第五話 神獣の真名

「こんなものは『大洋伝』の結末ではない」


 せんの膂力を撥ねつけるのに、よほど無茶をしたのだろうか。頭巾はとうに引き剥がされて、微細に編み込まれた長い黒髪が乱れて額から垂れ落ち、その下には黒い肌に覆われた端整な顔立ちを剥き出しになっている。


 だがすいが思わず後退ったのは、整っているはずの琅藍ろうらんの顔かたちが、大きく引き攣れて歪んで見えたためであった。


「名無しの娘よ、その本はお前には過ぎたるものだ」


 琅藍ろうらんの大きなてのひらが、そう言ってぬっと差し出される。その仕草に禍々しさを感じて、すいはさらに後ろに下がりながらも、彼に言い返さないではいられない。


「だからすいだって言ってるでしょう!」

「お前の名前など知ったことか!」


 苛立ちを隠そうともせずに、琅藍ろうらんは長身をよろめかせながらも前に出る。すいも『創世始記』を脇に抱えながら、彼に合わせるように後退する。じりじりと間合いを保ったまま睨み合いを続けるふたりに、不意に聞き慣れた声が届いた。


「気をつけろ、すい! そいつ、刃物を持ってやがる!」


 それは琅藍ろうらんの後を追いかけてきたせんの声であった。すいが瞳だけを動かして視界の端に認めたせんの頬には、鮮やかな切り傷から赤い血が幾筋も滴っている。うわぎの両腕も赤く染まっていることを確かめて、再びすいが視線を目の前に戻せば、琅藍ろうらんが舌打ちと共に小刀を取り出したところだった。


「私もこういう荒事は慣れていない。下手な傷を負う前に、その本を寄越せ」


 右手に小刀を持ったまま、左手を突き出す琅藍ろうらんを前に、さすがにすいも青ざめる。


 キムもせん琅藍ろうらんの小刀が危なくて、迂闊に動けない。


 何かないかとすいは顔を振って周囲に視線を巡らせる。その目が、彼女の背後の柱に取りつけられた蝋燭の明かりを捉えた。


 すいが思わず笑みを浮かべたのと、それを見て琅藍ろうらんの顔が絶望に染まったのは、ほぼ同時のことであった。


「こんなもんは、こうよ!」


 その言葉を言い終えないうちに、すいは手の内の『創世始記』を蝋燭の火に向かって突き出した。


 心許ない程度の明かりを放っていた火だが、長年を経て劣化した書物を燃やし尽くすには十分であった。今にも崩れ落ちそうな表紙に明るい炎が燃え移ったかと思うと、その火は瞬く間に本全体に広がっていく。


「熱っ!」


 小さな炎の固まりとなった本を投げ出したすいを、鬼のような形相の琅藍ろうらんが突き飛ばした。そのまま書架に背中を打ちつけて、その上に棚から零れ落ちた書物が降りかかる。駆け寄ったキムに抱き起こされたすいが目にしたのは、かつて『創世始記』だったものの灰を必死に掻き集めようとする、琅藍ろうらんの姿であった。


「なんということを……」


 床板の上に四つん這いになりながら、わずかに燃え残った『創世始記』の名残に視線を落とす琅藍ろうらんは、それ以上は絶句して二の句が継げない。


 微動だにしない琅藍ろうらんを囲んで見下ろす四人の中から、最初に足を踏み出して声をかけたのは、キムであった。


「ローラン。あなたが読んだ『大洋伝』は、今をもって書き換えられたわ。それも私ではなく、スイによって」


 顔を伏せたままの琅藍ろうらんに向かって、キムは努めて穏やかな口調で語りかける。


「『大洋伝』に記載のない、あなたが存在を認めなかったスイだからこそ、そんなことが可能だったの。この世界は、この世界の住人自身の手によって、『大洋伝』から解き放たれたのよ」


 だが琅藍ろうらんはなおも動き出そうとせず、その目が見つめるのは灰の山か書庫の床板なのかも定かではない。それ以上かけるべき言葉が出ないキムに代わって口を開いたのは、それまで一連のやり取りを無言で眺めていた変翔へんしょうであった。


琅藍ろうらん、お前が儂を利用すべく近づいてきたことは、最初からわかっていた」


 彼のその言葉に、琅藍ろうらんの大きな肩がぴくりと震えた。しかし未だ這いつくばったままの背中に向けて、変翔へんしょうの言葉が滾々こんこんと降り注がれる。


「それは良い。真意がよそにあると知りながら、お前の策を採用し続けたこの儂もまた同じこと。だが儂は目的を果たすことかなわず、どうやらお前の目論見も外れたからには、諦めて別の道を探すのだ」


 変翔へんしょうの言い様は平板で抑揚に欠けたが、その内容は失意の琅藍ろうらんをなだめるとも諭すとも聞き取れた。果たしてその意図が伝わったのだろうか。琅藍ろうらんの肩が徐々に大きく震え出す。


 やがてすいたちの耳に這い入るように届いたのは、喉の奥底から絞り出されたかの如く漏れ出す、乾いた笑いであった。 


「別の道だと? 私が『大洋伝』の結末を実現するためにどれほど奔走したか、その苦労が貴様にわかるものか」


 掠れた笑い声と共に、琅藍ろうらんはようやくその場から立ち上がる。黒い顔の中で目ばかりを血走らせた彼の姿は、明らかに箍が外れた者が見せる狂気に満ちていた。


「貴様は『大洋伝』の結末をねじ曲げた」


 睨みつけるだけでは飽き足らないかのように、琅藍ろうらんは震える指先をすいに向けて指し示す。


変翔へんしょうの口から神獣の真名が唱えられて、この世界は正しく破滅する。それがあるべき結末だったというのに、お前のような名も無き存在に狂わされることを、私は認めん」

「この世界に暮らす私が、なんでおとなしく世界の破滅を待たなきゃならないの」


 だが琅藍ろうらんの幽鬼の如き眼差しを、すいの瞳もまた純粋な怒りを湛えて撥ね返す。


「だいたいあなた、この世界の作者でもなんでもないじゃない。『大洋伝』の読者だというなら黒幕気取るような真似しないで、おとなしく傍観していれば良かったのよ」

「黒幕気取りだと……」


 挑発的なすいの言葉に、琅藍ろうらんは今にも牙を剥きそうな勢いで顔を突き出そうとして――だが不意に動きを止めた。


「見下されたものだな。だがお前の言う通りだ。私は『大洋伝』を熟知している」


 それまですいの顔に噛みつかんばかりだった琅藍ろうらんが、いつの間にか彼女に迫ることをやめて、その顔には冷静な態度を取り戻している。彼の変化に戸惑うすいが訝しげに眉をひそめると、琅藍ろうらんは途端に満面に歪んだ笑みを浮かべてみせた。


「それはつまり、『大洋伝』に記された神獣の真名を、当然私も知っているということだ」

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