14 リヒ、そしてルーチェ

 四年前の放課後、夏が近づくころ。

 乾いた木造廊下を歩きながら、エントレーは校舎の外を眺めていた。カニタマウンマイウンマイ村を見下ろすように入道雲があぐらをかいている。高台の弐式校から見ると、まるで入道雲と目が合ったようだった。

 もう少しすれば、あの入道は不機嫌に黒ずんで雨を降らせるだろう。早めに仕事を終わらせて引き上げたほうがよさそうだ。

 エントレーは廊下を曲がって階段をおりようとしたが、一段を踏みだす前に、屋上につづくのぼり階段のほうから、人の気配がして立ちどまった。

「誰かいるのかー」

 返答はないが、代わりにギシリと木の床の鳴る音がかえってきた。

「もう下校時間だぞ」

 立ち入り禁止のロープをまたいで階段をのぼると、ほこりっぽい物置スペースに、体育座りする少女を発見した。知っている生徒だった。

「リヒ」

 エントレーは少女の名前を呼んだ。

 リヒが伏せた目をあげて、彼を見た。自分の名前が覚えられていたことに驚いているようだった。

「わたしを知ってるんですか」

「知ってるよ。ちょっと出席日数が少ないな」

 リヒは完全な不登校児童ではなかったが、学校に現れることが極端に少ない生徒であった。それは弐式校入学当初からであり、四回生にあがってもそれはまったく変わっていないと、エントレーは同僚教師たちからきかされていた。

 弐式校は一回生から三回生まで、四回生から六回生までを大きな区切りとしており、四回生にあがると校舎のとうが変わり、教師陣もがらりと変わる。四回生になったリヒはエントレーの領分に入ったことになる。

 それゆえにエントレーは新しい四回生全員のことを記憶していた。関わりがなくとも生真面目きまじめな彼だったからこそ、リヒの名を呼べたのだ。

「どうしたんだ」

「……」

 リヒはうつむいた。目が赤く腫れている。

 彼女の顔や腕にあざがあることを、エントレーは出会った瞬間から気づいていた。

「もう家に帰りなさい」

「……」

「さあ、送っていくから」

「……嫌です」

 そういうことか。イジメではないと薄々ながら彼はわかっていた。家に帰りたくないとは、そういうことなのだ。

「学校を家にされちゃ困るな。それにここは」

 と、見回す。エントレーはコホンと芝居がかった咳をして、

「ろくでもない場所だ。ほこりっぽいし薄暗い。こんなところに一時間もいたらキノコになってしまうよ」

「キノコに?」

「そうだよ」

 エントレーは「さあ」と彼女の手を引いて、職員室前まで連れていった。

「かばん取ってくるから、そこにいるんだよ」

 残業して処理するつもりだった仕事の書類をかばんに詰めこむ。リヒを「早く帰りなさい」と学校から追いだすだけ追いだして、仕事に戻る気にはとてもなれなかった。

 校門をでて、ふたりは取り留めてなにか内容のある話をするわけでもなく、ゆったりと並んで歩いていた。

「授業はついていけてるのか」

「いえ……」

「卒業できないぞ、そんなんじゃ」

「……」

「そう落ちこむことはないさ。ウンマイの弐式校なんてどんなバカでも卒業できるって有名なんだ。おれでも卒業できたんだからね。出席さえしてれば大丈夫さ」

 気恥ずかしそうに、無精ひげをコリコリときながらエントレーがいった。

 リヒはうっすらと笑ったが、また暗くなって、うつむいてしまった。

「……はい」

 お通夜のような返事だ。

「そろそろ夏休みだ。補習とかは? 先生から話はもらってないのかい」

「特になにも」

「夏休みに補習でもやれば正直、取り返しはききそうだけどね。出席日数にも換算できるし」

「あまり学校にはいきたくないです」

「おれが補習に付き合うっていったら、どうだ」

 リヒがまた驚いたように、エントレーを見た。

 彼女が学校にきたくない理由は傷やあざにあるのだろう。十六になる年頃の娘が、人前にでるには心苦しいものがあるというのは、男であるエントレーにもわかった。ほかの教師や生徒たちから突つかれる点でもあったはずだ。

 では、おれならどうだと、エントレーは提案した。

 このままではリヒはダメになると思った。なにかしらのきっかけを作ってあげられなければ、自分が教師である意味はないとすら彼は思っていた。

「個人補習。かなり詰めるから、プライベートな話をする暇なんかない補習になるんだが、どうだ」

 リヒがうつむいた。泣くことを我慢するように、必死にまばたきを繰りかえして力を目に集中させていた。

 きみは道端に転がる石ころじゃない、おれは真っ当にひとりの人間として扱う。その先は、きみが決断しろ。

 彼ができる最大限のことであった。

「返事は構わないんだが、終業式の放課後におれは図書室にいるから。そのときにきてくれたら補習をしよう。そこで、きみがこなかったら補習はなし。それでいこう」

 リヒがこくりとうなずいた。

 それから会話もなく、ふたりは歩いた。夕暮れ道がごろごろと音を鳴らして、明度を落としてきている。入道雲の機嫌がよくない。

 彼女の家は中ウンマイにあった。玄関の前でリヒはすっかり消沈し、心細そうにしょぼくれていた。

「じゃあ、おれはいくよ。雨が降りそうだし」

「はい……」

「大丈夫?」

「どうでしょう……でもエントレー先生。きょうは……ありがとうございました」

「きみがキノコになるのを防げた自分が誇らしいよ」

「あはは。……あ」

 パラと一粒二粒、しずくが落ちたと思うと、急にしの突く雨が降りそそいできた。

「マジか」

「先生……あの……」

「おれ、学生時代から傘を持つ習慣がなくってね。さすのが面倒で嫌いだったんだ」

「だと思いました。ひげもったほうがいいですよ」

「そういわれる覚悟もあるさ。面倒くさがりは面倒くさがった分の覚悟を持たなきゃいけないんだな、これが」

 エントレーはざざ降る雨の下に身をさらすと走りだした。かばんを守りながら振り向いて、リヒに大きく手を振った。笑いながらリヒも手を振りかえす。

 笑顔がとても似合う少女であった。


 終業式を終えて、夏休みがはじまった。

 カニタマウンマイウンマイ村は典型的な盆地であり、それだけに夏季と冬季の気温差がいちじるしい。凍死しそうだった冬季がどんなものだったか、すっかり忘れてしまうような暑さに達した夏休み初日、エントレーは図書室で涼んでいた。

 学校にやってきた錬金術師の口車に乗せられて、校長が買った巨大カキ氷器のような冷房装置が部屋の片隅かたすみで仕事をしている。氷を入れるとガリガリと爆音を鳴らしながら、上についたハンドルがグルグルまわって冷気を振りまくというイカレた装置なのだが、存外に涼しいのだ。うるさいのと燃費が悪いのが玉にきずなのだが。

 カララ……と図書室のドアがしおらしく開けられた。ノートを胸にかかえたリヒがおずおずと入室してきた。

「やあ、きたね」

 エントレーは嬉しそうにいった。彼女が勇気をだして、一歩を踏みだしたことが嬉しかった。

「頑張ります……」

「人生、別に頑張らなくたっていいんだよ。さあ、座って。まずは、きみがどこまでできるのか確認したいんだ。場合によっちゃ一回生の授業内容からスタートするぞ」

「さすがにそこまでじゃないと思います」

「よかった。それだったら夏休み補習じゃ追いつかない。きみに取り返せるといった手前、それじゃあおれも困るんでね」

「まあ、先生ったら」

 エントレーとリヒの夏休み補習がはじまった。

 おおむね勉強の進行は良好であった。学ぶことを真剣に楽しめるリヒの吸収力には、目を見張るものがあった。エントレーは、ときにアイスクリームやジュースを買ってきては彼女に差し入れた。そのたび、リヒは花を咲かせたように笑う。ふたりだけの夏休みは、外と比べて涼しい部屋のなかで、落ち着きを持って展開された。

 体にあざを増やした彼女が暗い顔で学校にやってくることもあったが、エントレーはそのことにはいっさい触れなかった。徹して、いつもどおりで補習を進めた。

「お節介野郎はクソだ」

「しかし助けを求められたときは全力で助ける」

「それができない奴はクソ以下だ」

 イチヨの父、ヒューゴのいっていたことに大きく感銘かんめいを受けた若き日のエントレーは、その言葉を忘れぬよう努めてきた。

 リヒの家庭問題に踏み入るのはお節介だ。動くとすれば彼女から助けを乞われたときだけだと決めていた。

 夏休みに入ってから一か月が経った。

 補習の途中、前置きもなく、いきなりリヒが「父は酒を呑むとひどいんです」と切りだした。父子家庭での苦痛と恐怖を、彼女の話をとおしてエントレーは体験した。

「きみは、おれにお父さんと話してほしくはないんだろ」

「……はい」

「わかるよ」

 いじめられっ子が親や教師に相談できないのと似た心理なのだろう。

 大人の持つ世界と子どもの持つ世界は、まったくの別物だ。当事者である彼らは、違う世界の者を呼びこんでも誰にとっても理想的な結果はもたらされないと知っているのである。

「じゃあ、おれにどうしてほしい?」

「わたしはどうすればいいんでしょう?」

他人事ひとごとの意見をいうよ」

「実際に他人事ひとごとです、お願いします」

「しっかり卒業して親元を離れる。おれならそうする。面倒くさくなくていい、後腐れもない。忍耐にんたい力は試されるがね」

「……ですよね」

「仕事を見つけなきゃいけない。その場合、弐式校卒業はひとつの武器になる。戦うならおれは協力するよ、補習だけでなく無事に卒業できるまでトコトン」

「いいんですか、本当に」

「これでも教師やってるんでね。でも苦しいのはおれじゃなくて、きみだ。おれにできるのはフォローだけ……どうする。」

 ――夏休みが明けて、リヒは学校に登校するようになり、エントレーの家にもくるようになった。

 十六歳の少女と三十一歳の男。この組み合わせは大きな顔をできるものではない。隠そうとしても噂は村中にまわっていき、ふたりの関係が怪しまれるようになった。

 そうなっても、エントレーが彼女とともにあったのは、同情や使命感だけではなかった。ひどく傷ついた、しかし芯をしっかりと持ったリヒという少女に惹かれるものがあったからだろう。

 そして、ふたりが男と女であったからだろう。


 エントレーとリヒが出会って一年。

 真っ赤な夕日に巨大な影を作る校舎で、エントレーはルーチェに出会った。五回生の教室に二回生の彼女がいたのだ。

「きみ、なにをしてるんだい」

「……夕日を見てたの」

「五回生じゃないね」

「二回生よ、転校してきたの」

「せめて二回生の教室じゃないのかい」

「この教室から見える木が好き。夕日がいっしょになると綺麗……」

 上級生棟側の校庭に立つ大きな一本の木、その高さは五回生の教室とほぼ同じである。

 独特の雰囲気をまとうヘアバンドの少女に彼は、リヒを重ねた。ともにかわいらしい顔だが、顔自体は似てはいない。なにが似ているのかわからなかった。だが、たしかに同じ空気を持っているのだ。

 以降の放課後、彼の教室にたびたび現れるようになったルーチェと、たわいのない会話を交わすようになり、親交が深まっていった。

 ルーチェは十四歳にしては大人びているが、地はおそらく明るく面白い子だと思えるものがある。その素顔が表にでてこないのは、彼女がリヒと同じように孤独な傷を胸のうちに秘めているからだ。

「今度の新しい里親はいい人。それだけだけど」

 ある日、少女は話のなかでそういった。里親をたらいまわしにされてきて、その上、学校にも馴染めずにいるようであった。

 下ウンマイこそ誰でもウェルカムといったふうであるが、カニタマウンマイウンマイ村には排他的な側面があり、特に上ウンマイと中ウンマイはその傾向が根強く残っている。転校生が孤独になるのは十分に考えられることであった。

「この村には、そういう悪いところがある。……寂しい?」

「……うん」

「なんでわたしがって思うかもしれないけど、きみが少しだけ変わらないといけないんだ。人間関係で大事なことのひとつに、たぶんだけど……自分をどれだけ解体して、組み立て直せるか……というのがあると思うんだ。きみはもう少しだけ歩み寄ってもいいかもしれない」

「……よくわからない」

「はは、おれも教師の立場でこんな夢のない話はしたくないんだけどね。……そうだ、ウチの集落にきてみるかい。彼らを見たらどういうことか、なんとなくわかるかも」

 後日、エントレーはルーチェを北集落に連れた。

 イチヨやジョージといった村人たちに会わせることが、なにかいい効果をもたらすと期待していた。実際、冷たい影を横顔におろしていたルーチェがここで楽しく笑う姿を、エントレーは見た。

 ゆっくりと明るくなりはじめ、エントレーの家に遊びにくるようになったルーチェを、リヒは妹のようにかわいがった。ルーチェもリヒを姉と慕い、三人がまるで疑似的な家族のように機能するようになるのに、そう時間はかからなかった。

 村人たちは「大丈夫かよ」と口にしつつ、三人を近くで見守っていたが、逆にイチヨとオルアと村長の三人が離れていった。

「エントレー、あまり入れこまないほうがいいと思うぞ」と、イチヨがいった。

 あまりにいびつで不安定な三角関係を危惧きぐしての忠告だとエントレーは受けとめた。

 彼もバカではない。自分の行動でどうにも変なことになっているとは自覚していた。それでも、やめるにやめられない魔力がこのトライアングルにはあった。彼の居場所がそこに形成されつつあったのである。

 ――リヒは無事に卒業し、立派に巣立った。

 その一年後に彼女の父が急逝、さらにその一年後に彼女が死んだ。交わした睦言むつごとのなかにあった未来が叶うことはなくなってしまった。

「リヒ」

 あとになるにつれて胸が締めつけられ、勝手に早送りになるいつもの回想は。彼をさいなんで苦しめる日々の夢は、無人となった学校の廊下の奥にたたずむリヒの姿が見えて、終わる。

 だが今回は、手を伸ばせば、リヒに触れられそうな距離感があった。

 エントレーは近づいた。

「リヒ」

 リヒが振り向いた。懐かしく、愛しい顔が――ない!

 比較的デカいサイズのカニがバカ面をして、エントレーの前に浮いていた。

「カニ!」

「お前じゃねー!」

 カニの頭にリヒの髪だけ名残なごりとでもいわんばかりに、申し訳ていどに乗っているのが、非常に腹立たしい。

 リヒはどこにいったのかと、廊下を見渡す。すると、なにかの力に押されて、仰向けに倒れてしまった。廊下の景色がドロドロと溶けてゆく。

 ハサミが彼の首を挟んで地面にドカッと突き刺さった。これ以上ハサミが閉じられたら、首が切断されてしまうだろう。

「起きろ、エントレー。神祇どもがきた。あと這うカニが餅を拾う、悪い意味で」

 運が悪いといいたいらしい。


 エントレーがベッドから飛び起きた。ぐっしょりと全身が汗で濡れている。

 ルーチェの無事をテレポンで確認したあと、疲労と負傷で動けなかったエントレーは自宅で眠った。リヒとルーチェの夢を見て、カニさまとまた出会った。

 ゾッとするが突として、足先から脳天にまで走ってきた。邪悪な殺気に打たれて、エントレーは身震いした。

 おそるおそる部屋を見回す。

 闇のなかに三つの眼が浮かんでいる。異形の眼が二つと、大きな一つ目。

「なんだ、起きちゃったの」

「殺そうと思ったら起きた」

「運のいい奴」

 カニさまに起こされていなかったら死んでいた。しかし起きたからといって、この状況は依然変わりなく絶体絶命である。

 あと這うカニが餅を拾う……いい意味で? 悪い意味で?

 どっちだ。

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