09


 冷えた海風が、つぐみのうなじの毛をなぶった。


 管理もされてもいない海は、流木やゴミであふれて、とても素足ではあるけない。つぐみと沙惠がかつて「行こう」と言いながら想像していていた海とはまるきり違った。それでも、橙の絵の具で染めたような夕暮れの海面は美しかったし、陽が沈んだ後の薄青い空に浮かぶ月はなにか焦がれるような気持ちをつぐみに与えた。


 潮騒の音や海風を全身で感じ、つぐみは海辺を歩いていた。時折バランスを崩しながらも、つぐみは一人で歩けていた。それだけのことが、ただ嬉しかった。

 陽が沈み、星が出るころだろうか。背後から物音がして、つぐみは後ろに引き倒された。それはわずかな力だったが、油断していたつぐみの体勢を崩すのには十分だった。


(誰……!?)


 海水のしみた砂にまみれながら、体を起こそうとする。もちあげた頭が、衝撃で押し戻される。頭突きをされたのだ。反射的につぐみは目をつぶる。

ぽたぽたと、したたり落ちるあたたかい水に、頭突きの主が誰だか分かって、つぐみは目を開いた。見慣れた色素の薄い目が、涙でほとびる。


「沙惠」


「ばか女! ばか! ばか!」


 「ばかばか」と何度も繰り返す沙惠を、つぐみは驚きと共に見上げた。こんな子供のような沙惠は初めて見た。いつも冷静な仮面が、沙惠の顔から涙といっしょに剥がれていた。


「なんで一人で行っちゃうの! 私の腕が無くなったから? 銃の撃てない私はお払い箱ってわけ」


「違う」


 沙惠の勘違いに、つぐみの頭に血がのぼった。つぐみは沙惠をそんな風に、道具のように扱うわけがない。沙惠の代わりはいない。彼女がかけがえのないものだと、彼女自身が理解していないのがつぐみのかんに触った。


「じゃあなんで」


「私が甘え続けてたせいで沙惠が、沙惠の手がなくなっちゃったのが嫌だったの!」


「意味分かんない! ばか女!」


 子供のように沙惠は言い返す。それしかできないように。


「どうして信じてくれないの。いつもあんなにべたべたしてくるのに。信じてくれてると思ったのに」


「触らなくたって信じてるよ」


 沙惠からこぼれた本音に、つぐみは彼女が怖がっているのだとようやく理解した。つぐみが彼女を失うのを恐れたように、彼女もつぐみを失うのを恐れたのだ。


「怖い思いさせてごめん」


「もっと謝れ」


「ごめん」


「……これからも私を護衛にするなら、許す」


「沙惠……」


 それでは前と同じだ。それではいけないのだと。そう伝えるようにつぐみは沙惠の名を呼んだ。沙惠はにらみ返して続ける。


「最新義手つければ感覚はないけど、銃は撃てる」


「でも」


「私もあんたを甘やかさない。元から甘やかしてないけど、あんたが一人でも戦えるようにする。以前よりたぶん精度が落ちるから、私はあんたを連れて逃げるほどの余裕がない」


 沙惠はそこで一息吸った。彼女が緊張している時の癖だった。


「手をつなげなくても、信じてくれる?」


 沙惠の願いは、祈りのように聞こえた。


「……うん」


 「信じるよ」とつぐみは答えた。


 いつだって最初から信じていたことは、今は言わないでおいた。

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非接触の信頼 七田つぐみ @taketake111

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