第七話 さすが『大洋伝』の主役

 すいたちが変翔へんしょうと共に書庫を出たのは、それからどれほど後のことだろう。地下四層から地上に向かって黙々と上り続け、ついに地上一層へと戻った四人を、今まで待ち構えていたらしい神官や参拝客たちが出迎える。キムを天女と信じる人々たちに遠巻きに見守られながら、四人はようやく本殿の外に姿を現した。


 それほどの時間がかかったはずもないのに、キムもせんも外に出た途端、肩に張り詰めていた力が一気に抜け落ちたかのような顔をしている。もっともそれはすいも同様で、陽の光を浴びた瞬間に全身に安堵と疲労が押し寄せるのを感じた。


 一同が門に向かうと、そこには訪れたときに倍する人々に囲まれて、中央では未だに上紐恕じょうちゅうじょたちと神官たちが互いに顔を突きつけていた。といってもお互いに言いたいことは言い尽くしたのか、双方とも一様に疲れ切った顔で睨み合いを続けている。


 そこにすいたちが顔を見せて、最初に気がついたのは輪の中心にいる上紐恕じょうちゅうじょであった。


「お前たち、姿が見えんと思っていたら、揃ってどこへ……」


 上紐恕じょうちゅうじょの声が途切れたのは、すいたちの後ろから小柄な、だが背中に柱でも通したかのように姿勢の良い男の姿が目に入ったからだろう。


 変翔へんしょうすいたちより前に進み出ると組んだ両手を前に上げ、上紐恕じょうちゅうじょに対して礼を示してみせた。


りんの島主と天下国家について論ずべしと天女に説き伏せられて、穴蔵より這い出て参った」


 すると上紐恕じょうちゅうじょ変翔へんしょうの礼に応じ、同様に組んだ両手を上げて相対する。


「それは願ってもないこと。もとよりこの上紐恕じょうちゅうじょ変翔へんしょう殿とは腹蔵なく所見を交わすべしと思い、この耀ようまで罷り越した次第」


 ふたりが共に礼を尽くして挨拶を交わしては、神官たちもこれ以上上紐恕じょうちゅうじょたちを押しとどめる理由がない。


 こうして門を挟んでの押し問答はついに解散となり、上紐恕じょうちゅうじょ変翔へんしょうは太上神官の立ち会いの下に会談を持つこととなったのである。


 ***


 それから三日後、すいたちは紅河をいく船の上にあった。


 それも耀ように向かう際に使った快速船ではない。りょうにとどまらせていたりんの水軍の、旗艦の上である。


 大小合わせて十二隻から成るりんの水軍は、広々とした紅河の水面を河口に向かって堂々と進む。その中央に位置する旗艦の船尾甲板上で、手摺りをつかむすいの黒髪を、吹きつける風が棚引かせていた。


「王宮をすっ飛ばしてそのままりんに帰っちゃうなんて、本当にいいんですか?」


 風に巻き上げられる黒髪を抑えつけながらすいに尋ねられて、隣に立つ上紐恕じょうちゅうじょが大仰な仕草で肩をすくめる。


「どうにも宮中は性に合わん。りんの男なら、やはり海に出てだ」


 大型船の旗艦にあって、船尾は一段高い位置に甲板が設けられている。手摺り越しには目の前に四角帆が広がり、その下で精を出す船員たちを見下ろせる格好だ。上紐恕じょうちゅうじょはその手摺りに両手をつきながら、すいに向かって口の端だけを吊り上げてみせた。


「それに変翔へんしょうを連れ帰らずにのこのこ王宮に顔を出したら、単陀李たんだりがどれほど怒り狂うか。これ以上余計な手間を増やしたくはない」


 その言葉通り、彼は変翔へんしょうりょうに連行することはなかった。それどころか耀ようからりょうに着くと、王宮に顔を見せることもなく船を乗り換えて、そのまま水軍ごとりょうを離れたのである。


 それは上紐恕じょうちゅうじょ変翔へんしょうに太上神官を交えた三者による、丸一日以上をかけた会談によって導き出された行動なのだという。


「儂も上紐恕じょうちゅうじょも互いを必要としている」とは変翔へんしょうが書庫で言い放った台詞だが、上紐恕じょうちゅうじょが手ぶらで耀ようを離れると聞いたときには、すいもさすがに驚いたものだ。 


 いったい彼らは何を話し合い、何を決めたのか。それがすいには気になって仕方がない。


「ヘンショー様は、もう島主様の敵ではないのですか?」


 ふたりの後ろで風に舞う金髪を手で押さえながら、キムがそう尋ねるのももっともであろう。


 だが彼女の不安を、上紐恕じょうちゅうじょは豪快に笑い飛ばした。


「安心しろ、キム。奴の目的はあくまで天下の安寧よ。耀ように場所を移した奴は、もはや儂を敵と見做すことはない」


 それがどういう意味なのか、すいもキムも揃って首を傾げるしかない。すると上紐恕じょうちゅうじょは手摺りに片手を置いたまま振り向いて、仕方なしとばかりに説明した。


びん、いやりょうは、変翔へんしょうの代わりが単陀李たんだり如きではいずれ凋落は避けられんだろう。すると相対的にげんさんいつなどが台頭して、この世はいわば群雄割拠の時代を迎える。そういう混乱を収めるには、権威ある耀ようが調整に乗り出すしかない」

「そこでヘンショー様の力が必要になると?」

「奴は手持ちの札を有効に活用出来る男だ。びんの宰師であった頃は、その国力を。耀ようにいればその権威を、きっと最大限に活かすことだろう。儂も奴の辣腕は認めている」


 つまり今後衰えるだろうびんの力に代わって、権威をもってこの世界の安定を図るため、変翔へんしょう耀ように残したというのだ。とんでもない大役を押しつける上紐恕じょうちゅうじょ上紐恕じょうちゅうじょだが、それを引き受ける変翔へんしょうも大概である。


「ただ変翔へんしょうばかりに荷を負わせたわけではないぞ。儂とて微力ながら力を尽くすとも。お互いに過去の遺恨は水に流して、この世の安寧に努めるということよ」


 そううそぶいた上紐恕じょうちゅうじょの顔の、ひとの悪いことといったら。すいは彼が島主だということも忘れて、力一杯に眉根をひそめてしまったほどだ。


 船尾甲板の下から、聞いた声が上紐恕じょうちゅうじょを呼んだのは、ちょうどそのときであった。


「こちらにいらっしゃいましたか、島主様。駕蒙がもう様がお探しです」


 声のする方向へ目を向ければ、そこには下の甲板から階段を上りかけたせんが顔を出していた。


 上紐恕じょうちゅうじょは彼を一瞥してうむと頷くや、すいたちを振り返りもせずに歩き出す。あっという間に階段を降りていってしまった上紐恕じょうちゅうじょの背中を見届けてから、すいはキムの顔を振り返った。


「見た? あの、いかにも悪巧みしてますって顔」


 すいは同意を求めたかったのだが、どうやらキムは合点がいったのか、むしろ感心した面持ちでいる。


「さすがねえ。色々と考えてらっしゃるんだわ」

「……キム、島主様が何考えてるかわかったの?」

「多分だけど」


 両腕を抱え込むように組みながら、キムは少しばかり得意気に頷いてみせた。


「島主様はリンをビンから自立させるつもりなんだと思う」

「はあ?」


 りんの自立とは、つまりびんの下を離れて、ひとつの国を名乗るということだろう。それが大事であることぐらいはわかるからこそ、すいの目が丸くなる。だがキムがさらに告げた言葉は、それ以上の衝撃を伴っていた。


「それもおそらく、ヘンショー様の後押しを得て」

「はああ?!」


 上紐恕じょうちゅうじょ変翔へんしょうは、ついこの前まで対立し合っていた間柄ではないか。丸一日話し込んだとはいえ、そこまでお互いにてのひらを返せるものなのか。


「だいたいなんであのふたりがそこまで仲良くなっちゃったわけ?」


 その理由がわからないからと食ってかかるしかないすいに、キムは落ち着くようにと両手を広げてみせた。


「これからビンが衰えるなら、リンもビンの下にいていいことないでしょう。それよりはビンから離れて、独自に他国と交渉が持てる方が都合がいい。その際にヨウの権威も利用出来るなら優位に立てるし、ヘンショー様もリンの武力を当てに出来るなら調整もつけやすい」

「ちょっと待って、頭の整理がつかない。偉い人の考えてることって、何がなんだかわからない」


 まつりごとは魑魅魍魎の業とは聞くが、それにしてもすいには理解が追いつかない。昨日の敵であろうとも、互いに利があるなら手を組むという上紐恕じょうちゅうじょ変翔へんしょうも、少女にとっては常識の埒外だ。


 キムの説明もその内容は理解出来たのだが、だからといってすいが納得出来るかというとそれは全く別の話であった。


「さすがはリンの島主様。それでこそ『大洋伝』の主人公よ」


 一方でキムは手摺り越しに甲板を見下ろして、視界のどこかにいるはずの上紐恕じょうちゅうじょを追う瑠璃色の瞳には、すっかり尊敬の眼差しが浮かんでいる。


 そういえば彼女は、そんな魑魅魍魎が渦巻く『大洋伝』を書いた作者だったのだと、今さらながらすいは思い知らされるのであった。

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