねてきた。どうやら、我々は狙われているらしい。ムジカが語るには、修繕師を狙っているのは、政府の連中とのことだった。奴らの目的を聞いたが、にわかには信じられない。もしもムジカの想像が真実だとすれば、この世界はおしまいだ』


 ざわ、と背筋に悪寒が走るのを感じつつ、ジークはぱら、と紙をめくる。


『火の月、六日。どうやら、ムジカも捕らえられてしまったらしい。このままでは私が捕まるのも時間の問題だ。だが、決して捕まるわけにはいかない。やはり、ムジカの予感は当たっていたのだ。――あれを復活させることだけは、あってはならない』

『雪の月、十三日。おそらく記録を残せるのも、今日が最後となるだろう。この書き付けを見つけた者に、一つだけ忠告を残す。――決して、猫どもに捕まるな。奴らは、起こしてはならぬ災厄を、目覚めさせようとしている』


 ロウニの書き付けは、そこで途切れていた。

 肝心の『災厄』については、何も触れられていない。けれど、収穫は十二分にあった。

 握り締めた紙に記された最後の一文を、なぞるように何度も読み返しながら、ジークは背に冷たいものが伝うのを感じていた。


(……修繕師を攫っていたのは、政府の連中だったのか?)


 不倶戴天の敵同士である修繕師と政府が相容れないことなど、とうの昔から承知している。修繕師は、政府からすれば狩る対象であり、発見次第直ちに殺して構わない、取るに足らないちっぽけな獲物ネズミだ。


(それを、わざわざ人目につかないように、生け捕りにしてまで――いったい何を、修繕させようとしている?)


 猫どもを遥か天上から糸で操る、雲上人たちが。

 毛嫌いする鼠の力を借りてまで、成し遂げたいこととは何だ?


 蜘蛛の糸のごとく張り巡らされた陰謀に、自分の身体が少しずつ絡めとられているかのような、とてつもなく不吉な予感がジークの胸中に広がった、その時。



「――報告通り、ここにいたか」



 奇妙なほどに平坦な声が、背後で響いた。



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