第19話 夜想行

 新渋谷行き決行の日は風一つなく穏やかな夜だった。地平線まで見晴るかす雪原は静まりかえっていた。ラティアはジェットスライダーを緩やかに走らせ、雪原を進んでいく。新渋谷周辺の警備状況から、手薄な北へ大きく迂回するルートを取った。

 ラティアは占領統治府に追われている。

 終戦直後、帝国軍への編入と、Sクオリファー技術の提供を求められていた。自身の科学技術を、戦闘兵器をもう戦争に使われたくない。それでラティアは拒んだが、出頭指示は繰り返された。出向いてくるのが治安部隊ではなく、占領統治府総務部やら科学技術局に再雇用された人間だったのには安堵したが。それでもパンゲアノイドとの友好のためとか、帝国臣民の義務を率先して果たせとか迫られた。

 ラティアは閉口した。落ち着いて敗戦の気持ちを整理することもできないと、ファンデリック・ミラージュを使った。他人に見える姿へ変身して、姿をくらまし続けている。

 今向かっている新渋谷はフェムルト第二の大都市だった。当然、占領統治府の目も行き届いている。活発化するテロ対策で、占領統治府の人流監視が強化されている。一方でファンデリック・ミラージュも性能劣化が進んでいる。終戦後間もなかった頃のラウナバード脱出はうまくごまかせたが、今はファンデリック・ミラージュも決して万全ではない。新渋谷行きは隠密裏に、人目に付かないように侵入したいと考えていた。そこでチェニスが提案してきたのが、夜間に新渋谷北側の原野へ迂回して侵入するというものだった。

「新渋谷の南、恵比寿港がゲリラに狙われているという情報がありまして。今、占領統治府の警戒がそちらに集中しています。逆方向の北側、代々木原野から入り込むチャンスなのです。あいにく晴れの予報ですが、気晴らしと思って極地の夜を楽しんで参られてはいかがかと?」

 そして侵入決行の夜。

 見渡せば空一面の星明かりで、地表の雪は淡く瑠璃色に染まっていた。

 気が遠のくような静けさ。

 そこに一人立ち、全身に染み入るような静寂をそんな風に思う。

 星空は濃紺に、点在する雑木林と遠い丘陵は黒く。まるで星空へ切り絵のようにシルエットを浮かべている。凍てつき澄んだ大気に、ときおり風が思い出したように吹いていく。吹く風に雪原表面のさざれ氷を舞い上がらせて散っていく。

 ジェットスライダーの推進エンジンがオレンジ色に輝く炎を噴いている。エッジのかき上げた粉雪がビンディング高さまで吹き上がる。静かに沈殿としたモノトーンの世界で、ジェットスライダーだけが、まばゆいオレンジ色の光を放っている。オレンジ色の光点は瑠璃色の雪面に一筋のシュプールを刻み、緩やかで長大な軌跡を描いて伸びていた。

 にわかにラティアを取り巻く夜の景観が変わり始める。

 雪面が淡いエメラルド色の光に染まっていく。ラティアは顔を覆っていたスカーフを口元まで降ろした。大気は冷たくとも見上げるその景観に心が躍った。

 オーロラだ。

 空に高く大きく、そして幾筋もの帯状の光彩が流れる。宇宙からの荷電粒子群がまるで生き物のように蛍光を発し濃淡を描きだす。エメラルド色からサファイアブルー、暗いガーネット。艶やかに変わる色彩。極地の天望にラティアもしばし心を奪われた。

 かつてSクオリファーチームの仲間たちと眺めたときを思い出す。

「すっごい、きれいだね」

 レイアの口癖をまねて、ラティアはほんのり口元におかしみをこぼした。

 オーロラを見上げていたS・クオリファー・スリー・レイア。ぽかんと口を開けた無邪気な顔が懐かしい。ラティアより二つ年下だったレイアは、このSクオリファーという機械の体に馴染めず不安定だった。ときに人間に戻りたいと泣き、Sクオリファーチームから逃げ出したこともあった。ラティアと本気で衝突したこともあった。けれどもラティアを上回る彼女の攻撃力があればこそ、巨大空中戦艦ガイエルドムクスとも互して戦うことができた。

「あの子、今頃どうしてるんだろう……」

 フェムルト東岸のクワラン上陸戦も、ベルトーチカ会戦に劣らぬ激戦となった。だがそれ以来レイアの消息は知れない。ジャンヌは終戦直後に姿を消した。

 仲間は皆いなくなり、今はラティア一人。

 やがて遠く地平線のかなたに涙のしずくのような赤や青の明滅が見え隠れし始めた。新渋谷の街の灯りだった。ラティアはジェットスライダーのエンジンを停止し、静止した。

 足元周囲は雪以外何もない。何も見えない。

 ただ、チェニスの提示した座標はここになる。ここから先は真っすぐ進めない。チェニスの事前調査では、ここには防御線が敷かれている。活動を活発化させている民族主義ゲリラの侵入を防ぐためのものだ。

 ラティアはウエストポーチに手を伸ばした。プローブセットケースを取りだし、元素分布探知用の探針をより分けていく。これを使って雪の中に隠された防御線のトラップを探る。冷えた短針を指でつまみ、目元にかざして確認し、それをケーブルへと接続していく。

 腰をかがめて冷たい雪の中へ差し込んだ。髪をたくし上げ、こめかみに手を添えると外皮が開きコネクタ孔が現れる。探針の端に接続されたケーブルをそこへ差し込む。探針をアクティブに動作させ、雪とその下の地中まで元素分布の情報を得る。

「これは苦労させられそうね」

 雪原下には局所的に金属や化合物が点在していた。防御線に敷設されているのは地雷ばかりではなかった。この元素の情報からすると自動照準のレーザ照射装置もある。

 探針で検知できるのは十メートルが限度だった。十メートルおきに雪へ探針を刺しこむ作業を繰り返さねばならない。これから始まる途方もない作業にラティアもうんざりした表情を浮かべる。前方十メートルの範囲の無事を確認すると、片足で雪面を蹴った。ジェットスライダーが雪面を滑り、十メートル進んで止める。再びうずくまっては探針を雪面に刺す。

「ああ、格好悪いなぁ、もう!」

 思わず天を仰ぐ。しばし腰をかがめてほほに手を添え、遠い新渋谷のあかりを見つめる。

「あの街に、ロナウさんがいる」

 途切れた言葉に白い吐息が暗闇へ漂い漏れている。


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