20 甘い、邪悪な肉の感触

 目をかたく閉じて、唇を嚙みながら耐えるしかない。生ぬるい汗が赤みがかった全身の皮膚をうっすら濡らして、服を張りつかせている。ベトつく感触が不快感をあおる。

 ただただ苦痛だけにさいなまれていた先ほどまでのままであったなら、こんな煩悶はんもんに身を焦がさなくて済んでいたに違いない。エントレーは意識を取り戻しつつあるがゆえに、筆舌尽くしがたい恐怖に震えていた。

「センセ」

 湿った、劣情かき立てる声が耳元でささやかれた。それをきくだけで、喉が一気に乾燥して、気管と臓腑ぞうふが枯れてしまいそうになる。

 自分が自分でなくなる恐怖を上回る衝動が、いまエントレーを追いこんでいた。彼は必死に耐えていた。

「ねえ、センセ」

 白く細い、美しい手がハサミの上を低速で、舐めるようにすべった。

 深い夜、街灯ランプに照らされながら落ちる季節外れの雪のようにはかなく、淡い裸体をさらけだして、ルーチェがエントレーの肉体に触れながら「センセ」と、甘い吐息を混じらせながら耳に向けて何度もつぶやく。

 理性と感情が激突して、教師エントレーは狂いそうになりながら震えていた。

「先生……わたしが先生のこと好きなの、知ってたよね。ずっと、ずっと前から」

「あ、いや……」

「知ってたよね」

「あ……ああ……」

「気持ちよかった? かわいい生徒、ふたりに愛されるのは」

 目をそむけつづけてきた、みにくい感情が見透かされている。

 ルーチェのいうとおりだった。愛されることは快感だ。誰かとちぎるよりも、人目に触れて誇らしくなるような女に、一方的に愛されていることこそが至上の幸福だった。教師や人間として接した部分も多かったが、男として優越感に浸っていた部分があったのだ。それを少女は突いている。

「村に馴染なじめないわたしを助けてくれた先生……同級生の男なんて、先輩も後輩も子どもっぽくってダメ。男の人はやっぱり大人じゃないと嫌。先生はいつも素敵だった」

 ベッドに横たわるエントレーの隣で、床に膝を突きながら素肌のルーチェが、彼女らしくない低めの声で淡々として話す。

「好きになっちゃったんだもん……仕方ないよ……でも、先生は女の子が好きだから。そういう人だから。リヒもそう、イチヨもそう。美人でかわいい純情な女の子だったら誰でもいいんだ」

「違う……」

「違うの? センセ、違うの?」

「違う……違うんだ……」

 詰まった呼吸で、否定の言葉を絞りだす。

「違わないよ。だって、先生はわたしとリヒを会わせて楽しんでたもの。ひどい人……わたしの心をかきむしって気持ちよくなってた。リヒがいるのに、わたしとリヒを嫉妬させて面白がってた」

「やめてくれ……」

「リヒが死んで悲しんでたけど、わたしやイチヨのことも見てたよね。ねぇ……かわいそうだし好きだから、リヒが死んだあと、もっといい寄ってみたけど、わたしのこと抱きたかった?」

「もうやめてくれ……」

「それは、わたしのセリフ。もうやめて、センセ……」

「許してくれ……すまなかった、謝るから許してくれ……」

「わたし、怒ってないよ。先生は優しくて、かっこいいもの。ただちょっと変態だっただけ。クスクス……」

「ルーチェ……」

「わたしとお似合いね、センセ。大丈夫だよ、嫌いになんてならない。いまも好き、死ぬほど好き……先生はそのままでいて。言い寄る女はわたしがどうにかするから、ずっといっしょにいてね。センセ。センセ。センセ」

 エントレーはまたぶくりと泡を吹きながら、涙を流した。

 薄汚い泥沼に沈んでゆく三角関係にイチヨとオルアは直感的に、村長は経験則で、その先にある狂気的な危険性を感じ取り、彼を遠ざけたのだ。イチヨの助言をきいておくべきだった。

 ルーチェがエントレーの上にまたがった。高鳴って鼓動こどうする彼の心臓に耳を当てながら「どくん、どくん」とつぶやいている。

 彼女は狂ってしまった。とうの昔に狂っていたのかもしれない。狂わせたのは誰だ。狂わせたのは――

「どくんだ……どいてくれ」

「センセ、抱いて」

「できない」

「嘘つき」

「見ろ、この体を。幻滅だろ、頼むからおれを見限ってくれ」

「自分勝手。アーア。そんなことでわたしがー、わたしの気持ちがとまるわけないのに。そんなの知ってる癖に。安心して、嫌いになんてならないよ」

「ダメだ、ダメだ」

「ううん。嫌いになってあげない。クスクス……嫌いになんて、なってあげないんだから。クスクス……」

「許してくれ、ルーチェ……」

「カニなんかにさせない。あのババア、いらないことを……」

 憎悪、憤怒ふんぬ。そんな感情を隠そうともせず邪悪に、ルーチェが顔を歪めた。まるで別人だ。ルーチェの姿をした怪物だ。

 ハサミで傷つけないように、なんとかどかせようと腕を動かした瞬間、唇がふさがれた。エントレーの口にルーチェが口を重ねた。地上にあげられたカニにありがちな、泡を吹く行為で汚れた口元を気にもせず、少女はキスをした。汚いわたしたちにふさわしい、ファーストキス――そういうようにルーチェの瞳が怪しく金色にギラギラと光っていた。

 糸を引きながら離れた唇を、舌で舐めてルーチェはもう一度「抱いて」といった。

「ぐげぇ」

 絶命寸前の鳥のようなうめき声をあげて、エントレーは魅惑的すぎる女の肉体から目をそらした。そこにいるのがリヒなのかルーチェなのか、わからなくなってきている。ひとつたしかなのは、たおやかな肉を今一度見たときこそ、歯止めがきかなくなるであろうということであった。

「先生、愛してる」

「あがあ」

 力いっぱいに、体に乗っかったルーチェを押しのけた。ルーチェが床に落ちた。

 好意の渦に流されて不健康な楽しみを見出してはいたが、リヒを愛していなかったわけではなかったし、ルーチェを汚したいわけではなかった。これ以上の泥沼の深みにハマれば、二度と這いあがれないと思い、最後の理性を振り絞って、ルーチェを拒絶したのである。

 脳が茹だち、心臓がちぎれそうになっている。乱れに乱れた不安定すぎる呼吸をしながら、体をよじって下を見ようとすると、ルーチェが静かに立ちあがって現れた。

 汗だくのエントレーを見下ろしながら、

「そう、わかった」

 冷たく言い放つと、ルーチェは服も着ずに家からでていった。歩いていった軌跡きせきに涙のあとを残しながら――

 水気を吸って違和感の温床となったベッドに横たわったまま、エントレーは窓や玄関から漏れる月の光を見ていた。

 しばらくじっとしていれば、この異常な興奮は落ち着くはずと思っていたが、いくら待っても熱が引かない。それどころか、心臓の脈打つスピードがあがっている。目に映るものがザラついて、光の集合へ変わっていく。寒いのか、暑いのか判断できないが、鳥肌と寒気がとまらない。息苦しい。冷や汗が滝のように流れる。脳が壊れていく。加速する。白く、白くなる。

 なにかが死んだ。力の重石がなくなったのを感じた。

 ぐりんとエントレーは白目を剥いて、泡を吐いた。


 ひととおりのなりゆきをレビンに話したイチヨは、レビンを家から追いだしてベッドに潜りこんだ。目を閉じるとすぐに、外からレビンの声がきこえてきた。

「いっしょに寝ようよ~。物理学完全読本よんで~」

「そんな難しい本、読めるわけねぇだろ!」

「おしめして~」

「あっはは! オメーもうおしめ卒業してるだろうが!」

「ぎゃああああああああああ」

 家の壁を挟むイチヨとレビンのバカみたいな会話に、男のつんざくような悲鳴が混ざりこんだ。

「なんだ、なんだなんだ」

 きこえた方向、距離、声から推測するとエントレーのものとしか考えられない。

 パジャマのままイチヨが外へでた。レビンがエントレーの家を指さした。

「あれ!」

「なんだありゃ!」

 エントレーの家がブルブルと振動している。いまにも爆発しそうに、膨張の限界といわんばかりに激しく揺れているのだ。

「シニー、伏せろ!」

 両手で双眼鏡を作って家を見ていたレビンにおおいかぶさって、イチヨが地面に倒れると、エントレーの家の屋根が弾け飛んだ。木の破片や石が集落の土に墜落し、細かなくずがイチヨの背中に降りそそいだ。

「いってて……なんだよ、もう。あぁ!?」

 天井のなくなった家から人間サイズのカニが、火と煙を盛大にケツから噴きながらゆっくりと上昇してきた。イチヨの胸に潰されたレビンもぐぐと顔をだし、そのロケットのようなカニを目撃した。

「カニカニィーッ!」

 カニは急に加速して、空の彼方かなたへ飛んでいった。遅れて風圧が木々や草木、家を揺さぶった。イチヨとレビンもごろんとあお向けに倒されてしまった。

「なんだ、どしたい! どしたいッ!」

「うるせんだよ、バカヤロー」

 北集落の村人が、ぞろぞろと家からでてきた。包帯を巻いたアイスマンも、オルアの家のドアを叩き開けて、

「いまのはなんだ」

「ふわ……どうしたんですかぁ……」

 目をこすりながらオルアもでてきた。

「あっ、神祇の反応が消えてる」

 レビンの神祇レーダーがなんの反応も示さなくなっている。やはりエントレーに反応していたのだろう。いま飛び立ったのはエントレーに違いないのだから。

 それにしても、エントレーが完全なカニになるのが思ったより早かった。段階をすっ飛ばしてカニになった感じがぬぐえない。

「オババだ。オババにどうすればいいかきかないと……」

 腹の上に乗ったレビンをどかして、イチヨは暗いままのアンの家に入った。

「おい、オババ」

 ――返事はない。

 アンはどうやら机に突っ伏している。寝ているらしい。歳を取ると、あんな爆音にも気づかなくなるのか。いいんだか悪いんだか、わからない。

 パンプスの裏で、なにかがじゃりと触れた。水晶玉の破片が床に散らばっている。

「おい、起きろ」

 アンの背中をゆする。

 彼女の体に触れたことで、イチヨは痺れるように真っ青になった。生命力ともいうべき人間の持つ温かさがなく、なにか小枝に似た硬さが老婆の体にはあるのだ。死んでいる――そう感じた。

「ババアっ!」

 むりやり起こしてはじめて、アンの顔が映った。すべての血を抜かれたように真っ白な顔色、混濁こんだくした瞳が無感情に虚空を射止めている。アン=オットーは死んでいた。

 愕然がくぜんとしたイチヨの力がゆるみ、死体はその場にごとんと重い音を立てて頭から落ちた。そのさまは人形と変わらない。

 しゃがみこんで、イチヨがアンの心臓部分を拳で叩き打った。どん、どんと何度も。反動でアンの体が浮きあがるだけで、呼吸を再開する様子はみじんもない。胸を押すのは、心臓マッサージを意識したものではなかった。こみあげた感情で手がでただけであり、もうなにもかもが手遅れの状態であることをイチヨは察していた。アンを構成するものは、もうこの場になかった。

「どうした」

 アイスマンとレビンが入ってきた。

「暗いや」

 筒状の物を取りだすと、レビンはそれについたスイッチを押した。しゅぼっと、なにかがこすれる音をだして、筒の先から火花が散った。発煙筒はつえんとうのようななにかは室内を鮮明に照らした。

「アンばあちゃん!」

「バーバーアーっ!」

 ふたりが叫んだ。

 明かりの元を放り投げて、レビンが死体においすがった。服をぎゅっと握って、胸に顔をうずめる。レビン=O、本名シニーもアンには世話になっていたし、同じ村の住人である以上は家族同然である。肉親を亡くしたに等しい悲しみを感じているに違いなかった。

 明かりを拾って、アイスマンが、

「心臓だ」

 と、一言いった。

「心臓? 病気だっていうのか、こんなタイミングで」

「違う、胸が少し沈んでる。心臓に攻撃を食らったんだ、こんなのできるのは……神祇以外にいねぇだろう」

「……」

 神祇がカニさまを恐れているとするならば、カニさまを召喚したアンを狙うのは考えられることだ。なぜその可能性に思い至らず、見張りくらいしようと考えなかったのか。

 ……不手際ふてぎわだった。

「なんまいだぶ」

 まばたきひとつしないアンの目に、レビンは手をかざして、すうとおろした。手の平でまぶたを閉じさせる、アレだ。

「あら?」

 アンの目は半目になっただけで、それもすぐに元に戻った。色のない瞳が開いたままだ。

「目を開けるよ。生きてるってこと?」

「死んで間もないってこった。もう少ししねぇと目は閉じらんねぇよ」

「そっか……」

 イチヨは険しい表情をしたまま、家の外へでた。

「どうしたんだい」

 トゥーサンが不安そうに歩み寄ってくる。

「アンばあさんが死んだ」

「なんだって」

「あとを頼む」

 そういって、イチヨは自分の家に戻り、着替えはじめた。エントレーを追わなければならない。なにをどうすればいいのかわからなくても、動かないといけない気がした。

 テレポンが鳴った。ジリリリと夜中に鳴られては困る音量で、受話器を取ることを催促さいそくしている。

「もしもし」

「あー、よかった。一発でつながったわ、イッチョン」

「マックスか?」

「ええ、そうよ」

「コッチからテレポンしようと思ってたんだ、ちょうどいいや。ルーチェは――」

 ここまでいって、ハッとした。ルーチェはどこにいった?

「おい、チビぃ! ルーチェはいねぇか!」

 窓に向かって声を張りあげた。アンの家からでてきたレビンが、トトトとエントレーの家に走る。半壊した家のなかを確認すると、イチヨの家の窓までやってきて彼女は首を横に振った。

「ルーチェがきたんだがよ……消えちまった。エントレーも」

「どーゆーことよ」

「わかんね。あと、アンばあさんが死んだ」

「なんですって。どうしたの、急逝きゅうせいってこと?」

「急逝には違いないが、アイスマンは他殺だっていってる」

「村兵を送るわ。コッチの用件、いいかしら」

「はいどうぞ」

「神祇のアジトを見つけたわよ」

「神祇のアジトっていった、いま?」

 玄関から家に入ってきていたアイスマンがビクリと反応を示した。筋肉を盛りあがらせて、闘志を燃やしているのが伝わる威容いようである。

「カニタマウンマイウンマイ駅の周辺に廃墟群あるでしょ。その一角みたい。出入りする神祇をやーっと発見できたんだから」

「どうする気だ」

「突撃よ」

「やめな。危なすぎるぜ」

「危なくてもやンのよ、村兵ってそういうモンでしょうが」

「せめて、私たちがいくまで待ってろ」

「……三十分」

「よし」

「でも古道に村兵は送りだすわよ、もう。古道に神祇どもが隠れて動いてるから、奇襲かけてやるわ」

「戦うより、上ウンマイの住民を避難させたほうがいいと思う。カニ……エントレーがそっちのほうに飛んでったから、なにか起こる。たぶんな」

「エントレーちゃんがどしたのよ」

「ついたら説明する、それまで待ってくれ。私も村役場職員として仕事ってことにするからさ、協力しろよな」

「村役場からの頼みなら無下にできないわね。でも三十分よ。三十分以上は待てないわ。なんか神祇どもの出入りが活発化してンのよ」

「わかった」

 テレポンを切った。

 アイスマンとレビンが、イチヨの横に立っている。

「嬉しくないけど、上ウンマイのほうが賑やかになりそうだぜ」

 赤い瞳が。群青の瞳が。3が。――薄暗い室内に光った。

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