第五話 この世の記憶

「町中が『金髪の女』の噂で持ちきりだぞ」


 ごつごつとした指先で豊かな顎髭を撫でながら、飛禄ひろくは渋い顔を見せた。


「天女様に町を案内するのはまだいい。だがそれなら細心の注意を払うべきだった」

「……ごめんなさい」


 飛家の屋敷の、広々とした居間の中央に鎮座する立派な卓。食膳にも使用される、豪奢な飾り付けが施された卓の上座には腕組みした飛禄ひろくが、対する下座にはすいが恐縮の体で腰掛けていた。


 すいの両脇にはそれぞれせんとキムが、これも肩を落として着席している。


 三人とも、キムの金髪が露見してその後の騒ぎについて、飛禄ひろくに問い質されているところだ。


せん、お前がついていながら何をやっとるんだ」

「面目ないです」


 飛禄ひろくに詰られて一層頭を低くするせんを、キムが庇い立てするように腰を浮かす。


「ヒロク様、スイもセンも何も悪くはありません。あれは私の不注意で」

「仰る通りです。天女様も軽率な振る舞いは慎んで頂きたい」


 賓客たる天女が相手でも飛禄ひろくは容赦がない。上げかけた腰を下ろして、キムもまた申し訳なさそうに肩をすぼめた。


 三者三様に反省しているらしい様子を見て、飛禄ひろくは口を引き結んだままふんと頷く。


「いずれにせよ噂が落ち着くまで、天女様には外出をお控え頂きたい」

「……はい」

すい、お前は天女様にくれぐれも不自由なきよう、しっかりお世話しろ」


 要はふたり揃ってしばらく屋敷に閉じこもっていろという沙汰を下して、飛禄ひろくが椅子から立ち上がる。ひとりなんの処断も下されなかったせんが「あの、俺は」と尋ねると、飛禄ひろくのぎょろりとした大きな眼が睨み返した。


「お前は今からわしと一緒に来い。吐くまでこき使ってやるから覚悟しろ」


 せんはひいと震え上がりながら、部屋を出る飛禄ひろくの後を慌てて追いかける。そして居間にはすいとキムのふたりが取り残された。


「私のせいでごめんなさい、スイ。センにも悪いことしたわ」


 すっかり意気消沈した様子のキムに、すいはにっと白い歯を見せた。


「大丈夫。閉じこもってろってのは仕方ないけど、あれはお父様なりの気遣いよ。ほら、お母様のやり方だとキムも窮屈でしょう。だから代わりに私が相手しろってこと」

「そうなの?」

「まあ、せんが死ぬほど働かされるのは、多分本当だろうけど」


 そう言うとすいは下女を呼び、茶を二人分用意するよう申しつけた。


「あのお店じゃ結局飲み損ねちゃったからね。仕切り直しましょう」


 やがてふたりの前に差し出された湯飲みに、茶壺から淹れ立ての茶が注がれる。一見したところ飴色の液体から、湯気と共に匂い立つ得も言われぬ香りに、キムは思わず鼻腔を膨らませた。


さんから取り寄せた、ちょっと珍しい作り方したお茶なの。どうぞ召し上がれ」


 確かあの店では、すいは湯飲みを抱えるようにして持ち上げていた。そのことを思い出しながらキムが湯飲みに口をつける。ふうふうと熱を冷ましつつ口に含み、少しずつ喉に流し込みながら、キムの目は徐々に見開かれていった。


「癖もないし、飲みやすいと思うんだけど、どう?」


 すいはキムの表情の変化を楽しむように、彼女の顔を覗き込む。

 きっと爽やかな風味に感動したのだろうというすいの推量は、だが的外れであった。


「この味、なんだか覚えがある……」


 それはキム自身が未だ全容を思い出せないでいる記憶の端が、味覚を通じて一瞬呼び起こされる――そんな味わいであった。


「ええ?」


 その言葉に、今度はすいが目を丸くする。


「でもこれ、まだ町中にも出回ってない、お父様が個人的に仕入れた奴だよ」

「これってもしかして、緑茶を思い切り発酵させた奴じゃない?」

「そんなことまでわかるの?」


 その問いに頷くことも首を振ることもなく、キムは湯飲みの中に視線を落とした。無言で茶を見つめるキムの横顔を眺めているうちに、すいはひとつの可能性に思い当たる。


「ひょっとして、元いた世界のこと、なんか思い出した?」

「ううん、いや、それもそうなんだけど」


 キムは躊躇いがちに首を振り、そして一言ずつ言葉を選ぶように答えた。


「もしかして私、のこと、知ってるかもしれない」


 ***


びょう遊紀』には、この世界に伝わる異世界『びょう』に関する様々な伝承が書き記されている。


 いわく、そこは昼なお暗い鬱蒼とした森に覆われ尽くした世界である。


 いわく、森の中にはこの世とも思えない芳醇な果物に溢れ、同時に見たこともない獣たちが我が物顔で闊歩している。


 いわく、そこに住まう人々は大木の間に住処を築き、獣たちにも負けないよう様々な異能を鍛えながら暮らしている――


「少なくともここに書いてあるような世界は、私の記憶にはないなあ。私がビョウの住人って可能性はなさそうよ」


 両手の中に書物を開いたまま、キムはそう言って顔を上げた。


「でも確かに興味がそそられる、なんだか幻想的な世界ね。スイが一度は見てみたいって言うのもわかる」

「キムもそう思う?」


 すいはキムの感想にいたく満足げだ。その顔を見てくすりと笑ってから、キムは再び紙面に目を向けた。


「作者の琅藍が様々に歩き回ったびょうという世界を書き記した、という形式なのね」

「実際は色々と伝わるびょうにまつわる話を、直に見たように書いただけだけどね。びょうが本当にあるかどうかはわからないけど、もしあるならいつか本当に見て回ってみたいなあ」


 未知の世界に想いを馳せるすいに、キムは何か思うところがあるかのようにゆっくりと告げた。


「……こういう感じの物語、私も書いたことがある」

「へえ?」


 すいは軽く目を見開いて、興味深げにキムの顔を見返した。


「こういう感じってことは、びょうみたいな異世界を旅する話ってこと?」

「どっちかっていうと歴史絵巻みたいな感じかな。なんとなく覚えてる」


 そう語り出したキムの表情は、それまでの穏やかな笑顔に代わっていささか神妙であった。


「その世界は海に囲まれた、たくさんの島から成り立っているの。それぞれの島の住人は、船を駆ってあちこちを行き来している。たくさんの人や物が往来して互いに取引したり、時には争うこともあったりして」

「それだけ聞くと、まるでこの世界みたいね」


 すいが何気なく呟いた一言に、キムがはっとしたように振り返る。その瑠璃色の瞳に浮かんだ表情がやけに思い詰めていたので、すいは誤魔化すように笑ってみせた。


「いや、冗談だよ」

「ううん、あなたの言う通りなの」


 キムはこれまでにない真剣な面持ちで、すいの目を見つめ返してきた。


「物語の舞台は、リン。南のビンに属しながら北のゲンや遠いサンとも交流が盛んで、イツやそのほかの島々とも強かに渡り合う、海運で栄える島」

「ちょっと、ちょっと待って」


 驚いて良いものか、それとも呆れるべきなのか。キムの言葉を遮ったすいの言葉は当惑に満ちていた。


「それじゃこの世界みたいどころじゃない、この世界そっくりだよ」

「そうなのよ、スイ。そっくりなのよ!」


 そしてキムはすいの肩を両手でつかみ、ぐいと顔を近づける。


「小餅も燦のお茶も、私は自分の頭の中で想像したんだと思ってた。でももしかすると、この世界のことを夢かなんかで知って、それを物語として書き起こしたのかもしれない。この世界の言葉も文字も理解出来ることがずっと不思議だったけど、きっと知らぬ間に頭に叩き込まれてたんだわ」


 すいの身体を前後に揺すりながらそう口にするキムの顔は、いつの間にか白い頬がやや上気している。どうやら彼女はここまで、興奮を抑え込んでいたらしい。だがいよいよ込み上げてきたのだろう感動に突き動かされて、キムは早口で捲し立てた。


「あなたがビョウに憧れるのと同じ、私もずっと憧れてたの。いつかこんな世界を訪れてみたいって。だからわかるでしょう? もしかしたら私は、その夢が叶ったのかもしれない!」


 そう言うとキムは今度はすいを突き放し、かと思うと両の手を握り締めて目を輝かせている。呆気にとられたすいには口を挟む暇もない。


「信じられない。ずっと夢に見てきた世界に、今こうしているなんて! ああ、でもしばらく外には出られないのよね。私ったらなんてもったいないことを!」


 キムはひとりで喜んだり落ち込んだりと忙しい。なるほど彼女の言う通りであれば、その興奮ぶりも理解出来る。というよりもそれが本当なのだとしたら、すいには正直なところ羨ましい。


 しばし唖然としながらキムの一喜一憂を眺めていたすいは、やがてふと思いついたことを尋ねてみた。


「ねえ、キム。その物語に私は出て来ないの?」


 するとキムはようやく動きを止めて、すいの顔を見返した。


「私って、スイのこと?」

「そうだよ。飛家の娘とか飛翠ひすいとか、なんでもいいけど、私の名前って出てくる?」

「どうだったかなあ、うーん」


 記憶を探るように額に指を当てていたキムは、やがて申し訳なさそうに答えた。


「ごめん、覚えてない」


 どうやら彼女の記憶は、まだまだ完全に取り戻せたわけではないらしい。「なんだあ、つまんないの」とため息混じりの言葉を吐き出したすいは、だからキムの、ほとんど独り言のような言葉を聞き逃した。


「あの話、確か天女が現れたとこから始まるのよね……」

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