横浜みたいな所。それが私が感じた神戸の第一印象だった。彼が大学時代を過ごしたという関西の街に今、初めて来ていた。私は東京生まれだから、関西は大阪と京都にしか行ったことがない。行ったことのある友達から、横浜に似た所だよ、とは聞いていたけど、実際に行ってみると、横浜よりも全体的にこじんまりとした街のように思えた。彼がお世話になった教授の主催する学会発表の手伝いのために、私達はここに来た。旅行も兼ねて私も付いて来ればいい、と彼に言われたからそうした。

品川から新幹線に乗って、新神戸で降りて、電車に乗り換えてここまでやって来た。ここは彼の大学の最寄りで、三宮という所なのだという。駅から南に中華街、北に行けば坂を上った所に外国人居留地がある。中華街には午前中立ち寄った。横浜のミニチュアのような街だが、細部には独自性があって、小さいけれど油断ならない、したたかな街という印象を抱いた。

教授に仕事用の資料を渡しそびれたからここでちょっと待ってて、と彼は言った。大学までもう一度戻ったのだろうか。私が残されたのは神戸ハーバーランドという観光地だ。神戸では人気の観光地なのだという。近代的な港を模した一角にショッピングモール、映画館、海産物専門のレストランや輸入雑貨のショップが集められている。地元のデートスポットでもあるのか、建物の周りのウッドデッキには、ベンチがやたらと多かった。

私はそのベンチの一つに座っていた。正面には、白い鋼鉄の手すりが広がっていた。この一角をぐるりと囲むように設置された手すり。手すりの向こう側には、群青色の海が広がっている。

初春の快晴の空の下で、海風が私の頬を撫でる。磯の香りが風に乗って香って来る。遠くでカモメみたいな鳥の鳴き声がする。どの辺で飛んでるんだろう、もっと近くで見たい。そう思った。彼が脱いでいったコートとお土産の紙袋をそのままにして、ベンチから立ち上がり、手すりの方に走った。

手すりを掴んで空を見上げると、白い鳥の一群が白い半円形の形をしたホテルのような建物の上を飛んでいた。キュウ、キュウと切なげな声で鳴く。人の心を持っているみたいだ、と思うと、鳥に自分を重ねてしまって胸が痛み出した。心の中で声がする。ここが横浜だったら良かったのに。これが夢であればいいのに。海風は私の頬を撫で続ける。知らない土地の知らない風に慰められていた。思わず空に向かって手を伸ばした。


「お待たせ」


振り向くと、彼が笑顔で立っていた。ここ気持ちいいでしょう、とリラックスした声で言い、私の左隣にやって来て手すりを掴む。恥ずかしくなった私は空に伸ばしていた手を慌てて引っ込めて、再び手すりを掴んだ。彼は大きく伸びをした。この、彼にとっては思い出の場所らしい、平和な観光地の空気を心から味わうかのような大きな伸びだった。本当に気持ちよさそう。一仕事終わってほっとしているのだろう。ここの所忙しかったからか、彼は新幹線でもずっと眠っていた。私は窓から外の景色を眺めて過ごしていた。機内販売で早めの昼食を買い、ペットボトルの冷たいお茶を彼の頬に押し付けて起こした時以外は、一言も口を利かなかった。


「懐かしいな、ほんと懐かしい」


彼は目を細めると、心の底から幸せそうに、言った。恐らく、彼にとってこの光景は神戸という街の象徴なのだ。学生時代の思い出の場所でもあるから、この光景の全てが愛しいのだろう。あの人とも何度もここに来たのかもしれない。午前中に新しい場所を訪れる度にそう思った。新しい場所を見るたびに胸を締め付けられる感じを覚えたこともあった。が、不思議とこの場所だけはそうならなかった。鳥のせいだろうか。でも私が感じられるものだけが全てじゃない、彼の心の中には、今までに見た場所の全てに彼女の姿があるのだろう。「そんなに懐かしい?」と聞くと、彼は目を閉じたまま深く頷いた。私が入る隙間も無い感傷の中に彼はいるようだった。やっぱり聞かなきゃよかった、と思った。


「海がきれいな所ね」

「うん、もう少し西の方に須磨っていう所があって、そこでは夏になると泳げるよ。また夏に来ようか」

「いい、泳げないから」

「嘘、子どもの頃水泳得意だったって言ってたじゃん」

「もう泳げないよ。子どもの頃の話だもん」


私は自分が水着を着て、海に行った所を想像してみた。照りつける太陽の下に水着姿でいる私。小麦色の肌。白いままの肌。ビキニの水着の所だけ白く残った肌。それを海から帰った後で毎晩、彼に見せる。彼は私の身体を通して、海の思い出を何度も味わう。何だこれ、と心の中で毒づいた。いやらしい。おかしい。ただそれだけだ。

あなたがどう思っていたとしても、今の私はこう思うの。私がこう思うってだけで十分だよ。それだけでもう、十分すぎる。


堪らず彼の右手に腕を絡めた。彼は目を閉じたままの姿勢で、動かない。空しいと思っていても、彼に腕を押し付けた。

私はもう諦めているのかもしれない。自分が22歳で人生を諦めるなんて、まさかそんなことになるなんて思わなかった。でも私は今、深い井戸の中でずっと暮らす気分になっている。

…井戸なんて言ったらひどいね。水槽だよね。きちんと管理された水槽。天井から明るい蛍光灯の光が降り注ぐ、清潔な水が規則的に循環する水槽。水槽は今、目の前に広がっている海みたいに広い。あなたは水槽越しに私を見てくれる。仕事が終わったらいつも私の傍にいてくれる。それは分かるけど、私の水槽で一緒に泳いではくれないよね。だって、そんなこと出来ないもの。そもそもの立場が違うし、あなたがそんなことをしたら、私達の生活なんて簡単に崩壊してしまうよね。

私はあなた以外の人になんか全然興味ない。あなただけの愛が欲しいの。でもそれが叶っても、息苦しくなるのはなぜ?それは私が魚じゃないからよ。本当は魚じゃないから、この水槽では息がしづらいの。息継ぎをする時に、空を見上げると、泳ぎすぎた疲れが一気に出てきたみたいに軽い眩暈がして、その後で今にも倒れそうな、糸が切れたような気分になるの。


ねえ、帆純。それでもあなたが好きなの。あなたのためにこうしたこと、後悔してない。だから、こっち向いて。

お願い。


彼は、とっくに目を開けていた。いつの間に現れたのか、私達の目の前を遊覧船が静かに横切っていた。歓声も何もしなかったから、私はそれが現れたことすら気づかなかった。遊園地のアトラクションさながらの装飾が施された遊覧船。デッキには、私達の掴む柵を模したような白い柵があった。その柵に足を掛けて、景色を眺めている女の子がいた。背丈からして小学校高学年位だろうか。遊覧船は数秒差で私の眼前を通り過ぎた所らしく、今は私の視界の左脇にあった。白っぽい服装のようだったが、女の子の顔や服装は私の角度からは良く見えなかった。

女の子は彼の正面に来ていた。彼は視線を逸らさなかった。女の子をじっと観察しているようだった。

不意に、私の視界に若い男の子が飛び込んで来た。紺のセットアップを着た、モデルみたいな男の子だった。メンズ雑誌の表紙のような恰好をした、目立つ子。センター分けの黒髪で、大きなレンズの細フレームの眼鏡を掛けている。左手に持ったスマホの画面をちらちらと見ながら、デッキを小走りに駆け抜けて行った。さっきの女の子の隣に陣取る。年の離れた兄妹だろうか、親戚だろうか。男の子は見た目に反して面倒見の良い子のようで、女の子の頭を時折撫でていた。

彼は女の子から目を逸らし、再び空を見ていた。もう興味を失ってしまったようだった。


「子ども好きなの?」

「うん、好きだよ……なんで?」

「さっきの子、じっと見てたから」


彼はばれたか、と言って、いたずらっぽい笑みを浮かべた。私はずっと心の中で温めていた言葉を口に出すことにした。今なら息を吐くように言える。この選択は正しいのだろうか。でも、私はもう言えない。今じゃなきゃもう言えない。


「帆純、子供、作ろっか。子供欲しい」


ごおっ、と海風が吹いた。

彼は通り過ぎる風に微笑み掛けていた。

あの時、はっきりと分かった。

帆純、その風は、あなたにとっては、風じゃないのね。


私は風に呼びかけた。

あんたが何者だとしても、もう、いい。

帆純以外のものは全部あげる。

私の心の中のもの、私が手に入れられるはずのもの、何もかもさらっていって。

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天の川星 明日見 慧 @bacd

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