後編


 * * *


『なあ、洋介君』

『な、なんですか』

『私な』


 ……、……。


 死ぬ?


「じ、冗談だよね?」


 何でそこで首を振っちゃうの。

 ねえ。

 何で。


「はは……こんな事になるなんて。思ってもみなかったんだよ?」


 何でそこで笑えるの。

 ねえ何で、ねえ。

 ねえ。


 ――嗚呼。

 君なら、君ならば。

 否。

 君だけは。


『君に伝えなくてはいけないことがあってな』


「私ね」


「『――』」

「聞きたくない!」


 君だけは僕を置いていかないと思っていたのに。


* * *


『太陽がね、この年から数えで丁度六十億年後に地球を呑み込むの。それが私のいる未来の話』


『太陽を爆散とかしたところで自然の力には抗えない。科学の限界よ』


『だからせめて最期は貴方と話していたかったの。リミットは三日後の夜よ』


『私達が初めて会ったあの時間、私、死ぬの』


「……早過ぎないか」

 風になびく白いカーテンが頬を撫でた。

 横向きになった地球を窓枠で切り取って、まるでホームビデオのようにずっと見ている。

 雑音のように何度か視界を埋め尽くす白いカーテンを手で何度も払った。

 うっとおしい。

 ぽかり。

「どうした。今日は遊びに来ないなと思ったら机に突っ伏してやがるぞこいつ」

 うつ伏せになった頭を出席簿が叩いた。そのまま隣の席に座る。

 今は放課後のはずだからいつもの先生ではない――とするならば杉田だな。

 よっこいせとか。

 おっさんか。――おっさんか。

「どーした? らしくないな」

「ほっといて欲しい」

「相分かった」

 視界の外で椅子ががたんと音を立てたのが聞こえて慌てて薬品臭い白衣の裾を掴む。

「そこはほっとかないで欲しい」

「お前はどっちなんだ」

「……」

 無言で裾を握る手に力を込める。

 相手も無言で再び腰を下ろした。

「で? どうした」

「……」

「失恋か?」

「……」

「弱ったな、仕事があるんだが」

「……」

「だんまりじゃ困るよ」

 そう言って髪の毛をぐしゃぐしゃとその広い手でかき回す。まるで思考の海をオールで探すように。落とした剣を求め彷徨う、あの漢文の中の王様のように。

 いつも変に察しが良い癖に。こういう所は同じ男だと思う。

 もうすぐ死ぬなんて分からなかった。

 今回も。あの時も。

「あの、会議もあってだな」

「……」

「……、……行っちゃうぞ?」

 ぎろり。

「……はぁ、ちょっと待ってろ」

 かち、かち、かちと聞こえて馬鹿丁寧な言葉遣いが欠席の理由をもっともらしい嘘で彩った。

 口調も言葉遣いも似合わないのに嘘を吐いちゃうところがあいつらしい。

 ――その欠けた部分にどれだけ救われたことか。

「月給ドロボー」

「発端はお前だからな。責任はお前が取れよ――っと!」

 わきの下に槍の様な鋭い一撃!

「やめろ馬鹿!」

「おーおー、やっとこっち向いた」

「……」

「まずは顔が見れて良かった」

 杉田のほどけたような笑みが何か決壊させたように感じた。

「うううう……!」

 人は抑え込んでいた全てを許す存在に出会うと何かが壊れるらしい。

 薬品と、コーヒーの匂いが包み込む。

 顎髭が少しだけ痛かった。


* * *


「そうだ。ここはオカルトの町なんだ」

 結局訳とかは言えぬまま一日を過ごし、ベッドの中ではっと気が付いた。

 ここは門田町。世界一オカルト現象が起きると言われている町。

 記憶を管理する店に陰陽師。魔法の駄菓子に都市伝説。神様妖怪幽霊お化けがごろごろ居るとも言われている。

「賭けてみるか?」

 でもどうやって。

 時代は科学だ。やってみた方法全てがインチキだったら。

 ……、……。

 取り敢えず町立図書館に行こう。

 何かヒントがあるかもしれない。

 そう思って電気を消す。

 明日は土曜日だ。


* * *


 この町は想像以上にやばいらしい。

 良い意味でも、悪い意味でも。

 歴史の中に様々の霊的現象がずらりずらりと並んでいる。

 ダイダラボッチが町を潰しかけただの神隠しが頻発してるだのあの世の入り口を作っただの云々かんぬん云々かんぬん。

 そういうことならば。この町の霊的何かに頼み込めば破滅の未来も何とか出来るかもしれない、そういう事なんじゃないか?

 ――だが。それこそどうやって?

 太陽の時間とか巻き戻せるような何かがあるのか? や、無理だろ。

 ならその運命をどうにかして変えるとか?

 うんうん唸りながら取り敢えず何かないかと、町の地図に手を伸ばした所でふと、誰かと手が重なった。

「あ」

「ん」

 驚いて横を向くとステラ――ではなくゆるりと黒毛の長い三つ編みを垂らした人。その身体付きからして男性らしい。顔は整っている方だろう。多分そうじゃなきゃこんな髪型は出来ない。

「すみません、お先どうぞ」

 人懐っこい笑みを浮かべて細い指が地図をこちらに渡す。

「あ、いえ、良いんです。そちらがお先で」

「いえいえこちらこそ。後でもゆっくり見れますから」

「何を探しているんですか?」

「下見です。ちょっと探している本がありましてね、古書堂を少々……」

「じゃあそれこそそちらを先にしたら良いと思います。僕は、探す物も見つかってないので……」

「……何かお困りですか?」

 はっと気が付いて顔を上げると心配そうな彼の顔がこちらを覗き込んでいた。

「い、いえ、何でも」

 慌てて背を向け図書館を出た。

 恥ずかしい。


 思えばそうだ。こんな事信じる僕の方がおかしいんだ。

 六十億年後から来た少女が死ぬ間際に凡人に会いに来る? 彼女は僕を有名人だとか言っていたがきっと嘘だ。

 偶たま会った人が偶たま僕だっただけでそれ以外何にも無いはずだ。

 だというのにああやって好きでもない人から抱きしめられて、愛を囁かれて。

 そりゃ人避けの嘘まがいだって吐くさ、そうさ、そうなのさ。

 そこまで考えてふと足が止まる。

 ――でも。

 でも全部本当だったらどうする?

 嘘だ、って僕が言い続けて何もしないままで彼女が本当に死んでしまったら。太陽に飲み込まれて死んでしまったら。

 涙がこぼれた。胸の奥からせり上がって悲しみを吐き出すように雫を一つ一つ取り落としていく。

「何が嘘なんだ、何が本当なんだ……」

 肩を抱いた。彼女は今何をしているの。

 嘲笑っている? 死の恐怖に怯えている?

 太陽に飲み込まれる瞬間ってどんな感じ?

そりゃ熱いだろう……こんな距離まで近づいてきた太陽はどんな風に見えるのだろう。

 そう思えば思う程どうすれば良いのか分からなかった。

「僕は、どうすれば良い?」


 丁度その時だった。今度は肩にその手が触れる。


「あ……!」

「居た……!」

 さっきの人が息を切らして穏やかな笑みを浮かべた。

「どうしても放っておけなくて」

 雪もそろそろ降るかもしれないこんな日に汗を拭った彼に瞳が揺らいだ。

「私でよければ話、聞かせてくださいな」

 そう手が伸びるが、矢張りどうも素直にその手を取れない。

「いや、ご迷惑だと思いますので」

 背をまた向ける。

 しかしそれでも彼はめげずに僕の腕を取った。

「わっ、私は!」

 振り向いた先に見た驚くべき光景。その手に黒い炎が灯っている。

「魔術師です!」

「……」

「何か力になれるかも、しれないから」


 ――、――。


「なるほど。それは話しづらかったでしょう」

 シャッターの前でうずくまる僕に向けて上から声が降る。

 ガコン。じゃらじゃら。

「甘いのは苦手ですか?」

「いえ……」

「良かった、ココアです。熱いですから気を付けて」

「ありがとうございます」

 ココア。先輩が好きだったココア。

 僕もステラも好きなココア。

 その温もりはかじかんだ指を鋭く突き刺した。

 彼女の笑顔と唇に付いたチョコレートを思い出しては胸を刺す。

 ココアを塩辛くする雫を見て彼はまた僕の背中をさすってくれた。

 この町の人達は皆良い人だ――きっと、僕以外。

「それで……えっと」

「ベゼッセンハイトです」

「格好いい名前ですね」

「そう褒められたのは初めてです。――それで?」

「ああ……えっと、これってどうにかなるものなのでしょうか」

「なりますね」

 即答。

「え、なるんですか!」

「要は太陽をどうにかしたいんですよね?」

「はい」

「そういう時の為のこの町でしょう。私の研究している魔術はそういう壮大な悩みの為にあるのです」

「強い魔法なんですね……」

「かなり絶大です。ここで無闇やたらに発動しては危ない。しかし大きな舞台では違う。言うなれば宇宙のビッグバンです」

「へえ」

「丁度、ある魔法実験を明日の夜行おうと思っていまして。それでは貴方をそこに招待いたしましょう。お名前は?」

「洋介です。塚田洋介」

「よろしく洋介」

 早速軽々しく呼び捨てして手を突き出してくる目の前の神秘的な青年にすっかり心奪われた。

 絶大な力を有すというその手を握る。ココアを握っていたはずなのに冷たく感じるのは炎を灯すからだろうか。

「それじゃあ地図を渡しておきましょうか。明日のこの時間までに、ここに。――ただ、一つ」

「一つ?」

「絶大な力を伴うと言いました。それには多大な犠牲が伴う事でしょう」

「……」

「それが未来を救済するという事です。それでも貴方は彼女を救いますか」

 静かに頷いた。それにふっと微笑み

「貴方は英雄として語り継がれることでしょう」

と言った。

 ふと六十億年後、貴方は有名人だと言ったステラの言葉が浮かぶ。

 そういう事か。

 途端に雲間から日が差した。

 希望をもたらした彼はいうなれば救世主、馬小屋に生まれた神の子に脇から生まれた目覚めた人。その穏やかな笑みに心が深く満たされていく。

そうして暫く彼の整った顔に揃う黒く深い双眸に見とれているといつかの出席簿――ではなくかなり熱いコンビニのレジ袋が頭に乗った。

「あっちい!」

「何してんだ洋介」

「杉田!? どうしてここに?」

「偶たまだわ。そっちのは?」

 相変わらず無礼だな。

「言い方」

「良いから名前」

「……ベゼッセンハイトさん」

「旧知の仲か?」

「いや?」

「だろうな」

 そう言って僕の腕を引っ張る。そのまま肩を強く抱き、その身に固く引き寄せた。

「何……?」

 キモイって言ってやろうかと杉田の顔を見上げるとそこにいつもの能天気な顔がない。

 余りに鋭い眼光に思わず口を閉ざす。

「こいつをどこに連れてく気だ」

「いえ、どこにも?」

「嘘だ。聞こえてた」

「……」

 瞬間彼の瞳の色が変わる。

 張り詰めた緊張が凍てつく。

「初対面の癖に何をする気だ?」

 それの返答とするかのように小さく舌なめずり。

「彼の悩みを共有されない貴方には関係のない事です」

「……」

「もう名前も知っている。旧知でなくとも知らない仲ではない」

「……」

「しかしそこまで警戒されては不審者と間違われても仕方のない事です」

「疑うも何も、どう見たって不審者だろうが」

「やれやれ」

 そう言って肩を呆れたように落とす。しかしすぐに彼の瞳が僕らを射抜いた。

「貴方だって。彼にその本性を見せられるご身分でしょうか?」

「どういう意味だ」

 声が震える。――怒ってる。

「浮浪者」

「うるせぇ不審者」

 そのまま少し沈黙が走ったが、先に張り詰めた肩を下したのはベゼッセンハイトさんの方だった。

「洋介。最終的に決めるのは貴方ですからね」

 それだけを言い残して。

「……」

「……なあ洋介。あんまり人をほいほい信じるな。誰が悪い奴か分からないんだぞ」

「悪い人には見えなかったけど」

 そう言って杉田の顔を恐る恐る見るともうそこにあの顔は無かった。

 ただただ、杉田の分厚い擦り切れたコートに触れた部分が温かい。

「……お人好しめ。肉まんとあんまん」

「甘いのはそこまで好きじゃない」

「ほい」

 はぐ。

「あんまんじゃねえか!」

「天下のあんまん様に失礼だぞ! お前!」

 ココアで飲み干した。


* * *


「森の中にあるんだ」

 顔を上げた先にあるのは、真っ暗闇。本当に一歩先も見えない闇。グレーテル達が迷ったのも頷ける、そんな闇、不気味。

 ちょっと心細いけど彼女の痛みを思えば耐えられる気がした。

 僕は未来を救いに行く。

 杉田のあれは考え過ぎだ、きっと。

 汚名返上。僕は英雄になってみせる。

 そうして暫く歩いた先、遠くでランプが信号のように揺らめいているのが見えた。

 あれかな……?

 そこに近付くと確かにランプに照らされたあの容貌が見えた。僕に気が付くと心配そうな顔が花開くようにほころぶのも見えた。

「良かった、辿り着けるか心配だったんです、それに来てもらえるかも……」

「リミットは今夜ですから」

「優しいお人だ」

 骨ばった細い指が優しく頭を撫でる。

「さあこちらへ。暖炉に火をくべてあります」

「かまどじゃないですよね?」

「ふふ、真逆。全く面白い事を言う子だ、頭が良いんですね」

 面白そうに肩を揺らす。

「気の利いた返しをするなら、そうですね、その代わり釜に魚が」

「魚?」

「サバの味噌煮は日本人の味と聞きました。これから煮る所です」

 それのどこが気の利いた返しなのかは弱冠十五の少年には分からなかったけど、取り敢えず彼について家へ入る事とする。

 家は予想より狭く、一室だけ。光源は彼の持っているランプ、そして床に池を作る何本かのろうそく、そして温かな暖炉。後はうず高く積み上がった本の山だけがそこにあった。本にでも座って生活していそうな位の量が四方を埋め尽くしている。

 なるほど、古書堂の下見をしようとしていただけある。

 その本達も避けるようにして空けられた床の真ん中には白いチョークで魔法陣が書かれていた。――これが彼の魔術。

 喉がこくりと波打つ。

「再度確認をお願いします。この魔術は絶大なもの。その為には犠牲を伴う……何が犠牲になるかは分からないけれどかなりの確率で貴方の体は消滅するでしょう」

 そう言って苦い顔をする。

「……!?」

 それって――!?

「死ぬかもってこと……?」

「そうならないように努力はするつもりですが……生命の源である太陽をどうにかしようとするにはその象徴である命を消費する……それはかなり辻褄の合う事です」

 ……、……。

 正直、実感は湧かない。

 死ぬかも、しれない。

 ――本当に?

「それでも良いのなら。貴方にこの紋を貼り付けます。通称『ソーテラーンの紋』と呼ばれるものです」

 薄暗がりの中、古紙に書かれた不思議な紋を見せてくれた。二つの円が重なり、そこに棒がいくつも交差しているような……そんな感じ? 暗くてよく分からないけれど。

「どうしますか?」

 不思議と恐怖は無かった。実感が最後まで湧かなかった、っていうのが正しいのかもしれない、あるいは。

 それに――。


『洋介君。私はな、片頭痛持ちなんだ』

『洋介君』

『なあ、洋介君』


 ――、――。

 彼女だって、その瞬間はもしかしたらこんな心情だったかもしれない。

 もし彼女に会えるなら、謝りたい。

 二人に対する僕の罪を雪げるならば。

「そうですか。それでは右手の上にこの紙を乗せてください」

 瞬間ランプの灯火と暖炉の火が消え、彼の表情を読み取ることが出来なかった。でも声はとても落ち着いていた。

 床のろうそくの火だけが揺れた。

「いきます」

 緑の核を内包した黒い炎に彼の顔と古紙とが照らされる。意外と落ち着いた表情をしていた。

 ――そう思った瞬間。


『洋介君!』


 頭に突然、太陽に飲み込まれるステラの視界が映った。心臓に絡みつく血管が冷えるような気がしてその温度は脳と肝にすぐに伝染した。

 滲む涙がとある一種の感情を勢いよく掻き立て、冷たい焦りが脳を満たした。

 過呼吸、動悸、恐怖が渦巻く。

 これが、これが死ぬって事、死ぬって事!

 古紙が震えた。それを鋭く、力強く、骨ばった手が掴んで押さえる。

「今更だ」

「ベゼッセン、ハイト、さん?」

 冷たい声。

「ここまで来た以上、貴方は受け入れなければ」

「う、ああ……」

「ねえ? 洋介。一緒に英雄になりましょう」

 彼の手にあった黒い炎が古紙に燃え移りそのまま物凄い勢いで燃え始めた。

 掌に焼けるような痛みが……!

「痛い! 痛い、痛い! 痛い!」

「耐えなさい!」

 強く言って体を支える。

 魔法陣の円周にそって彼が灯していた黒い炎が立ち上り始めた。

「サア、前を向いてごらんなさい。私達が今手を出そうとしている太陽が遠くに見えるでしょう」

 彼が顎を持ち上げ見せた先には目の前のスクリーンの中の遠くで光を放つ生命の源。

 ――遠くから見ても分かる、どうしようもできないような壮大さに立ち向かう。

 スケールのでかさに思考が追い付かない。加えて掌から手首に伝う幾筋かの垂れが気になる。乾き、貼りつき、そのまま僕の全てを手から侵食していきそうな。

 焼けつくような痛み……!

「どうでしょう。六十一億年後の人類も救ってみては?」

「六十、一?」

「一億年ぐらいあの太陽の時間を巻き戻すんですよ。壊すわけではないし、感謝もされますよ?」

 そう言いながら素敵な笑顔。――でもそれどころじゃない、それどころじゃないんだ。

 掌の痛みで頭が完全にマヒしている。これがどういう事なのか考える余地すら無い。

「それじゃあ早速始めましょうか」

 その瞬間支えが無くなり地面に突っ伏した。痛みに加えて熱まで帯びてきた。

 どんどんと凄みを増していく炎の向こうで彼のブーツが揺らいで見えた。

 痛みと、熱と、焦りと、恐怖と。

 混沌とはこういう事だ。

 嗚呼、嗚呼……。

「サア、いよいよだ、いよいよ来る!」


「太陽神、運命神。貴方がたに我々は挑戦する!」


「やめろおおお!」


 瞬間――。


 体が炎に包まれ、その瞬間遠くで誰かが僕の名を呼び、何かが滅茶苦茶に部屋を荒らした。

 掴み合うような、わめき散らすような物凄い音やら何やらが聞こえたのを何故だか冷静に聞いていたのを覚えている。

 熱くない、しかし確かに喉を締め上げる苦しみの中発光した背の高い人物が僕の腕を引き、強く抱きしめた。


 薬品とコーヒーの匂い。ちょっと痛い顎髭。

 その背中から大きく白い翼が生えていた。


「生きろ!」


 その温かい背中に助けを求めるように手を伸ばした。


 ――、――。


「はあ、はあ……」

 気付いた時には肩で息をする杉田と僕だけが森の真ん中できつく抱き合っていた。

 かたかたと力なく震えていたこの体を瞬間勢いよく引き剥がして唐突に

「馬鹿野郎!」

と怒鳴る。

 涙を浮かべ頬にすすを付けたその必死な表情に息がせき止められる。

「死ぬとこだったぞ! 人を簡単に信じるなっつっただろ! 初対面でいきなり命が失われるかもしれないようなことさせてくるなんて怪しいと思わねぇのか!」

「……」

「なあ、強く言わなきゃ分かんないような馬鹿じゃないだろ? お前は。お願いだから命を大事にしてくれ。お前、あれで彼女を助けられるとでも思ったか?」

「……」

 思った。だからあそこまでやった。

「ああいうのはな、黒魔術っつうんだ。あれこれ言ってお前の命を貪るだけのとんでもねぇ魔術だ。仮にそうじゃなくて本当に太陽の時間を巻き戻せたとして」

「……」

「宇宙は終わってたぞ」

「……」

「――っ、こっち見ろ!」

「……!」

 顔を振り上げた瞬間ギリギリのところで溜まっていた涙が頬を通り抜けた。

 声に反して杉田の顔は悔しそうに悲しそうに歪んでいた。

「なあ。小説だからってさ、お前を簡単に死なせる訳にはいかねぇんだよ」

「じゃあ何だよ! ならステラは最初から助けられなかったのかよ! 僕が命を消費しようがしまいが助けられなかったのかよ!」

「……」

「なあ、何とか言えよ杉田! 僕が命を消費すれば助かるって、あの人は言った。だから従った! 天国で先輩も待ってた。僕はこれで良かった、良かったのに! お前が邪魔したから――」

 スパン!

 その瞬間左頬に突き抜けるような痛みが走った。手を当てるとヒリヒリ痛み、脈打った。

「ふざっけんな、このタコ! 誰かの命を代わりに消費して生き永らえた命が喜ぶとでも思ってんのかお前は!」

「……」

「どこかの自己満勇者の悪い影響を思いっきり受けやがって。その短い三日間をそういうのに使わずに彼女との最後の時間に使ってやれば良かったじゃねえか!」

 ……!

 笑顔と寂しい笑顔と。震える小さな肩と、色々が頭を駆け巡る。

 あ、嗚呼……。

 嗚呼!

 涙が嫌でも溢れ、ぼやけ、滲んで心を黒く染める。

「それが何で分かんないんだよ!」

 たまらなくなって走り出した。

 いつもの道を駆け抜けて満点の星空の下踏切を通り抜けてきつい坂を走って駆けあがり、あの丘にたどり着いた。


『だからせめて最期は貴方と話していたかったの。リミットは三日後の夜よ』


「あああああああああ!」

 泣き崩れた。

 僕が彼女に残せたのはあのダウンジャケットだけだった。

 僕はまた間違えた。また、また。

 僕はまた大事な人を殺してしまった。


* * *


『少年、何をしているんだ?』

 先輩と出会ったのは夕焼けと藍色の混じる空の下、あの丘での事だった。

 片頭痛持ちのその人は星を見るのが好き。そして生き物の世話をするのが好き。

 だから僕によく絡んでくるようになった。

 僕も僕で幼い頃に見つけたあの不思議な星の謎を解きたかったから引っ張られるがまま天文部に入った。

 そうして二年目のある日。先輩は僕にそっと打ち明けた。

『見えるか? あの星』

『何ですか、あ、あれですか?』

『そう、金星だ』

『金星……』

『一番星とも言うな。限られた時間しか見れないんだ』

『へえ……』

『私が生まれたその時、ちかちかって輝いてたんだって』

『……』


『だからあれは私の一番大事な星。――馬鹿にするなよ?』


 それがどうしてあんな事言っちゃったんだろうか。


『君の言うその星はどう考えたって一番星のそれだ』

『分かんないじゃないですか! あれは確かに星の死ぬ瞬間です』

『いやだからそれは』

『そんな事言って他の可能性を考えないんですか? 先輩』

『っていうかそんなにそれが大事なんですか?』

『――、――』


『ごめんな、大事なんだ』


 悪い事をしたってその時は思って、どうにかして謝ろうと思ってその時を待った。


 一か月後。杉田に集められた僕らが理科室で聞いたのは先輩が急死した事実だった。


 間違いなく殺したのは僕だ。

 それから暫く息をするのが難しくなった。

口は悪い方で友達を作るのは得意じゃなかったけど、この一件で更に人間関係を築くのが怖くなってしまった。

 あの時先輩に放った言葉も忘れる位には、先輩の大事な星を忘れる位には。

 封じ込めてしまいたかった、僕の何もかもを。


 僕はあの夜の連続の中で、先輩の星を探している。

 死ぬまでには、その図鑑に載っていない星を。

 謝る為に、この罪を雪ぐために。


「こんにちは。これ差し入れです」

「まあいつもすみません」

「洋介は」

「……まだ部屋に籠ったままで」

「……お話しても?」

「どうぞ」

 ぱたぱたと扉の外に足音が近付いてきて

「んじゃ、失礼するぜー」

と突然ドアノブを捻った。

 それに必死に抵抗する。

「……手堅い守りだ。いい加減入れてくれても良いようなもんだけど」

「……」

 入ってこないで欲しい。

「よいしょ」

 そう言って扉にもたれかかる。いい加減しつこいと思う。ここんとこ毎日だ。

 そういうのいらないんだけど。

「なあ、洋介。まだ気にしてんのか」

「……」

 言わなくても何でも分かってる癖に。

「だーんまりじゃ困るなぁ。――これ食うか?」

 そう言ってドアの隙間から何かを押し込んでくる。

「お、お、ここら辺がケツかな? お、それともここか、ここか」

「煩い」

 掠れた声で言って尻を突いてくるそれを取り上げた。

「良かった。やっと声が聞けたぞ」

――金貨のチョコレート。

 こんなマニアックな駄菓子、今時何処で売ってるんだ。

 カリ、とかじると甘い。腹にじんわりと溜まって何かが滲んだ。

「なあ。お前はそうやって気にしてるけど、それはお前の問題じゃあないよな」

「……」

「そう思わないか?」

「……思わない」

「やれやれ、また手堅い守りだ」

「……だって、僕が殺した。先輩もステラも」

「どうしてそう思うんだ?」

「……」

 喉が二酸化炭素にせき止められて息が出来ない。そんなの言えるわけない。

「何かの責任をお前は感じているけれど、そんなお前を遺族の誰かが責め立てたのか?」

 いや、そんなドラマみたいな事は無いけど。

「先輩もステラもお前に殺されたって責めたんだ」

「――んなわけないだろ、馬鹿にすんな」

「じゃあおかしいな?」

「何が」

「お前のせいじゃないかもしれないのに一人で抱え込んでる。それじゃあお前が壊れちまうよ」

「壊れても良い……先輩もステラも壊しちゃったのに、僕なんて」

「……」

 そう言って膝に顔を埋めた僕を無言で受け流す。向こう側であいつはどんな顔をしているんだろうか。

「そうだとしても」

 ぽつりと言う。

「……そうだとしても壊れちゃ、だめだ。お前はまだ生きているんだから。お前がそうやって抱え込んで鬱になって死んでしまったら、それこそお前が悩んでることそっくりそのまま彼女らに返すことになっちまうだろう?」

「……イミフメイ」

「だってそれじゃあお前。彼女らがお前を殺したことになる。お前はそれを望むか?」

「……!」

「大好きだったんだろ?」

「……」

「――気にしないであげるのもまた一つ優しさなんだ」

「……」

「な。ちょっと気分転換に星見に行かないか」

「……」


「今日は一番星が良く見える」


 数日部屋に引きこもった体はあの心臓破りの坂を上れるだけの力を有していない。だからそこだけ杉田の背中に乗って上った。

 こういう日位こうやって大人を頼るのも悪くないんだと思う。

「重ってぇなぁ」

「煩い」

「あーあ。おっきい赤ん坊だなぁ」

「うるせぇっての」

 そう言いながらえっちらおっちら坂を上る。玉のような汗を垂らしながら、でもまるで孫を抱いたようなお爺ちゃんの様に優しく微笑みながら杉田は一歩一歩上っていく。

 甥っ子と遊ぶおっさんか。――おっさんか。

「なぁ洋介」

「何」

「あそこら辺見てみろ。あの辺り」

「あれが、何?」

「一番星だ。見る時間が限られている星。他の星が輝き始めるころにはその身を隠してしまう」

「死ぬの?」

「死ぬわけねえだろ。そしたら大騒ぎだ」

「それじゃあ?」

「隠れるだけだ」

「隠れる……」

「いなくなったように見えてずっとそこに居続ける。余命僅かながらそれでも自分が関わったその全てを愛したいなんて言ってたアイツらしいとは思わないか」

「……」

「言ったろ。彼女はお前のことを憎んじゃいないし恨んでもいない」

「……」

「寧ろ愛していたに違いないさ」

「……どうして言ってくれなかったんだ」

「愛していたなんて言われてもお前は絶対信じなかっただろうから」

「……」

 何も言えない。

「そぅら着いたぞ。ほら早く降りろ十五歳児」

「煩い無精髭」

「……これでも手入れには気を使ってるんだぞ?」

 星が降って来る丘。先輩と出会い、別れ、ステラと出会い、別れた丘。悲しみも喜びもくれた丘。

 解決しない問題に頭を抱え、右手にこんなに大きな傷まで作った。杉田曰くあの後何も起きなかったからこの傷はタダの傷で済んだらしい。それでも痛いものは痛い。

 この大きな星空が無ければ作る事もなかった傷。――でも誰も責める気にはなれなかった。

 自分でさえ、あの人でさえ。

 先輩は僕を最後まで愛してくれていただろうか。それについては杉田のちょっとした一言から窺うことしか出来ないけれど、それでも良いと思った。

 先輩に限って呪い殺すとかするはずはない。

 ステラだって或いは……。

 一番星が身を潜めるのを二人で見届けた後杉田がふと言う。

「そろそろあそこの病院の灯りが消えるな」

「うん」

「そしたら探してみれば良いさ。ステラとアイツの星を」

「……うん」

 頷いた僕の頭をいつものようにガシガシとかき回す。

「よし。今夜は初めて俺の指導で天体観測をする訳だが、まずはラジオが大事で」

「知ってる」

「うんたらかんたらうだうだうだ」

「……誰が頼んだんだよ」

 そう思いながら後ろの病院にふと視線をやる。


 ――するとある一室の窓に変な物が揺れているのが見えた。


 やけに見覚えのあるダウンジャケットだ。

 何か予感がして、夜空を見つめている望遠鏡を急いでその方向に向けた。


 ――紺色の豊かな髪――


「おいお前大事に扱――ア!」

 乱雑に望遠鏡を引き倒して丘を駆け下る。

 もつれそうになる足を精いっぱいこらえながらその名を呼び、その方向に向かって精いっぱい走った。


「ステラ! ステラ! っ、ステラあああ!」


 踏切が降りようとしているのを潜り抜けて横断歩道を駆け抜け、心臓が本当に破けそうになりながら走り続けた。

「ステラ! ステラ!」

 遠目に彼女の姿が見えるようになった時、彼女もこちらに気が付いた。

「洋介君!」

 四階の窓から精いっぱい身を乗り出し、その窓の奥に姿を消す。


 ステラはエレベーターにがっつくように飛びつくが来ない、来ない。

 遅い。


 洋介は自動ドアに飛びつくが思い通りに開かない。中に人が細々いるのを見てもどかしくなる。


 ふと周りを見る。


 洋介の目に壁の方にひっそりとある白いドアが飛び込んでくる。


「待ってられない!」

 向こう側にある非常階段にその視線を向けた。


 駆け下りて

 駆け上る。


 やがて一番星はその腕に収まった。


「洋介君!」

「ステラ!」


「洋介君、洋介君。あのね、私貴方に話さなくちゃいけない事があるの。謝りたくて」

「僕もだよ。ステラ」


「ゆっくり話そう」


* * *


 丘の上、夕闇が濃くなっていくその中、一人たたずむ男の背中に突然少年が頭突きをかます。

「いった!」

「先生! 今回は流石にやりすぎです!」

「何だ黒耀か」

「何だじゃないでしょう!」

 黒耀と呼ばれた少年が怒鳴る。彼は人々の記憶を想い出として形作る「記憶の宝石館」店主であり、運命神たる杉田の直属の部下でもある。

 彼の生きる意味を与えたのは他でもない杉田だ。要は面倒見が良いのである。

「まーた運命をいじくって。今回は流石に出来過ぎたシナリオにしか見えません! 大神様に呼び出されますよ!」

「そん時は一緒に謝ろうな! な! 愛しの子にまた巡り会わせてあげるからさ! な!」

「それでもダメなもんはダメです! 死神御一行に襲われますよ!」

 そこまでまくしたてて、ふっと勢いを弱める。この人には何を言っても通用しない。

「……これで本当に良かったんですか」

「……」

「苦しみの中に置いておくのも一つの優しさです。全ての人がこういった恩恵を得られるわけでは無い」

「世界の人どうこうの前に隣の人を助けてあげられる機会は今しか無いんだ」

「……僕にはよく分かりません」

「お前も愛する人を持てば分かるさ。それにもう運命は変わっちまったし。今更だ」

「……僕はそういう中途半端な甘さは嫌いです」

 杉田とて、何でもほいほいご都合主義にするのは嫌いだ。苦しむべきは苦しめと。幾つもの人を理不尽の中に叩き落してきた。

 しかしそれよりも。

 人を殺して涙する。そんな感動のサイクルの方が嫌いだった。


 小説だからって殺させる訳にはいかない。

 アイツが死んだ時に強く思った。


「俺はハッピーエンドが好きなんだ」

「はいはい。始末書は先生が書いてください」

「えー、黒耀名義で書いてくれよー」

「そろそろ大神様に言いつけますよ」


 星空の下。そこに置かれたラジオから天気予報が聞こえる。

[今夜の天気は快晴、オリオン座がそろそろ見えてくる時期に……]

 あの時はいつも沈んだ気持ちで聞いていたラジオ。


 今日からはもう少しだけ、気楽に聞けそうな気がする。

(おわり)

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一番星のステラ 星 太一 @dehim-fake

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