第六話 島主

「きっとがくがいたら、キムの話にも喜んで食いついたと思う」


 すいとキムが揃って謹慎生活を過ごす間、ふたりはもっぱらすいの私室にこもり切りであった。その間ふたりがいったい何に興じていたかといえば、キムがかつて書き上げたという物語の全容を解明することに没頭していた。


がくはあっちこっちに船で行く度に、びょうに関する噂話を掻き集めてくれたの。私がねだったからっていうのもあるけど、あいつ自身がそういう話が大好きだったから」

「そういう人なら、確かに私の話も笑わないで聞いてくれそう」

「船乗りになったのだって、色んな国を見て回りたいからって言ってたし」


 床の敷物の上に腰を下ろしたふたりは今、周りを山ほどの書物に囲まれている。飛家の屋敷中の書物を集めたのは、キムの記憶にある物語とこの世界がどれほど一致しているものか、確認するためであった。


「飛家はどこら辺まで取引があるの?」


 ふたりの間に広げられているのは、すい飛禄ひろくの部屋からこっそり拝借してきたという地図だ。キムに尋ねられて、すいは地図の上から下までをすっと人差し指で撫でた。


「この、げんのある大きな北の島から、内海を挟んでびんさんのある南の大陸の端から端まで、全部行ったことがある――らしいよ」

「どれぐらいの距離なのかはわからないけど、それにしても凄いわね」

「本当か嘘かはわかんない。なにしろ船乗りは一を百ぐらいに膨らませて話すからって、お父様自身がそう言ってたし」


 すいの台詞に笑いながら、キムは改めて地図に視線を落とす。そこにあるのは彼女が書いた物語の舞台を、そのままそっくり描き出したものといってよい。彼女が今いるりんをはじめとしてげんびんさんいつ、その他大小様々な国や町の名前が、この地図には余すことなく書き記されている。


「ここがビンの都リョウで、そして……」


 キムの白い指先は地図の上をつと動いて、南の大陸の中央に近い、びんさんの国境のあたりにある地名の上で止まった。


「この町って確か……」


 キムが指差した先を見て、すいの瞳が一瞬動きを止める。


耀ようね」

「町、じゃない。国だったっけ」

「そこまでわかってるならキム、あなたが書いたって物語は、やっぱりこの世界のことだよ」


 地図とキムの顔の間で視線を何度も往復させながら、すいの口調からは興奮が隠せない。


耀ようは、かつてこの世界を支配していたという最古の国よ」

「ああ、なんか覚えてるわ」


 キムは頷きながら、その唇からすいの説明を補足する言葉が紡がれる。


「今でこそビンの保護下にあるけど、未だに世界中の尊敬を集めてる……確か大きな祭殿があって、参詣に訪れる人も多い」

「私も小さい頃、一度だけお父様に連れてもらったことがあるわ」


 そしてすいは地図の上に両手を突いて、キムに向かってずいと顔を突き出した。


「ねえ、キム。ここまで来たらもう、後はあなたが書いたっていうその物語を思い出すだけだよ!」

「そうだよねえ」


 すいに迫られながら、キムは困ったように苦笑を浮かべる。


「ただ、こうして色んな書物を読ませてもらって、それにつられてなんとかって感じだから。元いた世界のことなんて、未だにぼんやりだし」

「物語のこと思い出せば、元の世界のことも自然に思い出せるんじゃない?」

「書いてたときの思い出とかにつられてってことはありそうね。でも」


 キムは周囲に広げられたり山積みになった書物を眺め回しながら、ふうと小さく息を吐き出した。


「ここに集めてもらった本は一応全部目を通したつもりだけど、全部思い出すにはまだ足りないみたい」

「駄目かあ」

「物語の舞台はまさに今頃のこの世界よ。色々読ませてもらって、そこら辺は思い出してきた。この世界の歴史がリンを中心に大きく動き出す……多分そんな話」

りんがこの世界の歴史を動かすねえ」


 すいは釈然としない面持ちでキムの言葉を反芻した。りんは確かに海運で鳴らす有数の島ではあるが、世界を動かすほどの影響力があるかといえば疑問符がつく。少なくとも今までのこの世界の歴史で、それほど重要な役割を担ったことはなかったと思う。


「あとは物語に登場する人名とかわかれば、さらに思い出せると思う」


 飛家にある書物といえば地理関係に特化したものばかりで、ほかには帳簿などの家業関連ぐらいしかない。すいが個人的に取り寄せた書物もあるが、どれも創作ばかりでこの世界を説明する内容ではない。


「この世界の歴史を著したもの、史書なら人名もたくさん出てくるでしょう。そこに繫がる人とか、きっと登場人物にいたはず」

「史書かあ。そういうのは多分うちにはないなあ。島主様の屋形ならたくさんありそうだけど」

「島主様?」

「このりんで、一番偉い人だよ」


 すいの言葉を受けて、キムは口元に手を当てながら、少しばかり考え込むような顔を見せた。


「その島主様の屋形って、お邪魔することって出来ないかなあ」

「……なんかキム、だんだん私と考え方似てきてない?」


 キムの突拍子もない考えを聞いて、今度はすいが苦笑する番であった。


「お父様は何度かお目通りしているけど、さすがに史書を見せて下さいって願い出ても、はいそうですかとは言ってくれないと思うよ」

「それもそうか」


 行き詰まりを感じて、すいとキムは互いに顔を見合わせる。さてこれからどうするべきだろう。


「とりあえずひと休みしましょうか。例のさんのお茶でも用意させる? またなんか思い出せるかもしれないし」


 すいの魅力的な提案にキムが頷きかけて――ふたりはそろって眉根をひそめた。


 わざわざ耳を澄ませるまでもない。部屋の外でどすどすという慌ただしい足音が響き渡っている。その音が徐々にはっきりと聞こえてくるから、察するに足音の主はふたりがいるすいの部屋へと真っすぐに向かっているらしい。


 やがて部屋の襖が勢いよく開け放たれると同時に現れたのは、髭面にがっしりとした体躯の飛禄ひろくの姿であった。


「おお、天女様。こちらにいらっしゃいましたか」


 飛禄ひろくは娘を一顧だにせず、キムにばかり視線を注ぎながら告げた。


「今すぐにお支度なさって下さい。噂の天女様に是非お目にかかりたいと、島主様の思し召しです」


 ***


 島主の屋形は、りんの島の港町を見下ろすことの出来る高台にあった。


 庶民の賑やかな生活を反映するように猥雑とも華美とも言える港町の家屋に比べて、島主の屋形は装飾を最小限にとどめた、質実剛健な趣きで統一されている。


 決して人を寄せつけない厳しさではないが、門をくぐればえりを正さずにはいられない。十分な権威を漂わせる屋形に足を踏み入れて、キムは我知らず背筋を伸ばしていた。


 下ろしっぱなしだった金髪を慌てて左右の二つ髷に結い、すいの母が見立てた上等な絹地のはおり裙子スカートを身にまとったキムの姿は、屋形の住人たちにもやはり物珍しいようだ。飛禄ひろくの後に従うキムとすれ違う度に、ため息やらひそひそという囁き声が漏れ聞こえる。町中で金髪を晒してしまった結果がこんなことになろうとは。緊張感を押し隠しようもないまま、キムは島主との謁見の間に通された。


 飛禄ひろくの斜め後ろに座らされたキムは、とるものもとりあえず彼に倣って正座し、両袖を前に高く掲げながらその間に顔を埋めてみる。その振る舞いは辛うじて礼にかなっていたらしく、幸いにも島主が現れるまで咎められることはなかった。


「ふたりとも、おもてを上げろ」


 上座から響き渡ったその声には、屋形に違わぬ重厚な重々しさと、一方で思いがけない若々しさがある。キムはその言葉に従って、そっと目線だけを袖の陰から上げた。


 キムたちが伏す床から一段上がったところに、島主用の豪奢な椅子がある。そこに腰掛けるのは、想像したよりも年若な青年の姿であった。


 うわぎの上からも窺える逞しい体躯は、長年海の男として鍛えた飛禄ひろくにも劣らないであろう。その上にある四角い顔立ちの中には、強固な意志を示す太い眉と、切れ長の目が覗く。真っ直ぐに通った鼻筋の下で大きな口の端が微かに持ち上げられて、頭の上に貴人用の冠を被っていなければ、港町に溢れる血気盛んな若者に間違えられそうな面持ちだ。


飛禄ひろく、しばらく顔を見せぬ間に儂に内緒で天女を囲っていたとは。随分と水臭いではないか」


 冷やかすような口調の島主に、飛禄ひろくは一度上げた面を恐縮して伏せてみせた。


「これはお戯れを。この飛禄ひろく、島主様に隠し立てをするつもりなど毛頭ございません。ただこの者が果たして世に伝わる天女か否か、見極めた上で参上するつもりでございました」


 飛禄ひろくに振り返られて、キムもまた恐れ入りながら再び面を伏せる。島主は「ふん」とだけ口にすると、今度はキムに向かって声を掛けた。


「そこの天女、遠慮するな。もっと顔をよく見せろ」


 そう促されては顔を上げないわけにはいかない。今一度、今度は両腕を心持ち下げて、顔がはっきり見えるように島主を仰ぎ見た。対する島主は椅子からやや身を乗り出すようにして、キムの見目に無遠慮な視線を投げかける。


「ほう、本当に金髪碧眼なのだな。初めて見たぞ。天女、名をなんという」

「き、キムと申します」

「キムか、ふむ」


 島主は一瞬考え込むように瞼を伏せたが、すぐにまたぱっと見開いて顔を上げた。


「儂は上紐恕じょうちゅうじょ、このりんの島の島主だ」


 その名を聞いて、キムはすぐに反応することが出来なかった。だが上紐恕じょうちゅうじょはキムの無言を意に介さず、あっけらかんとした口調で告げた。


「キム、お前は今日からこの屋形に出仕せよ。良いな、飛禄ひろく


 こうなることを既に予期していたのだろう。飛禄ひろくは頭を垂れながら、上紐恕じょうちゅうじょの指示に異を唱えない。自分を置いてけぼりにしたまま、急激な状況の変化が迫っていることに、キムはなんと答えて良いかもわからない。


 だが実のところ、キムの戸惑いはもっと別のところにあった。そのために上紐恕じょうちゅうじょの言うことも、話半分に聞き逃しかけたほどである。


 上紐恕じょうちゅうじょという名は、キムが書いた物語の主人公の名前そのものであった。

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