けしかけたのは私の方だけど、あの日以来、彼は私のお尻を叩くのも癖になったようだった。私もお尻を叩かれたことなんて幼稚園の時に一回きりだったから、あの時は透明な手で頬を同時にぶたれたのと同じ位の衝撃が走ったのだけど、心の底では嫌ではなかったのだろう。時間が経つにつれて慣れが出てきて、皮肉なことに彼と遊ぶための新しいおもちゃが増えたような感覚に陥っていった。

ホテルでは、お尻の痺れの余韻が残った状態で服を着た。部屋を出る間際に、洗面所の鏡でお尻を見ると、真っ赤に腫れ上がっていた。

帰りの電車の中で座る度に、お尻の痺れが、記憶が蘇るように微かにぶり返して来た。彼と話をしていた途中にそれが来て、目を逸らしてしまったら感づかれた。開き直って、彼をそれとなく見つめたりしていると、彼は最初は澄ましていたけれど、そのうちバツの悪そうな顔になり、他愛ない話の合間に埋め合わせをするように繋いでいた指を絡めたり、私の腰をいたわるように引き寄せたりした。昼間、外で彼に抱かれた後は、彼に触られた所がずっと赤くなって熱を持っているような感じになる。そんな時は、熱が落ち着くまで、自分で自分の身体を抱きしめていたくなる。でもその熱を抱いたまま、私は何事も無かったような顔で昼間の私に戻らなければならない。


「綾といると、たまに、自分の知らない自分がいつの間にか出てくる感じになるんだよ」

「そうなんだ」

「綾は、そんなことないの?」

「私も、たまにある」


嘘。大嘘。自分の知らない自分なんかいないよ。あなたのために私はいつも狂ってる。あなたのために自分がおかしなことしてるって、いつも私、自覚してるよ。

私はあなたのことが大好きだけど、外で働いているあなたには、他に考えることがたくさんある。私のことをずっと考えてるわけにはいかないよね。だからあなたの愛を繋ぎ止めるために、私なりに考えて動いてるんだよ。本当はこうしないと、不安で仕方ないんだけど、そんなのあなたは知らないし、関係ないことだよね。


……でもね、最近なぜか昔を思い出すの。私、学生時代の最後にあなたと出会って、一度も社会で働くことのないまま、結婚したでしょう。あなたと出会った日、私は寝不足で、体調が悪かった。前日に選考中の企業の結果が一気に出て、就活の持ち駒が一つだけになって、全然寝付けなかったから。ダメ元だったとしてもこの会社の説明会には絶対参加しないとまた落とされるって思って、会議室の一番後ろの目立たない席に座ってスライドを見てた。遅れて入って来たあなたが、私の隣に座った。地域ごとの合同説明会だから文系も理系も一緒だったんだよね。途中ペアになって話し合いみたいなこともやらされたから、説明会が終わる頃には顔見知りみたいになった。京都から高速バスで来たんですって聞いた時は、びっくりしちゃった。なんでって。京都の説明会に大学院の都合で参加出来なかったって聞いたから、大変だなって思ったけど。あなた気さくで優しかった。周りの目を気にしてたのかなって思うけど、あの時は、ああいうのが、年上の余裕なのかな、ってちょっと思った。でもどんなに仲良くなっても、説明会だから大抵その場限りでさよなら、って感じになっちゃうよね。あなたの場合もそうなんだろうって思ってたけど、筆記用具や渡されたパンフレットの束をバッグに閉まっても、席を離れないから、変だなって思ってた。あなたが行かないと私は楽になれない。移動でバタバタして疲れてるだろうから早く帰ればいいのに、さっさと行けばいいのに、って思ったら、あなたがいつまでも動かないことにイライラしちゃって、席に座ったまま「じゃあ、さよなら」って目も合わせずに言った。声に怒りが滲み出ていたのが自分でも分かった。今までの演技が全部パーだよ。普段だったらあんな態度、誰に対しても絶対に言わない。でもあの時は言った。思い通りにしない態度を取るあなたに対して、変な意地が出て、嫌なやつだと思われてももう会わないだろうから別に構わないって思って言った。そしたらあなた一瞬目を伏せた後で、私の目を見据えて「大丈夫ですか?」って聞いた。バカにしてるのと思った私が「どういう意味ですか?」ってけんか腰に聞き返したら、ためらいがちに、顔色が悪いから、もしかしたら説明会の時からしんどかったのかなって思って、て。あっけに取られちゃった。全然知らない、ただ隣にいただけの他人なのにどうしてそんなこと気にするの、って。あなたにそんなこと関係ないじゃん、って言葉が後から湧いたけど、あの瞬間はそんなことを考える前に、何も言えなかった。本当は、あの言葉を聞いた瞬間に、負けたって思ったのかも。

こんなこと言うの悔しいけど、あなたってすごいね。遅刻してきたのに、あの後の選考も全然だめだったってLINEで言ってたのに、蓋を開けたらあの企業の内定すんなり取っちゃうんだもん。

でもたまに性格悪いよ。

あの時のデートでも、あなたは内定取ったことすぐに私に伝えなかったよね。私の就活の結果の話を先に振って、愚痴を聞き出すみたいにして。あれ、今でもひどいと思ってる。でも、全部いっぺんに解決する方法あるよ、って、ふと思いついたみたいに笑った時のあなたの顔、無邪気な子どもみたいで本当にかわいかった。今でも覚えている。一番好きなあなたの表情だよ。これからもずっとそう。


だからあなたが私に結婚しようと言ったのは、子どもみたいに一緒にいたいって純粋な気持ちからなんだって、信じてる。私に対する哀れみなんかじゃないって、信じてる。

でも、夢を見てしまうの。あなたの隣で寝ているのに、あなたの夢じゃなくて、外で一人で自由に駆け回ってる夢を見てしまうの。

ねえ、一つだけわがままを言ってもいい?あなたに守られている生活は好き。あなたの愛を繋ぎ止めるために、利口なペットを演じることが必要なら、それでも構わない。でも時々あなたの残像なしで、一人になってみたい。一人で外の空気が吸ってみたいの。あなたと出会う前みたいに。私が一人だった頃みたいに。


「最近忙しい?」

「うん、まあまあ」

「家帰ると、ぐったりしてるから」

「……そんなに疲れてる?俺」

「うん」

「……」

「……花とか好き?」

「……うん」

「どんな花が好き?」

「……好きな花は特にないけど、花なら大体好きだよ。嫌いな花が無いって感じ」

「……そう……あのね、駅前の花屋さんでね、アルバイト募集してた。余った花とかもらえるかもしれない」

「……花なら今は定額で届けてくれるサービスがあるらしいよ。それ使う?」

「……」


この話をした日、彼はソファーで定期購読している科学雑誌を読んでいた。この雑誌を読む時に話しかけるといつもこうだ。視線を雑誌に落としたまま、読みながら答えてる。

彼はここにはいつもおもしろいことが書いてあると言うけど、私は書いてあることが辛うじて理解出来ても、そのおもしろさを人に説明出来ない。

彼は私に向き直ると、こう言った。


「毎日家にいるの、しんどい?でも出来れば、俺は綾に家にいて欲しい。俺のわがままかもしれないけど、帰って来た時にいつもただいまって奥さんに言われたい。それに……綾みたいな子を一人で外に働きに出したら、こっちは色々心配になっちゃうよ」

「何それ……そんなことないよ。考えすぎ」

「でも俺は家にいて欲しいの。今は何でも家で出来ると思うよ。綾は家のことだけちゃんとやってくれればいいよ。空いた時間は自分のことに使えばいい」

「でも、共働きでもいいよ。家事も今までよりもっときちんとするから」


彼は面白い冗談を思いついたかのように、本当は綾が策士だから心配なの、と言って笑った。そんなごまかし方ってない。雑誌をソファーテーブルに置くと、そのまま私をソファーに呼んでキスをする。宥めるように私の顎下を撫でるのが、ごまかされているようで嫌だった。私が俯くと、「寂しいなら動物飼う?熱帯魚とか、花みたいできれいだよ」と笑う。熱帯魚なんかいらない、と呟くと、彼は苦笑した。子どもが駄々をこねていると思っているのだ。「私は、策がほとんど成功しない策士、でしょ?」と畳み掛けると、彼は、綾は自分の罠に自分で嵌って捕まって、縄でぐるぐる巻きにされてる所が一番かわいい、と言う。本当にそうなのかもしれない。でも一番は、早く続きが、したい。

彼の顎下をさっと撫でた後で、トイレ、と冷たく言うと、私は彼を押しのけた。その足で廊下に出て、突き当りの物置部屋に行く。そのまま入ると、内側から鍵を掛けた。

結婚してすぐの頃、同じような喧嘩をして外に出た時に、はっきりとは言わなかったが、彼は私を探さなかったようだ。喧嘩をした時に、私が実家や友達に頼るようなタイプではないことを彼はよく知っている。お金が無くなったら帰って来ると思っていたようだ。その通り。それが一番合理的な方法。それを知ってからは中で籠城することにした。結局、この方法が今は一番彼に効くのだ。ある意味、私がそう調教した。彼だって四六時中見張れるわけじゃない。ここだと、彼がトイレに行った隙に何でも取ってこれるし、捕まったとしても隙を付いて逃げられる。彼の心の弱り具合が、リアルタイムで分かるのもいい。前は6時間籠城した。今日は何時間になるだろうか。

部屋の隅に重ねてあるお客さん用の布団に寝転がって息をつく。心臓がバクバクしているのが恨めしかった。綾?綾ちゃん?私を探し始めたようだった。私を呼ぶ声が近づいて来てドアの前で止まる。「またここにいるの?」と勝ち気に呼びかける声がした。しばらくしたら猫なで声になって、後は一時間おき位に声を掛けるようになるのがいつものパターンだ。辛いのは彼だけじゃない。私だって辛いのだ。だって現に私は彼の声が恋しくなっている。でも、前にお互い一人でするのは辛いはずだよ、とドア越しに言われた時は、彼のしたり顔が勝手に頭の中に浮かんで、軽い殺意を抱いた。

……こんなことをしても、井の中の蛙だってこと、分かってる。本当は、心の底ではもう自覚している。私の居場所はもう外には無いということ。

心の底からバカみたいって、思う。でも分かってるからこそ、何もせずにはいられない。じっとしていたら、気が狂う。

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