中編


 雪は強さを増す。

 ねこキラーはまっすぐまえを見据えたまま、歩調を変化させることなくおなじペースで歩く。どこまでもつづく道を、どこまでも進みつづけるつもりなのかもしれない。立ちどまることも角を曲がることもしないまま、彼女はただ黙々と足を運ぶ。彼女の目にとまるものはなにもない。なにも彼女の興味をひかない。なにも彼女の邪魔をしない。長い足跡だけがその背後に残る。そしてそれも、ほどなく新しい雪がおおい隠してしまうだろう。

 雪ねこたちもおなじように、乱れぬ歩度でその跡を追う。

 陽はまだ落ちない。それでもぶ厚い雲が空いちめんをすき間なく閉ざし、多くの家はその内側に穏やかな黄色の灯りを湛え、それを漏らさぬよう強くカーテンを閉ざしている。上空に蠢く雲は巨大な生物の腸の内壁を思わせる。呑み込まれた世界は静かで、迷いがなかった。時間は均一に流れつづけることでその存在を不確かなものにしている。

 どこにも出口はないのかもしれない。


   ❅   ❅


 雪が、平坦なアスファルトに手のひら三枚分ほどの厚さにつもろうとするころ、ねこキラーは前触れもなく足をとめた。距離をおいて、雪ねこたちも歩くのをやめた。

 道に直交するかたちで、細い用水路が道路のしたをくぐっている。ささやかな水路は住宅のすき間を縫うように左右につづいている。水の流れはなく、乾いた底は雪が白くかぶさっている。角のスペースには、型のふるい黒の乗用車が無人でとまっている。

 その車をねこキラーは見つめる。じっと、目を凝らすように見つめつづけている。雪ねこたちは離れた距離から、無音でその様子を見守っている。突然、ねこキラーは地面に這うようにして車体のしたのすき間へ視線をねじこむ。長い黒髪は、真っ白な雪のうえに流線をえがいた。車のしたにはなにもいない。それでもねこキラーは、注意深くそのすき間に視線を走らす。車体にさえぎられ、その四角いスペースに雪はつもっていない。湿ったねずみ色のアスファルトが、無垢な雪の肌に穿たれた傷のように醜い。その傷口から、ねこキラーは匂いを嗅いだ。あまい獣の匂い。ねこキラーは立ちあがると、まわりこんでブロック塀と車のつくるスペースを確かめた。そこには雪に湿りくたくたになった段ボール箱があった。内側には褪せたタオルが敷かれている。中身はからで、雪が容赦なくそそいでいる。あまい獣の匂いはそこから発している。

 ねこキラーは息を吸いこむ。目をほそめて、宙を舞う雪の粒をながめる。重力にしたがい落下する雪片にまじって、逆に空へ舞いあがる雪片がある。それはどこまでも上昇していき、やがて見えなくなった。ねこキラーは道路をそれて右に伸びる用水路のふちに足をすすめる。いままでのまっすぐな道と違いそれは曲がりくねって家と家のすき間を縫っている。その先になにがあるのか見えないし、どこまでつづくのか見当もつかない。それでもねこキラーは躊躇うことなくまえへすすむ。その先になにが待ち構えているのか、知悉するかのように。ねこキラーの足どりは先ほどよりも速い。それを追う雪ねこたちも同様に急ぎ足だった。いや、よく見るとそれは違う。雪ねこたちはむしろねこキラーよりも速いスピードで歩いている。小走りといってもいい。水路の底をすすむもの、ふちの反対側をすすむものもいる。雪ねこたちはねこキラーとの距離を徐々に詰め、追いつき、そして追い越した。

 まえに飛び出した雪ねこたちは足をとめ、静かに振り向く。十一匹の雪ねこたちはみなねこキラーの行く手に立ちふさがって、表情のない顔でこちらを見つめる。ねこキラーも歩くのをやめ、自分を見つめる雪ねこたちを順番に見返す。思い出したかのように艶のない微笑を口の端にうかべ、そして冷笑するようにくすりと笑った。

 ムダだよ、とねこキラーはいう。通せんぼしてもダメ。そんなことしたってわたしはとまらない。だって、あなたたちには実体がないんだよ? いくらそこで頑張ってみたって、わたしが遠慮なくすすめば簡単にすり抜けちゃう。けむりみたいにね。それにあなたたちのその行動が決定的なんだよ。この先にねこがいるんだよね? だからあなたたちは通せんぼをするんだよね?

 雪ねこたちはささやかな反応も見せず、ただ静かにねこキラーを見つめつづける。ねこキラーがふたたび歩き出しても、微動だにしない。ねこキラーはまるでそこになにも存在していないみたいに、容赦なく雪ねこを踏みつけてすすむ。踏まれた雪ねこはゼリー状に変形して横にのびる。そして足を除けられるとゆっくりと自分のかたちを取り戻し、通りすぎたねこキラーを振り返る。ねこキラーは先へすすむ、踏みつけられた順に、くるりくるりと雪ねこたちは向きを替える。どの雪ねこも、それ以上ねこキラーを追おうとはしなかった。


   ❅   ❅


 用水路の先、朽ちた物置の隣でねこキラーは立ちどまる。長年の風雨にさらされて四囲をめぐる木の壁は腐りかけ、天板のトタン屋根は錆びきっている。おそらくはもう誰にも使われず、どの家の所有なのかさえ定かではない。物置は用水路のふちにせまり、四隅に置かれたコンクリートブロックのうえに乗りかかるかたちで建っている。そのため物置のしたにはすき間がある。ねこキラーは目を閉じて、息をとめ、耳を澄ます。降りしきる雪の粒を縫うように、ささやかな息づかいがねこキラーの耳に届く。その鼻腔は、あまい獣の匂いをとらえる。

 ねこキラーはしゃがみこむ。ポケットから右手を抜き出して、物置のしたの暗いすき間へ指を差しいれる。ひび割れた陶器のようなもの悲しい鳴き声があり、そして指先をなめる湿った感触が返ってくる。すき間から指を抜き、おいで、とねこキラーはささやきかける。ほら、おいで、こっちのほうが暖かいよ。

 物置のすき間の闇のなかから、闇そのもののように真っ黒な仔ねこが姿を見せる。オリーヴ色のおおきな瞳でねこキラーを見つめ、か細い声でさかんに鳴き声をあげる。ねこキラーはやさしく微笑みながらそのからだをゆっくりとなでる。おまえは賢い子だね、とねこキラーはいう。車のしたよりも、こっちのほうがずっと安全だもんね。自分をなでるその指を黒い仔ねこは必死になめる。

 十一匹の雪ねこたちはその様子を離れた位置から無言で見つめる。

 雪が舞う。

 ねこキラーは仔ねこの腋のしたに手を差しいれて、軽いからだを持ちあげる。仔ねこは特に抵抗することもなく、四肢をぶらさげて鳴きつづける。ぎゅっと仔ねこを抱きしめてから、ねこキラーは左手だけで器用に仔ねこのからだをかかえ、指でくすぐりながら、空いた右手をコートの内ポケットにしのばせる。指先でえらび、細身のカッターナイフを取り出す。おまえはまだちいさいから、とねこキラーは諭すようにいう。きっとこの刃でも大丈夫。わたしも丁寧にやるから、安心してね。そして親指をスライドさせて短く刃を出す。ちちち、という音に反応して仔ねこは不思議そうにカッターナイフの刃を見つめる。雪が舞う。耳が痛くなるくらいの静寂があたりを包む。ねこキラーは物置の腐りかけた木壁に仔ねこをやさしく磔にする。左手の親指で、仔ねこの喉もとをゆっくりとなでる。仔ねこはあごをあげ、なすがままに、気持ちよさそうに目を細める。雪が舞う。時間が均一さを失い、重力が均一さを失う。舞い落ちる雪と、舞いあがる雪が交錯する。カッターナイフのほそい刃がなんの予告もなく仔ねこのやわらかな喉もとに突き刺さる。仔ねこは目を見開き、声にならない声をあげる。力のかぎりもがこうとするが、抑えつける左手は強引にそれを押しとどめる。痛くない、痛くない。ねこキラーはあやすようにそうささやく。そして刃が折れないようにゆっくりと、慎重に、突き刺したナイフをしたに動かす。少量の鮮血が飛び、雪のうえに模様をえがく。傷口からつぎつぎに血があふれ、仔ねこのからだを伝いぼたぼたと真下に落ちる。仔ねこはもうほとんど抵抗も見せず、むなしく痙攣して空を見あげる。胸部をうすく裂き、そして肋骨がおわるあたりからふたたび深くナイフを突き立てて、静かに仔ねこの腹を裂く。そのすき間から、重力にしたがい温かな内臓がこぼれだす。艶めいたそれは冷たい大気にもやもやと不確かな湯気をたてる。仔ねこのからだから力が抜ける。糸はぷつりと切れてしまう。ねこキラーは血まみれの仔ねこをそっと雪のうえに置く。仔ねこの痙攣的なか細い呼吸は、やがて静かにおわる。


   ❅   ❅


 黒い仔ねこの死体のそばに、雪ねこたちがあつまっている。

 仔ねこの傷口をぺろぺろとなめているものもいるし、新雪をそめる赤黒い血の匂いを嗅いでいるものもいる。離れた場所に立つねこキラーを見つめているものもいる。ねこキラーは、ぼんやりと天を仰いで、ひとり考えごとをしている。舞い落ちる雪の粒は遠慮なく彼女の顔に降りかかる。ねこキラーは目を閉じて、ゆっくりと息を吸いこむ。ゆっくりと息を吐き出す。そして目を開くと、雪ねこたちの姿はどこにも見えなくなっている。黒い仔ねこは、ひとりぼっちで死んでいる。


   ❅   ❅


 ねこキラーは用水路のふちを伝い、引き返してまた道路に戻る。停められた黒い車と塀のあいだの湿った段ボール箱をじっと見つめ、そしてまた、道を先にすすみ始める。不思議なほどまっすぐ伸びた、まるで世界の果てまでもつづくかのように見える細い道。


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