第5話

私は発売当日、本屋に寄り、雑誌を買う。自分の小説が載ったそれを大事に抱えて、家に帰る。そして、小学生が夏休みに集めた宝物のように、昔埋めたタイムカプセルのように、妙にわくわくした気持ちで改めて自分のの小説を読む。月白さんの枠が消えて、私が入る。外から見たら私が代打なんて気づかれないはずなのに、罪悪感が残る。嬉しさが勝るなんてことはなかったのだ。私の小説が終わると、次に始まるのは先輩の小説だった。もうすぐで最終回を迎える。その並びが正直に嬉しいと思えないのが、私の実力不足の現実を痛感した。

 一ヶ月が経った。先輩は最終回を書き終え、気持ち良さそうな、しかし地獄から帰ってきたような顔をしている。

 私は先輩のそんな顔を見て、コーヒーを淹れる。ありがとうと言った先輩に「どういたしまして」と出会った頃のような返しをする。ここ最近色々あったせいで、先輩と私は距離感がわからなくなっていた。いや、先輩のことを少しでも知れたと、喜ぶべきなのかも知れない。

「立花ちゃん」

 先輩が、思い出したように呟く。

「なんです?」

「なんか、色々と巻き込んじゃってゴメンな」

「いえいえ、気にしないでください。私は大丈夫ですよ」

 そう答えて、大丈夫と言ったのは、果たして適切だったんだろうかと後悔する。一ヶ月も経つと、私の大事な宝物はただのゴミと化していた。いっそ捨てようかと思うぐらいの。

「先輩は小説を書いてて楽しいですか」

 ふと前にもしたような質問をしてしまう。先輩は、私の目を見て憐れむ。楽しくないよと前置きして、

「辛いか?」

「えっ?」

「レビューかなんか見た?」

「……」

 私は何も言い返せなくて、その間にコーヒーを飲んで間を埋めた。コーヒーの苦味がやけに沁みる。

「立花ちゃんは、小説を書く才能あるからね。大丈夫だよ」

 久しぶりにそんなことを言われる。その魔法はもう切れたのだ。私に才能なんてない。あるのは先輩だけだ。先輩と月白先輩。そして、まだ私の知らない二人。

「まだそんなこと言うんですか!」

 突然上げた大声に先輩はびっくりして目を丸くする。「ごめんなさい」

「俺はもしかしたら今後何度でも言うかも知れない。立花ちゃん、君には小説を書く才能があるよ」

 なおも言い切る先輩に、私は私の発言が、私の受け取り方が間違っているんじゃないかと竦む。でも、私に才能がないのは、世界が何度でも教えてくれる。現実は、世界は私と先輩だけで構成されているわけじゃないのだ。

「なんでですか。なんでそこまで」

 私に執着してくれるんですか。私の理想は崩れ去ったというのに、どうして理想はこうも理想を語るのだろう。

 先輩には才能がある、というただ一点の現実が、私と先輩の間の溝を作る。

「それは……」

 一本の電話が、先に繋がる言葉をかき消した。

「ごめん」「いえ」

 先輩は気を遣ってか、部室を出る。外から漏れた声が反響して聞こえるので、あんま意味ない。

「や、やあ久しぶり…‥」

 私と話すよりもさらに他人行儀になって、いつの間にかペコペコし始める。

「月白はたぶん、スマホの電源切ってると思います」

 その後もなんだかへっぴり腰な会話が続き、通話が終わると先輩は多量の汗を流していた。そういえば夏か、と緊張感のない感想が浮かぶ。

「八知さんの妹からだった」

「妹さんいたんですか?」

「ああ。正直嫌いだよ。俺が八知さんを好きなのを知っていじめてくるんだ」

「それは災難ですね」

 要件は。と躊躇いがちに先輩は言う。

「要件は、八知さんの遺品についてだった。彼女が書いた手記が見つかったらしい」

「へえ、」と間延びした声が出た。

「それを月白に読ませたいというか、渡したいというか。とにかく! またあいつのもとへ行かなくちゃならなくなった」

 その日は金曜で、私達はその後とくにやることがなかったので、部活を早めに切り上げ、横浜から電車を乗り継いで千葉に向かった。母に夜遅くなると伝えると心配されたが、「先輩と一緒」というと、ははーんと娘をバカにしたような返事が返ってきた。

「先輩、私なんだか後悔してます」

「奇遇だな。俺もだ」

 夜の身体にまとわりつく熱気がすごい厄介で、とても不快。度々寄ってくる蝿なんかも、口の中に入りそうで、怖いしキモい。

 八知さんの家に着いたのは、六時を過ぎた頃だった。寄り道とかしなければそこまで遅くならないか、と安堵する。

 先輩が呼び鈴を押す。はーいと若いのに怠そうな声、そしてドタドタと玄関に駆け寄ってくる音が私の脈拍を速めた。私は先輩のどういう人間として、八知さんの妹の目に映るのか気になった。私はどういう態度をしていればいいのだろう。

「来たか」

 扉を開けた少女は、まず先輩に侮蔑の視線を送ることから始める。

「入れ」

 淡々と事務的な会話をする妹。右の髪を留めているヘアピンは誰にもらったのだろうか、そんな妄想をする。この空気だとそれぐらいしかやることがない。やることも何も私は最初から空気だった。そのままじっとしていよ。

 年季が入った家らしく、みしっとと音を立てる場所がある。田舎らしくていいなと私は思うが、妹さんはなんだか嫌がっていた。階段を上がって、八知さんの部屋に入る。

 部屋は雑然としていて、家宅捜索が入ったのか、っていうぐらいだった。アルバムとか思い出の品とかが、ダンボール箱から出され、散らかっていた。

 それらはすべて八知さんの生きていた証で、彼女の秘密でもあって。私は人の秘密に立入る後ろめたさと好奇心でないまぜになっていた。

 手記はあらかじめわかりやすい場所においてあった。彼女が生前使っていた机の上。そこで月白さんと過ごした何かがあった。取り乱した月白さんを思い出すと、ここは幸せが詰まった場所で、どう考えても月白さんをここには呼べない。

 先輩は渡された手記を大事に手に取り、紅いその装丁の肌触りを確かめた。パラパラと中を捲ろうとするも、「やめなよ」と制止される。先輩はこれほど妹さんの敵意を浴びながら、よく来れたなと感心する。

「頼んだよ」

 八知さんの妹はそれを言うなり、私達を外に追い出す。最後に「いつまでもうじうじしていた臆病者」と悪口を言って。冷酷というに相応しい少女だった。しかしその冷たい印象と彼女の美貌がマッチしているのも事実だった。この顔を見ると、八知さんは相当綺麗だったんだろうなとわかる。私なんかじゃ絶対敵わない。

 あの時間の中で、先輩は何度か妹さんの顔を見て、惚けていたことがあった。きっと横顔でも似ているんだろう。私には、似ているものが何一つない。それがたまらなく悔しかった。いつだって私は人より一歩遅れている。


 月白さんの家までは三十分ほどだった。一度来ただけあって、安心感が凄い。まだ時間も七時だし、帰りは焦ることなくゆっくり帰れそうだ。

「やあ、久しぶりだな。一ヶ月ぶりくらいか?」

 前に会ったときよりも目の隈が悪化していた。それでも優しく接してくれる。落ち着いた表情にこれから渡すものがどんな影響を与えるのだろう。恐ろしいぐらいだった。

「月白さん、ちゃんと寝れてます?」

 挨拶程度の認識で訊くと、

「いや」

 わかるだろ、とでもいいたげに月白さんは悪態をつく。

「お前の睡眠時間なんざどうでもいいが、今日はこれを渡しに来たんだ」

 先輩がすっと例のものを差し出す。月白さんは、はじめ理解をしていなかったが、突然先輩の手から奪い取った。月白さんの記憶にその「赤い手帳のようなもの」の存在があったのだ。

 恐る恐るパラパラと捲る。徐々にページを捲る手は止まらなくなり、「凜々花……」と溢す。

「どこでこれを?」

 先輩は嫌そうに答える。「妹」

「杏ちゃんか」

「なにが書いてあるんだ、見せてくれるか?」

 先輩は月白さんに許可を求めた。先輩はあれ以来一回も見ようとしなかった。

「ああ、大丈夫だ」

 月白さんは涙を流しながら、先輩に手渡す。その涙の成分が、悲しみからのものではなかった。月白さんは、よく泣いていた。「凜々花、」とその名前を呼ぶのが嬉しそうだった。「遺してくれてありがとう」

「先輩、どうしたんです?」

 先輩は一ページ目で止まっていた。くうっ、と涙をこらえるのが辛そうだった。私はそれを覗き見る。

 一年前の日付から始まり、彼女の手記にはこう書かれていた。

『編集さんはつれない方です』

 その編集さんは、登坂さんだろうか。八知さんの言うこともなんとなくわかる。

先輩が言うに、この頃はちょうど月白さんの小説が掲載され始め、編集さんと交流ができた頃らしい。

『小説を書く蓮くんの横顔を見て、書き終わった蓮くんの小説を読む。こんなに幸せなことがあっていいんだろうか』

 先輩がページを捲る。先輩は、自身の恋心と八知さんの、月白さんへの愛を書いた文章を秤にかけて先を読む。

 先輩は、度々その時月白さんと先輩に何があったかを話してくれる。出会いから、恋に気づくまで。私はそれをうんうんと頷いて聞く。先輩を優しさで包む後輩でありたい。

『田畑くんという人に出会った。蓮くんの友達らしい。田畑くんも小説を書くんだって。二人が小説の話をしていると、私は嫉妬しちゃう。私も小説をかければよかった・・・』

『水泳で結果が出た。今まで伸び悩んでいたタイムも、自己ベストが出るようになった。蓮くんは、冗談で僕のおかげだよって言う。どうだろってその時は否定したけど、本当は全部蓮くんのおかげだ。ありがとう』

 そこで先輩は読むのをやめた。

「蓮、ありがとう」

 鼻をかんでいた月白さんに手記を返す。

「もういいんですか?」

「十分だよ。十分すぎるくらいだ。蓮は八知さんに愛されていた。俺はそんなことなかった。それだけだ。それがやっとわかった。やっとこれで前を向ける」

 悔しそうだったけど、今までにないくらい先輩の顔は晴れやかだった。

「もう帰るのか」

「用は済んだしな」

 月白さんは、ページを捲るたびに涙を流している。

 ふと、部屋の片隅で月白さんと楽しそうに話す八知さんの姿が浮かんだ。カーテンを締め切った薄暗い部屋に、月明かりが差し込む。

 お幸せに、と私は強く願う。


 その時、先輩のスマホが鳴った。

「俺を連絡代わりに使うのやめてくれませんかね」

「しょうがないだろ。繋がらないんだ」

「そいつなら今ここにいますよ」

「変わってくれ」

 月白さんは、目を充血させていた。泣き腫らした月白さんの目を見ると、私は優しい気持ちになる。

「゛は゛い、なんでずか」

「おお、元気か。なんとなく話はきいている。今は辛い時期だろうが、また──」

「小説は書きませんよ」

「そ、そうか……。まあいい。今日はお前にいいニュースがあるんだ」

「なんでしょう」

「月白の『あの先』へ、単行本化するのが決まったぞ」

 それは確かに良いニュースで、しかし私は月白さんの心が崩壊する音を聞いたのだ。

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