後編


 代わり映えのない住宅街の景色を、ねこキラーはすすみつづける。左右に展開する家々は、どれも内側から鍵をかけ、窓は厚い生地のカーテンにさえぎられている。誰の声も聞こえないし、誰の動きも見られない。あらゆるものが、再現のない静止状態のただなかにある。

 その例外を見つけたとき、だからねこキラーは迷うことなくそのなかにはいることに決めた。それは道の左手に建つひっそりとした喫茶店だった。住宅と住宅のすき間にまるで身を隠すようにその店はたたずむ。木製のドアには〈営業中〉の札がかかっている。ガラス窓の向こう側にかかるカーテンは薄いレース地で、穏やかな光とともに、店のなかの様子を透かして見せる。

 やや重いドアを開けると暖房によるしっとりとした温気うんきがねこキラーの両頬をやさしくなでた。取りつけられたベルの音の背景に、モーツァルトのあまい弦楽器の旋律が響いている。客はおらず、カウンターの向こうで初老の店主が新聞のクロスワードパズルを解いている。来客に気づくと新聞をたたみ、いらっしゃいませと声をかける。どうぞ、お好きな席に。ねこキラーはカウンター席のスツールに腰をかけ、黒板に書かれたメニューのなかからマンデリンをえらんで注文する。かしこまりましたと店主はこたえ、雪平鍋に火をかける。

 差し出されたおしぼりで、ねこキラーは手を拭く。おしぼりはすぐに赤黒い汚れにそまる。老店主はそんなことには気づかず、モーツァルトに合わせて鼻歌交じりにコーヒーをいれる準備をすすめる。ねこキラーはコートを脱ぎ、鹿の子編みのマフラーとともに壁際のハンガーへそれらをかける。ナイフとナイフが触れ合うかすかな金属音に、注意を払うものは誰もいない。

 まだ雪はやみそうにありませんね。湯が沸くのを見守りながら、どこか憂鬱そうに店主はいう。そとは寒かったでしょう? ねこキラーはちいさく、ええ、とつぶやくだけだった。老店主はちらとだけねこキラーを見つめて、それきりなにもいわなかった。沈黙を、あまい弦楽器の音色がうめる。やがて湯の温度を見極めると、店主はコンロの火を切って、器用に雪平鍋でドリップを始めた。ねこキラーは興味深く、その様子をじっとながめる。

 細口のやかんもあるんですがね。その視線を察して老店主は口をひらく。どうもわたしにはこちらのほうがやりやすい。性に合ってるんでしょうな。娘には、さまになっていないと怒られるんですが。コーヒーのあまい蒸気がねこキラーの鼻先にもとどく。ねこキラーは戸惑ったような微笑みをうかべ、なにもいわず、ガラス容器に滴下するコーヒーの黒い雫をただ見つめる。

 お待ちどおさまです。出来上がったコーヒーの半分をカップにそそぎ、老店主はねこキラーに差し出す。そしてもう半分を自分のカップにいれ、老店主はまた新聞のクロスワードパズルにもどった。ねこキラーはカップから立ちのぼるあまく香ばしい香りを嗅ぎ、そして口をつける。美味しいと、ひとりごとのようにつぶやく。

 それはよかったと老店主はこたえ、満足そうに自分のカップをすすった。

 無意識に声を漏らしていたことに、ねこキラーは顔を赤らめる。傷口がにぶくうずく。

 ふたたび沈黙がやってくる。曲が変わり、スピーカーからはかろやかなピアノソナタが鳴り響く。ときどき、店主が新聞に鉛筆で書きこむカリカリという音がする。そしてコーヒーをすする音。ねこキラーはかるく店内を見渡す。マガジンラック、観葉植物、トイレのドア。暖かい空気を吐き出す業務用のエアーコンディショナー、棚に置かれた数種類のコーヒーミル、額にかざられたマリー・ローランサンの複製画。心地よい場所だ、とねこキラーは思う。ここは穏やかな空気に満ちていると、ねこキラーは思う。

 振り返ると、背面の壁に張り紙がある。迷いねこを探しています。四才になる、ハチワレ模様の黒白ねこ。見かけたら、こちらの番号までご連絡を。

 孫が飼っているんですよ。ねこキラーの視線を追って、老店主が声をかける。振り向くねこキラーの目を見つめて、言葉を足す。室内飼いをしていたんですが、ふと窓のすき間から飛び出してしまって、なかなか帰ってこないんです。それで孫が心配してね。ねこのことだからどこかで元気にしているとは思いますが、きょうは冷えるので、気になりますね。

 ねこキラーはあいまいにうなずいて、手持ち無沙汰な間をうめるように自分のコーヒーを口にした。すみません、と老店主はあやまった。話しかけられるのが、あまりお好きでないようだ。

 いいえ、そんな、とあわてたようにねこキラーはいう。それはかすれた、か細い声にしかならなかった。傷口がうずく。声に気づかなかったのか目を伏せてまたクロスワードパズルに戻る店主へ、ねこキラーは意を決して口を開く。そうじゃ、ないんです。ただわたしは、自分の声が、嫌いなだけで。

 その言葉を聞くと老店主は筆をとめ、ねこキラーの顔を静かに見あげる。そしてゆっくりとめがねをはずす。顔を赤くするねこキラーを不思議そうに見つめ、しばし考えをめぐらせたあとでちいさくつぶやく。声?

 変な声でしょう? いびつに笑いながらねこキラーはいう。よく、いわれるんです。

 傷口がうずく。

 老店主は眉間に深いしわを刻み、まるで腹を立てているかのような表情でじっとねこキラーの顔を見つめる。その刺さるような視線に、ねこキラーは狼狽を感じる。傷口がうずく。なにも変じゃない、とどこか責めるような声音で老店主はいう。個性的で、いい声じゃないですか。

 甲高くて、気色悪いってよくいわれるんですよ。ねこキラーはわらう。おかしな声だって。変な声を、つくるなって。

 そんな言葉に耳を貸しちゃいけない。店主はゆっくりと首を振る。そんな言葉を吐く人間は、その言葉にすこしも責任をもちやしません。自分が吐き出した言葉を、明日にはもう忘れています。なにかを否定する言葉は、なにかを肯定する言葉よりもずいぶんかるいものです。そんなものにこだわっているのは、控えめにいって人生の時間のムダづかいですよ。気にしないことですな。

 傷口がうずく。

 ねこキラーはちいさく首を振る。そしてつぶやくように尋ねる。わたしの声は、変じゃないですか?

 可愛らしい、素敵な声じゃないですか、と店主は自信に満ちた声でいう。どことなくいたずらっぽくて、愛くるしい声だと思いますよ。なんというか、ねこのような愛らしい声です。ああ、ねこなで声、というわけではなくね。

 ねこのような、と彼女は抑揚なくくり返す。

 傷口が、引きつるようににぶくうずく。じわりと熱をもつ気がする。また血が滲み始めていないかと、心配になるくらいに。

 すみません、と老店主は表情を暗くして詫びをいう。たとえ話が苦手なもので。気に障るようでしたら、申し訳ない。

 いいえ、うれしいです、とねこキラーはこたえる。かすかな微笑みを顔に宿す。そういってくれる人がいるというだけで、力になります。

 それはなにより。老店主も微笑を取り戻してそうこたえる。コーヒーをひと口すすってから、おどけたように言葉をつづける。わたしもね、まわりからコーヒーのいれかたがおかしいってさんざんいわれたものですよ。雪平鍋じゃなくて、ちゃんと細口のやかんを使えってね。でもこうして、まずまずのコーヒーがいれられて、美人のお客さんからも美味しいって言葉をいただけるんだから、自信をもっていいんじゃないかと思うんですよ。そう思いませんか?

 ねこキラーは、ちいさくわらった。


   ❅   ❅


 コーヒーを飲み終え、ねこキラーは代金を支払う。窓の向こうは陽が落ちて、夜闇が急速に住宅街を支配しつつある。雪はまだやんでいない。

 ごちそうさまでした。スツールから立ちあがって、ねこキラーは微笑みかける。お話できて、よかったです。すこし自分に、自信がもてました。心のなかでちいさくつぶやく。自分の役割に、自分のその、レギュレーションに。

 どういたしまして。店主は満足げに表情をくずして、見送る姿勢をとる。雪はまだつづきそうです。足もとに、お気をつけて。

 ハンガーにかけていた鹿の子編みのマフラーを首にまき、そして灰色のカシミアコートにそでを通す。そのとき老店主は、ねこキラーのコートのいちぶが黒いしみにおおわれていることに気づく。なにか汚れていますか。注意をうながすように、店主はねこキラーに尋ねる。

 ねこキラーは視線を落とす。コートの前身ごろにべったりとついた、黒いよごれ。それを見つけ、ねこキラーは苦笑をしながら首を振る。ああ、返り血ですね。

 老店主は言葉の意味を把握できず、けわしい顔でねこキラーを見つめる。

 ねこのですよ。ねこキラーはわらいながらいう。さっき殺してきたところなんです。真っ黒な、とってもかわいい仔ねこでした。まだちっちゃかったので、ひと息にお腹を裂いてあげたんです。内臓がこぼれて、血も飛び散りました。それがついちゃったんですね。でも、仕方がないです。ねこのせいじゃありません。誰だって、ナイフで切り刻まれたら、血が出ます。

 しかめた表情を維持したまま、老店主はねこキラーの目を深くのぞきこむ。ねこキラーも見つめ返す。沈黙のあとで、老店主は尋ねる。それは、なにかの冗談のつもりでおっしゃっていますか?

 いいえ。ねこキラーは首を横に振る。癖のない黒髪が左右に揺れる。冗談というわけじゃありません。事実です。わたしはねこを殺すんですよ。

 出ていきなさい。老店主は即座にそう命じる。重苦しいものを吐き出すように、ひとつひとつ言葉をつづける。それが冗談であれ、事実であれ、そのような言葉をはくあなたにはもう、一秒たりともここにいてほしくない。

 わかりました。ねこキラーはマフラーにあごをうずめ、出口のドアに向かう。ドアノブに手をかけ、ドアを開くまえに、振り返って彼女は尋ねる。そこに貼ってある迷いねこの名前って、なんていうんですか?

 早く出ていかないか!

 ねこキラーは視線を落とし、はい、とちいさな声でこたえた。つぶやくように告げる。コーヒー美味しかったです。ごちそうさまでした。

 そとに出ると、雪はいっそう強さを増していた。強い冷気が積極的に彼女の体温をうばう。

 店を出てすこし歩くと、背後で鍵のかかる硬い音がした。

 傷口がにぶくうずく。

 ねこキラーは道の先を見つめた。その特徴のない住宅街に、車二台がやっとすれ違えるていどの幅の道が、不思議なほどまっすぐに伸びている。その道のおわりがどのくらい先にあるかもわからないし、その始まりがどのくらい先にあるのかもわからない。幅は広まりもしないし狭まりもしない、一定の間隔のまま、世界の果てまでつづいているようにも見える。

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雪と雪ねことねこキラー あかいかわ @akaikawa

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