第六話 琅藍の哄笑

「まさか、ローラン」


 すいの後ろで、キムの口から飛び出したその声はわずかに震えている。彼女の顔が青ざめているのを確かめて、琅藍ろうらんの黒い端正な面持ちによぎるのは、嗜虐的な愉悦であった。


「今さら気づいても遅いぞ、キンバリー・ホープ」


 キムの瑠璃色の瞳が恐怖に染まっていくのと比例するかのように、琅藍ろうらんの口角もまた吊り上がる。


「『天覧記』の中に創り出したお前が、同じように『大洋伝』の世界を創造したと知ったとき、私がどれほど歓喜したかわかるか。きっと世界を生み出す歓びを共有出来るだろうと、そう思って『大洋伝』の成立に奔走してきたこの私を、お前は裏切ったのだ」


 琅藍ろうらんがキムに語りかける様子は、さながら不肖の弟子を説教する師の如くであった。落第を言い渡す彼の顔に浮かぶのは、期待に届かなかった弟子に対する失望と、その言葉を口にすることが出来る優越感。


 絶望的な表情を見せるキムの姿を見て、琅藍ろうらんが優位に立ったことを確信したようにほくそ笑む。だがその表情は、すいが吐き出した大きなため息を耳にしたことでたちまちに曇ってしまう。


 大袈裟に頭を振るすいの顔には、落胆の表情がありありと浮かんでいる。


「なんでこんなに性根が曲がっちゃったんだか」


 腰に両手を当てて呆れ顔のすいを、琅藍ろうらんが一層苛立たしげに睨み返した。


「何度も言うが、貴様の存在は場違いだ。これ以上余計な口を挟むな」

「あなたこそまだそんなこと言ってるの? 私は――」


 一貫して邪険な態度を取る琅藍ろうらんに、いい加減痺れを切らしたすいが口にしようとした抗議の声は、せんが訝しげに呟いたひと言によって遮られた。


「なあ、すい。なんでこいつはお前の筆名を名乗ってるんだ?」


 せんが尋ねたのは、素朴な疑問以外の何ものでもない。彼にとって琅藍ろうらんとは、今もって正体不明な存在でしかないだろう。そんな男がよりにもよってすいの筆名と同名であることを、不思議に思ったに過ぎない。


琅藍ろうらんってのはお前の筆名で、例の『びょう遊紀』の主人公の名前だろう?」


 何気ないその問いは、だが琅藍ろうらんにこれ以上ない衝撃を与えていた。


 大きな目は限界まで見開かれて、黒々とした瞳に映し出されているのは著しい動揺。厚めの唇を半開きにしたまま、せんの顔を穴が開くほどに凝視している。「ようやくわかった?」というすいの言葉を聞いてもなお、彼女の顔を見返そうとしない。せんからも視線を逸らして、空になった書架に目を向ける琅藍ろうらんの横顔に向かって、すいがついに告げる。


「あなたは私が書いた『びょう遊紀』の中の登場人物なの。あなたの言い方を真似すれば、あなたは私が創り出したのよ」


 こんなに性格悪く書いたつもりないんだけどなあ、というすいのぼやきは、とどめの一撃となった。


 この世を創り出したはずが、一転して創り出された存在であると言い渡されて、琅藍ろうらんは書架の棚に手を掛けたまま混乱に陥っている。


「嘘だ……」

「嘘じゃない。その証拠に私、あなたが真名を知らないっってこと、知ってるもの」


 真名を知る――今となっては彼の唯一の頼みすらも否定されて、琅藍ろうらんの瞳がよろよろとすいを見返す。


「何を言うか。私は確かに……」

「だって私が真名を知らないのに、私に創り出されたあなたが知るはずがない」


 思考を迷走させる男の眼差しに、もはや引き込まれるような深みは感じられなかった。彼の虚ろな瞳は少女の胸に微かな痛痒を招いたが、すいもこの期に及んで今さら口を閉じるつもりはなかった。


 腰に当てていた両手から、つと右手を前に突き出して、すいは指先を琅藍ろうらんの顔に向ける。


「あなたが真名と信じるものは、偽りの真名よ」


 絶句する琅藍ろうらんから、反論の言葉はない。


 代わりにその口から漏れ聞こえるのは、すすり泣きにも似た虚ろな笑い。


 琅藍ろうらんにしてみれば、それまで絶対的な創造主の座にあったはずが、すいに突き落とされて創造物に成り下がった思いだろう。もちろんすい自身には、創造主であることを主張するつもりなど毛頭ない。琅藍ろうらんにはこれ以上迷惑を振りまく前に、びょうに帰って欲しいと願うだけだ。


 しかし目に見えて肩を落とす琅藍ろうらんの姿には、さすがに憐憫の情も湧く。


 なんらか詫びの言葉のひとつでもかけるべきだろうか。そんなすいの思案は、琅藍ろうらんが次に口にしたひと言によって吹き飛んでしまった。


「お前の言う通り偽りかどうか、試してやろうではないか」

「なっ」


 聞き間違いではないかと、すいは己の耳を疑った。


 だが書架に長身を預けたまま、琅藍ろうらんの黒い顔に浮かんだ笑みは、明らかに理性を失っている。


「どのみちこの世界にはもう未練はない。ならばいっそ私自身の手で幕を引くのも一興だろう」

「何言ってるの。真名は偽りでも、本殿の仕掛けまでそうとは限らな……」


 思わず手を伸ばそうにも、彼女の指先が琅藍ろうらんに届くにはまだ遠かった。一歩二歩と踏み出したすいの目の前で、まるで悪戯の成功を誇るような琅藍ろうらんの笑顔には、その名を唱えることに一片の躊躇もない。


「目覚めよ、『こん』!」


 彼がそう叫んだ途端、すいの足下で何かが動く音がした。


 床下からだけではなかった。天井から壁から何か回転しているのかのように軋む音が最初は小さく、徐々に大きく響き渡って、彼らのいる書庫の中をやがて満たしていく。


「これはいったい何事だ」


 音の正体を突き止めようと周囲を見回す変翔へんしょうの口振りは、この期に及んでも相変わらず冷静だ。だがかつてのあるじの声など掻き消そうとでもするように、琅藍ろうらんの高笑いが耳障りに響く。


「どうだ、すい。これが世界の破滅の音だ! 私の勝ちだ!」


 琅藍ろうらんが勝利を確信した、そのとき。


 彼の足下の床板がばらりと開いた。


 まるで束ねられた物が一斉に解けるが如く、そこに生じたのはぽっかりとした穴。


 あっという間もない。琅藍ろうらんはその黒い顔に哄笑を張りつかせたまま、穴の中へと吸い込まれていった。


「スイ!」


 咄嗟に背後からキムに腕をつかまれたすいの、右足の下は何もない空間と化していた。渾身の力を込めたキムに引っ張られて、そのまますいは穴の縁に、尻餅をつくようにぺたんと腰を落とす。「ありがとう、キム」と口にした唇は、さすがに恐怖でわなないている。


 気がつけば辺りに響き渡っていた音の洪水は鳴り止んで、書庫の中には再び重苦しいほどの静寂が取り戻されている。


「あの野郎、どこ行った?」


 未だ腰を抜かしたままのすいの隣りで、四つん這いになって穴の中を覗き込んでいたせんが、そう言って首を捻った。


「どういうこと?」

「ここの下って、あの地底湖だろう。ほら、うっすら水面みなもが見えるけど、波紋も残ってない」


 せんに促されて、すいとキムもそろそろと穴の中を覗く。書庫から漏れるわずかな光以外にも、最下層に灯る明かりに微かに照らし出される湖水の表情は、暗く静かで波ひとつない。


「……そういえば水音もしなかったね」


 縁に這いつくばるようにしてこわごわと穴の中を覗き込みながら、キムが隣りのすいの顔を見る。


 キムの言葉に振り返りもせず、穴底の地底湖を凝視するすいの横顔によぎるのは緊張と、そして少しの安堵であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る