繋がりを求めて

 資料室には過去の亡霊が住み着いていて、時折思ってもみない過去の記憶を呼び起こすことがある。

 ときに運命の糸は思いがけない出会いをもたらすが、スパイたちの生きる世界では、偶然と必然の境界はつねに曖昧だった。

 それはパトリシアがいつものように過去の膨大な資料の洗い直しをしているときだった。

 五年前のある委員会の議事録の末尾に『アトロポス』の名前が出てきたからだ。

 保安部MI5に入ってから日が浅かった当時の事情を割り引いても、パトリシアにとって『アトロポス』の事案は非常に苦い思い出だった。

 けれど五年ぶりにその単語を見たときに彼女が抱いたのは懐かしさだった。

 彼女は過ぎ去った日々からの呼び声に従って、一本のテープを資料請求リストの中に加えた。


『録音日時一九七二年四月十二日、午後九時四十五分――』


 オープンリールデッキの上で直径七インチの磁気テープが、骨董品の糸車のようにゆっくりと回りはじめる。

 最初に飛び込んできたのは、電話録音室の住人にして敬虔なロシア正教徒、タチアナ・デニキナが録音日時を告げるしわがれた声。

 かつて革命の赤い津波を逃れてきた多くの白系ロシア人女性が電話録音室に在籍していた。

 その部屋の片隅にはイコンが置かれ、寡黙な彼女たちが作り出す独特の雰囲気は、部屋の中にある種の治外法権を生み出していた。

 タチアナはその頃の空気を知る最後の世代だった。

 彼女が命からがらロンドンにやって来たのはおそらく十代の頃だろうが、この老婆も翌年に定年を控えていた。


 ガチャ、と録音の切り替わる音。

 数回の呼び出し音のあとに、さきほどのタチアナの声よりも音の粒が荒い、電話越しの若い女の声が入る。


「外務省です」


 交換手は事前の打ち合わせ通り、自分の所属を偽って名乗った。


「そちらにミス・モリー・クラークソンはいらっしゃいますか」

「少々お待ちを……、電話を回します。そのままお待ち下さい」


 呼び出し音。


「もしもし。先週お会いしたレーナ・アルブレヒトですが」

「ああ」


 別の無愛想な女の声が答える。

 パトリシアはそれが自分の声だと気づくのに少し時間がかかった。


「覚えてますか」

「レーナ、もちろんです。昨日の夜は楽しかった」

「もう一度、会えませんか。週末にわたしの家で」

「嬉しい。でもごめんなさい、その日は予定が」

「では次のつぎの週は?」

「ええと、来週は友人と旅行を計画していて。ごめんなさい」

「……」

「レーナ?」

「ごめんなさい。昨日あんな事をしたから」

「……じゃあ、わたしの家で夕食は? 夜なら空いています」

「いいの?」

「ええ」

「ありがとう。きっと友だちになれると思う」

「では午後五時に。家はウェスト・ヘンドンのオードリー・ロード十二番地です」

「かならず行くわ」


 受話器の置かれる音。

 たった三分間の会話だが、彼女とパトリシアはこのとき確かにつながっていた。


 ――――――――


 観劇は退屈だと、パトリシアの友人は行くたびにため息を付いていた。

 そもそも大学時代に、観劇が趣味などという友人を作ること自体が、まちがいなのだとパトリシアは彼女にうそぶいた。

 演目はゲーテのファウストを現代風に改題したミュージカルだった。

 舞台上では、ギリシャ神話に出てくる運命の女神が、黒いドレスを身にまとい、あれこれと長いセリフを歌っていた。

 あまり人気のある公演でもないのか、席には空席も目立った。

 好きで十回以上見ているのだが、その日はなんだか退屈に感じて、パトリシアは劇場の観客の方を観察するのに意識が向いていた。


(あの人、いつも来てる)


 夜の部。前から三列目。柱の影に少しかかる右端の席。黒のボンネットを頭にのせた令嬢。

 同じ時間、同じ席。

 少なくとも自分以外にこんなに足を運んでいる人間も他にはいないと思っていた。

 劇場の亡霊のように貼りついた彼女の影が、パトリシアの瞳にも焼き付いていた。

 彼女の細い横顔がこちらを向いて、軽く会釈をしたように揺れた。

 パトリシアは気まずさを感じて、視線を彼女から外した。

 そうしているうちに、ようやく幕間がおとずれてパトリシアは席を立つ。

 気づくと左側に座っていた友人は消えていた。

 後で彼女を問い詰めたら、あまりに内容がつまらなかったので先に帰ったとのことだったが、その時のパトリシアは友人が消えたことに動揺していた。

 途方に暮れているところを話しかけられたのは、完全に不意打ちだった。

 美貌に恵まれた者だけに許される、人を試すような微笑み。

 そして腹の底に抱えた感情を深緑のシルクドレスに上手に隠している。


「ミス・クラークソン、いたのね」

「え、ああ……」


 困ったことになった、と彼女は思った。

 話しかけられた相手に面識はない。だがクラークソンというのはパトリシアが使ういくつかの偽名のうちのひとつだった。

 出会った人間を忘れるほど自分はバカではないはずだが、飲みすぎた週末の夜など、そういう事もないとは言い切れない。

 どちらにせよ、話を合わせるか、他人のふりをするかどちらかを決めないといけない。


「――おひさしぶりです」


 パトリシアは精一杯の笑顔と若干の驚きを混ぜて相手に答えた。

 どうせ、これから知ればいいのだ。それくらいの芸当ができなくてはこの仕事は務まらない。

 目の前の女は演劇好きらしく、――つまりパトリシアの好みで――知的な微笑みを湛えていた。


「あなたもこの公演を?」


 モリー・クラークソンのカバーはたしか外務事務次官秘書だったはずだ。

 各国外交官が臨席するようなカクテルパーティはよくひらかれていた。そこの防諜任務で何度か使ったと彼女の記憶は告げている。

 その名前で向こうが呼んでくるということは、彼女は少なくともどこかの国の外交官か、その家族ということになる。

 一般に外交官夫人という『職業』は、旦那の出世という死活問題の関係上、下手なスパイよりも優秀な情報網を抱えている。


「世間では俗っぽいアレンジだって言われていますけど、私はむしろ身近に感じます」

「同じ感想の人に初めて会ったわ」


 彼女たちは一般に気位が高く、軽んじられる事を最も嫌う。

 ましてや名前を忘れたなどと言おうものなら、その抗議は外務省を通じて非公式にやんわりと告げられ、以降パーティでタダ飯に預かるという役得は取り上げられてしまうだろう。

 名前を直接聞くような無粋を働いてはいけない。


「このあとお茶でもどうかしら?」


 劇場を出ると太陽が沈みかけているところだった。

 パトリシアが連れられて入ったのは、寂れたティールームだった。

 大部分のティールームと同様に、この店もカフェの人気に押されて今ではすっかり廃れてしまったようで、壁紙はもう三十年は貼り変えられていないように見えた。

 彼女は紅茶とクロテッドクリームのついたスコーンを、パトリシアはいつもの癖でコーヒーを注文する。

 その席で彼女はいかにドイツの音楽が優れいているかを語った。


「イギリスはエルガーが出てくるまで、国を代表する音楽家というものがいなかった」

「ヘンデルは? デッティンゲンの戦勝を祝して、ジョージ二世にテ・デウムを献じている」

「彼はドイツ人で、ハノーファーの宮廷楽長だった。そしてハノーファー選帝侯、ゲオルグ二世アウグストは、父親の代に得たイギリス国王の椅子に収まっていたにすぎない」

「私たちは欲しいものは他所よそから借りるのよ」

「国王も、音楽家も?」


 このあたりで負けを認めて点数を稼ぐよりほかない。


「……わたしの負けね」


 パトリシアがため息交じりにそう言うと、心底嬉しそうに彼女は肘まであるイブニング・グローブで上品に口元を隠して笑った。

 ふたりの会話は終始このような調子で、彼女と比べて音楽の知識などあまりないパトリシアにとって多少疲れる会話だった。

 ヘンデルのくだりも、彼女の知っている戦史と音楽の数少ない共通点のひとつを出したに過ぎない。


 それでも彼女の挑むような語り口には不思議な魅力があって、ただうなずいて聴いているだけでも価値があるように思えた。

 そこのティールームは夜にはバーに変わる。

 会話が発展する内に、ふたりのティーカップはいつの間にかドライ・マティーニに変わっていた。


「ところであなたは楽器を演奏するの?」


 上気した彼女は頬を赤らめながら、グラスを指先で弄んでいた。


「音楽は聴くの専門で」

「私はピアノを弾くの。いや期待はずれとだとかそういうわけじゃないんだけど」

「大丈夫ですよ。ぜひ聴いてみたい」


 お世辞で言ったつもりだったが、パトリシアの言葉に彼女は目を輝かせていた。


「そうだ。私の家にいらっしゃいな。今日の続きをしましょう」


 そう言って彼女はパトリシアの膝より上の柔らかいところに手を触れた。


「私、あなたの好みを知っているわ。秘密もね」


 ぞくりと身体に緊張感が走った。


「それはあなたの推測に過ぎないでしょ」


 彼女との会話は楽しかった。けれど頭の片隅では、確かな危険の予兆を感じていた。

 自分は知らない深みに足を踏み入れようとしている。


「私はあなたを助けることができる。あなたが私を助けられるようにね」

「なにを……!」

「まあ、かわいい。……分かるでしょ?」


 やんわりと抵抗するパトリシアの試みも虚しく、彼女はそれを続け、机の上のパトリシアの手をも撫で回していた。


「ごめんなさい。わたしそういうのは……」


 もしその時ウェイターが来てくれなかったら、パトリシアは誘惑に流されていたかもしれなかった。

 職業意識の高かったウェイターは、パトリシアが送り続けていた視線に気づいて席へ近づいた。

 流石に衆目は気にするのか、彼女の攻撃はぴたりと止んだ。


「今日は……、もう遅いから帰ります」

「わたしの家はここ」


 ウェイターからペンを借りて、彼女は紙ナプキンに住所と電話番号を書いてよこした。


「受け取って」


 そう言った彼女の顔は少し怯えているようだった。

 パトリシアの脳裏にあったのは、相手の名前のことだった。

 秘密情報部M I 6に住所と電話番号を照会すれば、身元を割り出せるはずだった。

 パトリシアは彼女の手からペンを奪うと、もう一枚の紙ナプキンに、保安部MI5が持っている録音用の電話番号のひとつを書いてよこした。


「職場の電話番号。そちらから電話してください」


 パトリシアは相手のナプキンを掴むと足早に店をあとにした。

 店の外では四月の強い風が彼女の顔をなでた。そして足元の熱と酔いが覚めて、名も知らぬ女にされたことが深刻に思えてきた。

 ひょっとしたら自分はかすみ網に絡め取られる寸前のコマドリだったのかもしれない。


 次の日の朝、パトリシアは夜の出来事を上司に報告した。


 女の名前は、その後MI6から返答のあった照会情報で初めて知った。

 レーナ・アルブレヒト。二十四歳。

 脚本家。ドイツ民主共和国D D R芸術アカデミー特別会員。

 レーナは国家保安省シュタージの要請で芸術家に対する左翼運動の形成と、左派新聞に対する記事の代筆を任務としている可能性が極めて高いとされていた。

 それでも彼らは差し迫った脅威とはみなされないとして、レーナを監視対象から外していた。


 だが現役の作戦担当官ケース・オフィサーをかどわかしたとなれば、事情は変わる。

 レーナ・アルブレヒトの名が新たに資料室のファイルに登録され、キャビネットに収められた。

 暗号名『アトロポス』の名を与えたのはパトリシアだった。それはあの日レーナと見た劇の中にいた、ギリシャ神話の運命の糸を切る役割をもつ女神から取ったものだ。


 当時の防諜課D1課長は私に電話が来たら、相手の家には出向かずにこちらの隠れ家セーフ・ハウスに呼ぶこと、答えを迷っているように振る舞え、と命じた。

 隠れ家セーフ・ハウスには盗聴器が仕掛けられており、レーナが不用意な事を話せば、すぐにでもスパイ活動の証拠として提出されることになるはずだった。


 そして一九七二年四月十二日、録音の当日を迎えた。

 その時の私には後ろめたさもあった。けれどわたしはまだ若く、他に解決の方法を知らなかった。上司の言うことをそのまま実行するだけで精一杯だった。


 この世界にはいくつかのルールがある。

 たとえば、なんの前触れもなく東側の人間に話しかけられたとき。

 パトリシアに限らず、諜報関係者が東側の人間となんらかの交流をもつ場合、すべては即座に報告しなければならなかった。

 それには二つの目的があった。

 ひとつは、同胞が東側むこうに取り込まれるのを防ぐため。

 もうひとつは、相手に亡命の意思があるかを見極め、西側こちらに取り込むため。


 受話器を置いたパトリシアは、少しだけ気が楽になった。

 レーナの声は少し明るかったし、ともかく彼女と会って話せば事態は好転すると思い始めていた。

 週末、パトリシアは隠れ家セーフ・ハウスで彼女が姿を表すのを待った。

 わざわざメモを取る練習や、録音担当者と合言葉まで決めて。

 けれど彼女は二度とパトリシアの前に姿を表すことはなかった。


 夜を過ぎて不安になったパトリシアは慌てて彼女の家へ向かった。

 彼女の家はゴールダース・グリーン・エステートにあった。

 ペンキの剥げた玄関には人の気配はない。

 パトリシアはかつて訓練施設で何度も練習したはずのチャブ錠を、たっぷり三十秒かけて解錠する。

 どういうわけか、スイッチを入れても照明がつかない。不安にかられて、ブレーカーを探すことすらその時は後回しになった。

 直感が、薄暗い階段を登って二階を目指す。

 最初あまりに暗くて、それに気づくことができなかった。

 不意に窓の外から車のヘッドライトの光が入ってきて、レーナと私を結ぶ最後の糸が浮かび上がった。

「そんな……」

 宙に浮いたレーナの身体を前に、私は膝から崩れ落ちてしまった。

 その時になってパトリシアは自分がどんな世界にいるのかということを思い知った。


 ――――――――


『午後九時四十八分、通話終了――』


 タチアナの硬い声が、過去の世界に落ちていたパトリシアを現実へと引き戻す。

 気づけば無音のテープが目の前で回り続けている。

 不自然な点が多々見受けられたにも関わらず、レーナの死は自殺ということで片付けられた。

 防諜課D1課長は、事前にこちらの作戦が敵に漏れていた可能性を報告書にまとめたが、この報告書はそれ以降の議事録に言及がなく、どうやら無視されたようだった。


 あの日、パトリシアとレーナをつなげる糸は切れてしまった。

 彼女とあの日会っていたら、一体どんな事を話したのだろう。

 おそらくはレーナは西側へ亡命を希望していた。

 KGBかGRUかシュタージかはわからないが、彼女の亡命の兆候を敵は察知して、先手をうって殺した、そんな所だろう。

 彼女はひょっとしたら、ただ友人が欲しかっただけなのかもしれない。

 もちろんそんな事は許されないが、諜報の世界は孤独で、常に葛藤と疑問がついてまわる。

 もしかしたら、自分がレーナを死に追いやったのかもしれない。

 あのまま誰にも彼女の事を報告しなければ。

 すぐにパトリシア自分の考えの危うさに頭を振った。

 当の本人が死んでしまっている。本当のところは誰にもわからない。

 唯一の慰めは、二人の間に繋がりがあったことを示す、このテープだけ。


 ――ごめんなさい。昨日あんな事をしたから。

 ――ありがとう。きっと友だちになれると思う。


 パトリシアはテープを巻き戻し、もう一度過去からのレーナの声に耳を傾けた。

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