Foreign Affairs

チェンジリング

 フランクフルト中央駅から鉄道を乗り継ぐこと約八時間、列車はけたたましいブレーキの音と共に、駅のプラットフォームに滑り込むように停車した。

 かといって、すぐに外の空気を吸えるわけでもない。


「皆さん、席を立たないで。パスポートを用意してください」


 車掌がそう呼ばわって、各車両を駆けていく。

 私たち乗客はじっと座って誰も口を利かない。

 ドイツ・オーストリア国境を超えてから、何度パスポートをチェックされたことか。

 やや時間を置いて、ドタドタと慌ただしい足音が私のコンパートメントに近づいてくる。

 狭い扉が開かれ、四人の軍人が顔を突き出した。

 四人とも違う制服を着ていた。

 そのうち一人が無言で手を動かし、パスポートを渡すように私に要求する。

 国境の駅で遭遇した入国審査でも眼にした制服。ソビエト軍人だ。

 彼はパスポートをちらりと見るなり、右隣の男に渡してしまった。


「シビル・ウォーカー、英国臣民ブリティッシュ・サブジェクト


 それはアメリカ訛り――それもどこか田舎の――の声だった。彼は私のパスポートをまた別の男へと渡す。


「ミス・ウォーカー、どういった目的でウィーンに?」


 聞き馴染みのある英語に少しホッとする。声の主は英陸軍の軍服からだ。


「仕事です。記者をしていて」


 私はすかさず彼に名刺を渡した。

「へえ。どんなものを記事に?」


 言いながら、件のイギリス軍人はパスポートの写真と私を見比べ、査証ビザと申請書類をチェックする。


「オペラについて、簡単なコラムを持っているんです。今回はウィーン国立歌劇場の今について取材を――」

「あそこはまだ閉鎖されたままですよ。六区にあるアン・デア・ウィーン劇場を訊ねるといい」

「ありがとう」

「次――」


 そうやって私のパスポートは回収され、無事にスタンプを押されて帰ってきた。

 こんなことなら、空路を利用したほうが良かったかもしれない。

 狭苦しいコンパートメントから開放されるのは有り難いが、それでもこの街に漂う緊張感を拭い去るまでには至っていない。

 五年前、世界中を巻き込んだ二度目の世界大戦が終わりを告げた。

 オーストリアはナチス・ドイツとの併合アンシュルスという事実によって、共犯者の断罪を受けた。

 国土は英米仏ソ四カ国の手で分割占領され、首都ウィーンもベルリンの例と同様に、市内をさらに分割されての占領下にあった。


 駅を出てすぐに私はホテルへ向かおうとタクシーを探す。


「こんにちは《グリュース・ゴット》。どちらまで行かれます?」


 驚いたことに、話しかけてきた運転手は女の子だった。

 私と同じ、栗色の瞳に、黒い髪をハンチングにしまい込んでいる。たぶん歳も同じくらいだ。


「ええと、まだホテルは決まってなくて……。その、英語は分かる?」

「もちろん。母は英国人でしたから。私の顔の効くホテルを案内しましょう。さあどうぞ!」


 彼女は私の答えを聞く前に、わたしの腕からやや強引にトランクを受け取るとあっという間に車に詰め込んでしまう。

 そのまま背中を押されるように、私は後部座席に収まったのだった。


「どこから来たんです?」


 バックミラー越しに運転席の彼女が聞いてくる。


「ロンドンよ」

「へえ、素敵なところなんでしょう?」

「ころころ変わる天気と、未だに配給に頼る生活が気にならなければね」

「わあ、本場の皮肉だ」


 彼女が嬉しそうに言うので、私は困惑してだまってしまう。

 仕方なく車中からウィーンの街並みを眺めてみる。戦火の爪痕は五年たった今ではすっかり影を潜めているようだった。

 通りに面した建物は白や黄色といった淡いパステルカラーに近い色で外壁を塗り直され、その合間を縫うように、二両編成の白と赤のトラムが石畳の上をのんびりと走る。

 楽都ウィーンの美名にふさわしく、そこかしこで楽器を奏でる老若男女の姿が見てとれた。

 運転手にも聞いてみたが、やはりウィーン国立歌劇場は空襲で焼け落ちてしまって、再建もまだなっていないとのことだった。


「街はだいぶきれいになっているのね。検問とか、もっと暗いイメージがあったから」

「まあ分割占領、って言ってもほとんど看板が立ってるだけですからね。往来の制限があるわけじゃないですし」

「でも列車の中ではずいぶんと待たされて、パスポートをチェックされたけど」

「たぶん『ソビエトの月』だからですかね」

「ソビエトの月?」


 言葉の不穏な響きに、私は思わず聞き返してしまう。


「中心街のインネレシュタットは、一ヶ月ごとに四カ国の占領権が変わるんですよ」

「今月はソビエトだから厳しかった、ってこと?」

「わかりませんけど。月末になればシュマーリングプラッツで軍隊の交代式もやってます。あれは見ものですよ」

「……そう」


 彼女は屈託なく言っているけど、住んでる人からすれば、入れ代わり立ち代わり、外国の兵士がやってくるのを眼にするのは、心穏やかじゃなだろう。


「ここに住む人は、大変なんでしょうね」


 想像することしかできないけれど、わたしの口から自然と言葉が漏れた。


「そんなことないですよ。軍政になって五年、みんな慣れてます」

「でも……」

「きっと映画の影響ですね。最近あったじゃないですか、ウィーンの街が舞台の消えた男を追いかけるやつ」

「ええ」

「あれはサスペンス映画ですからね。雰囲気が暗くなるように撮ってるんですよ。フィルム・ノワールって言うやつで――」

「詳しいのね」

「映画好きなんで。でも一番は歌と踊り!」


 そう言って、身の上話を聞かせてくれた。

 彼女の名前はリーゼという。

 わたしのひとつ下の二十二歳で、小劇場で踊り子をやっているらしい。

 両親は戦争で死んでしまったために、昼間はタクシーの運転手もして日銭を稼がねばならないそうだ。

 この街は華やいだ雰囲気を取り戻しつつあるが、それでも人々の生活は苦しいままだということなんだろう。

 軍政が敷かれ、ウィーンには大使館ではなく、高等弁務官事務所が置かれている。

 特にウィーン中心地区、インネレシュタットはどこの国にも属さない、四カ国の共同警備地域とされている。


「そんなに働かなくちゃならないなんて大変」

「夢を追いかけるには多少の苦労は仕方ないですよ」

「でも、お金なんてそんなすぐになんとかなるものじゃないでしょ?」

「実は最近、大きなお金も入ったし、本当はこの副業もやめようかなって思ってたところなんですけどね。問題はお金だけじゃなくて」

「ねえ、あなたの言う夢って、どんな夢なの?」

「それは内緒です、でも……」


 リーゼの顔が一瞬こちらを向いて、微笑んだ。


「あなたなら、わたしの夢が叶えられそう」


    * * *


 遂に見つけた。わたしはシビルという大切な鍵を。

 彼女と私は似ている。見た目も好みも。この三日間は彼女のために車を走らせ、どんなところへも連れて行った。

 観覧車、大聖堂を見た。念願のオペラッタも鑑賞できたと、シビルはとても喜んでいた。


「ウィーンに来て、楽しい思いをさせてもらった。あなたのおかげよ」


 手入れの行き届いた芝生と並木道を背景に、くるくると回りながら、シビルは笑っていた。

 今日はアウガルテンの公園内の散策。

 陶磁器の工房や、宮殿を外から見て回る。ただそれだけでも彼女はとても嬉しそうだ。


「わたし、いろんなところを知ってますから!」


 でも、本当は違う。わたしはもっとあなたに近づきたい。


「ねえリーゼ、私のために運転手をしてくれるのは助かるけど、ふだんの生活は大丈夫なの?」


 抜けるような青空の下、芝生に寝そべった私をシビルが覗き込んでくる。


「心配してくれるんですね」

「わたしもあまりお金は持ってないもの」

「ええと、実は最近、経済的に支援してくれる人がいるというか……」

「パトロン、みたいなもの?」

「ええ、まあ。踊り子をやってる人間には珍しくないんですけど」


 シビルは急に栗色の瞳を細めて、わたしの体つき確かめるように目線をよこす。


「あなた、意外とわるい子なのね」

「あはは……」


 そう、シビル。わたしはわるい女なんだよ?


「ねえリーゼ、あそこに行きましょう。あれが気になっているの」

 わたしは起き上がると、彼女が指差す先を見上げる。

「ああ、あれですか……」


 それは、のどかな公園の風景から明らかに浮いた、灰色の無骨な塔だった。


「あれは高射砲塔フラックトゥルム、爆撃機を撃ち落とすために造られた、砲台ですよ」

「あれが砲台……」


 高射砲塔はコンクリート製で、高さが五十メートル近くあり、公園の利用者を見下ろすようにそびえ立っている。


「ずいぶんと大きいのね」

「ええ。どんな攻撃にも耐えられるように、分厚いコンクリートで出来てるんですよ。そのせいで壊すのにも手間と金がかかるというんで、放っておかれてるんです」


 よく見れば四年前に受けた砲爆撃の跡が残っている。

 わたしたちはそれに吸い寄せられるように近づく。


「戦って傷ついて、負けて。忘れたくても、壊すこともできない。ただそこにずっとあるの。そうやって、変えられない過去をずっとわたしたちは見続ける」

 押しつぶされそうなくらい大きな存在が、わたしに多くを語らせる。

「だから、わたしはわたしでない誰かだったらって、思ってしまう」


 それがあなたならどんなに幸せだろうって。


「リーゼ……」

 気づいたときにはシビルの細い指が、わたしの手のひらを捕らえ、彼女は自らの頬にそれを当てていた。


「大丈夫よ、大丈夫」

「あっ、……ごめんなさい」

「いいのよ。私達は似た者同士」

 わたしは手を引っ込めると、すぐに取り繕うように笑ってみせた。

「また、夜に会いましょう」


 シビルにはあえて説明しなかったけれど、アウガルテンのすぐそばを流れるドナウ運河は、共同警備区域の境界になっている。

 そして境界の外側であるアウガルテンは、ソビエト軍の占領地域だ。

 夜のアウガルテンは暗く、街灯の灯りもほとんど届かない。

 わたしは指示されたベンチに腰掛けて、『彼』がやってくるのを待っている。

 あの高射砲塔が月明かりを遮って作る、長い影を見ないようにしながら。


「手に入れたか?」


 背後から男は声をかけてきた。ロシア人とは思えないほどの、流暢なドイツ語だ。

 わたしはシビルのパスポートを差し出した。

 何度も彼女のホテルの居室に出入りしていたわたしは、簡単にそれを手に入れることができた。


「今夜だ」


 男は懐からひし形のペンダントを取り出して私に見せた。

 裏面の小さの突起を押すと細い針が飛び出した。


「え?」

「毒が仕込んである。身体のどこでもいい、三十秒もかからないだろう」


 早すぎる。計画では一週間は掛けるはずだ。


「予定が繰り上がった。敵は既に次のゲームの準備をしている」

「ですが……」


 まだ、完璧じゃない。

 男は隣に腰掛けると、わたしの襟首をつかんだ。


「失望させるな。路上で飢えていた君を助けたのが誰か――」

「わかっています……!」


 わかっている。名前は知らないが、私の『パトロン』はそういうやり方なのだ。

 従わなければ、ハンガリーへ送還されてしまう。それは嫌だ。


「パリ経由でロンドンに行き、現地で指示を待て」

「はい」


 わたしの返事を聞いて、男は手元を緩めた。


「ハンガリーから歩いてここまで来たんだ。列車の旅など、どうということはないだろう?」


 男は鼻を鳴らして立ち上がった。


「見ているからな」


 去り際の男の言葉が、わたしには高い塔の頂上から聴こえたような気がした。


 それからわたしはただ突き動かされるように、車でシビルを迎えに行った。

 ふたりで予定していた通り、彼女と夕食を共にした。

 食事の席でいったい何を話したかは、もう覚えていない。

 ただキャンドルの灯りに浮かぶ彼女の暖かな笑顔が、頭から離れなかった。

 わたしは食後だし、ドライブをしようと彼女を誘った。

 ドナウ運河にかかるアウガルテン橋の路肩に車を止めて、外に出た。

 春先とはいえ、夜は冷える。もう一枚飢えから羽織るものを持ってくればよかった。


「どうしたの急に」

「風に当たりたくて」

「まだまだ寒いのに?」


 寒がるわたしにシビルは自分のコートを寄越す。

 彼女はまるで彼女は運河の底を覗き込むように、金属の橋の欄干に身体を預けた。


「確かにいい風」


 シビルのうなじが見える。わたしと背格好は似ているけれど、ほんの少しだけ低い彼女の背中。

 わたしはまだ決めかねていて、探るように首筋に手をかざす。


「そういえば、初めてドナウ川を見たかも。青く美しきドナウブルー・ダニューブなんて言うけれと、けっこうと濁っているのね」

「よく間違えられるけど、ここはドナウ運河って言って、別ものなんですよ。本物のドナウ川はこの道のもっと先を、平行に流れてます」


 そんなどうでもいい事を口にしたせいで、わたしの手が彼女の首筋に触れてしまう。


「……どうしたの」


 今しかない。


「コート、大切にするよ」


 わたしはポケットを左手で探り、ペンダントを取り出す。

 右手を彼女の口元に当てながら、針の飛び出したそれを、彼女の首筋に。

 彼女の瞳からこぼれた涙がわたしの右手を伝う。

 男の言ったことは本当だった。

 ほとんど呼吸音にしか聞こえないような小さい悲鳴を上げただけで、シビルは文字通り息を引き取った。

 彼女の身体は重力に従って、ドナウ運河の淀みに消える。


「大丈夫よ、大丈夫」


 ドナウ川から別れたドナウ運河は、再び下流で本流と交わる。彼女も運が良ければ、本物の青く美しきドナウ《ブルー・ダニューブ》にたどり着くだろう。

 右手に残る涙の粒に、わたしはそっと口づけた。


「私があなたを覚えてる」



    * * *



 プラットフォームは汽車が巻き上げる蒸気、行き先を告げるアナウンスの声が低く響く中を、大勢の人々がどこへ行くともしれず、行き交っている。

 ウィーン西駅ヴェスト・バーンホフの駅舎は、相変わらず戦火に焼かれた跡をなんとか必要に応じて改造した継ぎ接ぎだらけの構造をしていた。

 その駅舎も近々取り壊されて、新しく建て直されるらしい。

 何かが取って代わらなければ、その存在は忘れられる。駅も人も、そうやって新しい物で埋めていくしかないのだ。

 わたしは自分の乗るパリ東駅行きの列車を探す。どのホームにも警備の兵士が控えていて、乗客のパスポートを改めている。

 ロンドンまでは、空路を行く方法もあった。

 けれど、わたしは列車の旅が好きだ。景色をゆっくりと楽しむ旅情がある。

 そしてなにより、シビルの足跡を遡行することに、わたしは意味を見出していた。

 いつも四カ国揃っているはずの警備兵だが、なぜかここはソビエトの兵士しかいない。

 これもあの男の言ったとおりだ。

 去るもの追わず、入国に比べて簡単な質問をされただけで通される。


「パスポートを。名前は?」


 兵士が訛りの強い英語で訊ねる。


「シビル・ウォーカー、英国臣民ブリティッシュ・サブジェクト

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在りし日の裏庭(短編集) 霧江 @kyliEleison

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