第35話 すれ違い
僕は歩く。家に向かって真っ直ぐに。
寄り道をするわけでもなく、僕は刹那さんの家から自分の家に向かう帰路へと合流し、人気のない平日の住宅街を歩いていた。
「楓は今頃皆に囲まれている頃なのかな…」
昨日のように、道端にあった石ころを適当に蹴り上げながらぼそりと言う。
ひとりただ歩いている自分とは対照的に、彼女はきっと今日も立派に学校の人気者の役割を果たしていることだろう。
そこに恋人である僕がいなくても、なんの問題もないことは分かりきってる。
むしろ周りの生徒からすればひどく好都合であるはずだ。
学園のアイドルが誰のものでもない時間を共有できるというのは、あの学校なら誰もが望んでいることなのだから。
「そう考えると、僕の居場所って…」
いったい、どこなんだろう。
少なくとも学校は論外だ。家も違う。
彼らにとって僕は理想の息子なんかじゃない。両親が望むのは僕ではなく、遥かに出来が良く器量良しの楓のほうだ。あの人たちは、僕が僕であることを認めてくれるほど、こちらに視線を向けてはくれなかった。
自室に篭っていても、窓の向こうには楓の部屋が手の届くところにある。昔はそこから互いの部屋を行き来もしたものだけど、この年にもなるとそういうことはいつの間にかしなくなっていた。
ある意味、僕と楓の心の距離そのものだ。とても近いようでいて、とても遠いところに僕らはいる。
これがなにを意味するのか、わからないほど僕は子供じゃない。
僕らの関係は互いのことを考えているようでいて、きっとそうじゃないんだ。
どうにかしなければいけないことは分かってる。このままだと、僕と楓はいずれ、いつの間にか触れることのなくなったあの窓のように、閉ざされた関係のままで終わるのかもしれないという、確信じみた予感があった。
(だけど…)
どうすればいいのか、分からない。
僕が変わればいいんだろうか。変わったところで、周囲がそれを認めてくれるんだろうか。
努力したところで、なにも変わらないんじゃないかという、漠然とした不安があった。僕には楓ほどの才能もなければ人を惹き付けるなにかもない。
僕なんかが頑張ったところで、僕は結局僕のまま、誰からも認めてもらわないで終わるのではないかと思ってしまうんだ。そしてそのほうが、よほど惨めだ。
なにをしたって、自分はダメだと突きつけられているようで。
そう考えると、どうしても踏み出すことを躊躇してしまう。自分を信じられるだけのなにかがなく、ただコンプレックスと劣等感だけが積み重なっていく。
塵も積もれば山となると言うけれど、ここまでなんの得にもならない塵もそうはないだろう。さっさと捨てることが出来れば一体どれほど楽なことか。
だけどそれは困難で、それをすれば僕が楓と恋人になってからの時間が何の意味もなかったという否定に繋がってしまうことも分かってた。
「考えれば考えるほど、僕って臆病だなぁ」
我ながらあまりの情けなさに苦笑するも、少しだけ胸の内に希望があることに僕は気付いていた。
それはまさに今日生まれたばかりの僅かな希望。余裕と言い換えてもいいかもしれない。
同級生であるクラスメイトの一之瀬刹那。
彼女に話を聞いてもらってから、心が軽くなったのだ。たとえそれがなにも変わることのないただの自己満足に過ぎないとしても、これまでの日々に比べて変化があったことは否定しようのない事実。
内側に溜まっていた醜い部分を曝け出したことが、自身にいい影響をもたらしているのではないかと考えるのも、そう的外れな解釈というわけではないと思う。
刹那さんのことを考えると、いつの間にか自然と早足になり、顔にも笑顔が浮かんでいたことに、僕は自分でも気づいていなかった。
「そう考えると、やっぱり刹那さんには感謝してもしきれないな…」
彼女がどんな頼み事をしてくるのかは分からないけれど、そのときは精一杯期待に応えられるようにしよう。
そう意気込んで足を大きく振ると、蹴り上げた小石が大きな弧を描いて、彼方まで飛んでいく。
それを目で追っていると、見覚えがある景色が近づいてることにふと気付く。どうやらもう家の近くにまでたどり着いていたようだ。思っていたより周りが見えていなかったようだけど、これはいつもと違い、気分が高揚していたからだろう。
「はは…」
本来なら、それは良いことであるはずだった。
少なくとも口元に笑みを浮かべる余裕ができるくらいには、自分を取り戻せているということだから。
笑うことができる環境にいることが、悪いことであるはずがない。
(ん…?)
だけど、その日は。今日ばかりは。
僕は楽しそうな姿を、無防備に晒してはいけなかったのだ。
ついさっきまで懸念していた、僕らが一緒にいる姿を誰に見られるか分からないという事態。
それはなにも、隣に誰かの姿がなければ当てはまらないというわけではない。
「あ…」
口から自然と声が零れ、僕はその場に立ち止まる。
昼の時間もだいぶ過ぎた平日の午後、無人の我が家の前に立っているひとりの人影。
僅かに溢れる木漏れ日の光を浴びながら輝いているのは、烏の濡れ羽色のごとく美しい黒の髪。
見覚えがある姿だった。ありすぎるほど見てきた、誰よりも見知った女の子がそこにいる。
「なん、で…」
僕は困惑した。いるわけがないのだ。絶対いるはずがないと思っていた。
だって、あの子がわざわざここにいる理由なんてどこにもない。
昔とは違うんだ。誰かに心配をかけることを嫌う彼女からすれば、どんなに心配であろうと、学校が終わってから来るはずだった。
そのはずだ。だって、学校のアイドルとなった彼女が―――
「凪、くん…」
まるで昔のように、僕だけのためにひとりそこにいてくれるなんて、有り得ないことだったのだから。
「どうしてここにいるんだよ、楓…」
半ば呆然としながら、口から出た言葉がそれだった。
無意識からのものであったけれど、次の瞬間には失言だったと僕は気付く。
「あ、その、凪くんが、心配だったから…」
僕を見て安堵の声を漏らした楓が、悲しそうに目を伏せたからだ。
原因は言わずもがな、先ほどの僕の失言によるものであることは明白だった。
(なにやってんだ、僕は)
理由はどうあれ、学校を休んだ僕を心配し、早退してまでお見舞いに来てくれたことは間違いない。
そして家に僕の姿がないことを確認した彼女は、きっと家の前で待つことを選んだのだ。
スマホに連絡がなかったことから、おそらく楓が先に到着したのはほんのタッチの差だったのだろう。どちらにせよ、相当に取り乱したであろうことは、風に揺れる彼女の髪が、ところどころほつれていることからも見て取れる。
そんな彼女に対する第一声が、まるで迷惑がっているようなものになってしまった。
楓は僕を待っててくれたというのに、かける言葉がこれでは彼氏としてあまりにひどすぎるだろう。
「いや、違うんだ。なんでこの時間に家の前にいるのかって、単純に疑問に思っただけでさ…」
なんとか取り繕ろうとしたのだが、どうにも弱い言葉しか出てこない。
おそらく負い目があることが原因だろう。本来あったはずの言い訳を考える時間もなく、ただただ口ごもるばかりだった。
「それは、凪くんが心配だったから…その…」
そんな僕に釣られたのか、楓もまた同様に言葉を濁らせる。
心配してくれたのは事実のようだが、紡ぐ内容はどうにもたどたどしかった。
「そっか、ありがとう。ごめんね、心配かけて…」
「ううん…」
両者ともにこうであると、最後に訪れるのは沈黙だ。
言葉少なに交わされた謝罪はすぐに終わり、なにも言えない時間が広がっていく。
「…………」
「…………」
これは互いを分かりあった以心伝心の間柄だからというわけじゃない。
分からない。僕と楓は昔からずっと一緒に過ごしてきた幼馴染で、大切な恋人であるというのに。
目の前にいる楓がなにを想い、どうしてここにいるのか、多少察することは出来たとしても、ハッキリとした事はまるで理解できていなかった。
僕らは結局、どこまでいっても自分の考えしか分からないのだ。
「……待たせちゃったみたいだね。家、入りなよ」
「うん…」
そして踏み込めない。楓からも聞きたいことはたくさんあるはずなのに。
聞いてくることもせず。そして僕から話すことをせず。
ただお互いが傷つかず、傷つけない距離を保つことが精一杯。
「ねぇ、凪くん…」
「…?なに…?」
だから…
「なにか、良い事あったの?」
「え…」
「さっきまで、笑ってたよ。凪くん」
昔みたいにと、どこか寂しそうに僕の彼女は流れる風に声を乗せる。
それに対し、僕はなんでもないよとできるだけ柔らかく声を返した。
楓は一瞬だけ声を詰まらせて、「そうなんだ」と小さく呟き、僕は聞こえないふりをしながら家のドアに手をかける。
そんな僕らのやり取りは、果たして正しいものだったのだろうか。
胸に灯りかけていた光がまた消えかけていくのを感じながら、僕はゆっくりドアを閉めていく。
―――待ってよ、凪くん
ドアの外に、幼い頃に聞いた誰かの声が聞こえた気がしたけれど、既に遅く。
気付けばドアはバタリと閉じた。
僕らの心はまだすれ違う。これからもすれ違っていくだろう
そしてわからなくなっていくのだ。最初に抱いた気持ちの意味が。
恋っていったい、なんだろうと―――
学園のアイドルとの恋が、ハッピーエンドとは限らない くろねこどらごん @dragon1250
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