6 無限沈沈沼

 体育館の熱狂はすさまじいものがあった。

 なぜか女子バスケ部の拡散波動砲が混ざりこんだチームと、顧問エントレー率いるチームの熱戦に燃えているのだ。

 ただの熱戦ではない。男子バスケ部と女子バスケ部が、双方に混合する実に珍しい試合になっている。それだけにとどまらず、体育館を利用していた他部活の生徒たち、文化部や帰宅部の面々、さらには噂をききつけた教師たちまでもが観戦に駆けつけて猛烈な声援を送っていた。

 イチヨはドジをかまして転んだり、勝手にひとりで吹っ飛んだりしつつも、突如として稲妻のようなスピードで人を追い抜き、波動砲と化したパスをつないだりする。バネのように跳ねてダンクシュートを決めることもあれば、追い詰められてヤケクソで投げたボールで超ロングシュートを決めたりする。もともと持っている彼女の運動神経、それ自体はいいのだ。

 支離滅裂しりめつれつで、予測不能なイチヨのスタイルは混乱を招きつつも爆笑を呼んだ。「締まっていこう」とげきを飛ばし、敵味方や男女も関係なくミスした者を励ましては助言を何気なく添えて鼓舞させていた。

 イチヨのチームメンバーだけではなく、場の全員が一切の屈託なしに燃えて、誰もが率先して試合を楽しんでいた。女子バスケ部から借りたユニフォームを着て、健康的な汗を輝かせるイチヨもまた、目一杯に日々の鬱憤うっぷんを晴らして楽しんでいるのだろう。

 エントレーにしても例外ではない。運動に気乗りはしなかったが、いざやってみると楽しい。青春時代に戻ったように体が自然に動くのだ。主に横向きに。

「カニカニ……」

 わく観客のなかには、腕を組み、あぐらをかいて壇上の真ん中を陣取りながらエキシビション・マッチを丸いめがねで眺める兵士の姿もある。六回生のクラスを視察しにいったときいていたが、放課後は体育館の様子を見にきているらしい。

 パスを受けて、イチヨが軽いフットワークで躍りでた。ボールをバウンドさせ、身をかわしながらゴールへと駆ける。

 エントレーが手を広げてカニ歩きで、イチヨの進攻をはばもうとする。

 ふたりの距離がせばまり、オフェンスとディフェンスの勝負がはじまろうとしたとき、体育館の二階にあるガラス窓を割って、まるで特攻隊のようにカラスが突っこんできた。

 イチヨがきゅっと床にシューズをすべらせて緊急停止した。

 カラスの進行線上にいるのは、メガネ兵士だ。狙いは兵士だ。

 檀上から兵士がタンと跳んだ。人間に可能とは思えない跳躍力である。

 空中でねじりをきかせて、繰りだされたサバットがカラスを打った。

 高速で飛来する物体に、不安定な姿勢から真心で蹴りをブチ当てて、兵士はなんなく着地した。壁にカラスが叩きつけられたのと同時だ。

 イチヨが落としたボールが跳ねるごとに高度を下げ、コロコロと床を転がった。エントレーも異様な光景に息を呑んだ。

「ラウムか」

 丸メガネがぽつりとつぶやくのにかぶさって女生徒が悲鳴をあげると、いっせいに体育館にいた者たちが我先にと出口に走りだした。

 エントレーはカラスの遺骸いがいから目を離さなかった。喧騒けんそうのなかで生徒のひとりが彼の前を横切ったその一瞬だけである。彼の視界からカラスが消えたのは。しかしその瞬間的な間に、こつ然とは消えた。

「あれっ」

 そのことに、エントレー以外の誰も気づいていない様子である。

 困惑しながら教師たちが兵士に駆け寄って、なんらかを必死にききだそうとしていたが、兵士はなにも答えずにイチヨの前に立った。

「……姉ちゃん、名前は」

「イチヨ。アンタは?」

「アイスマン。視察にきた兵士のひとりだが……いまの俺様、かっこよかっただろ」

「ん、あ、ああ……」

「惚れるほど最強だろ」

「いや……」

「お前の顔面偏差値たっけーな。最強である俺様とヨロシクする権利があるぜ」

 そういって、アイスマンがメガネを取った。

 3がふたつ、両目の部分にある!

「目が3じゃねーか! 実在したのかッ!」

 イチヨの両膝がガクガクと笑いはじめた。

 無理もない衝撃である。エントレーからしてみても、はじめてお目にかかる代物だった。メガネを取ったら目が3になる人間は、てっきり空想上の存在だと思いこんでいた。

「最強きわまる俺様の女になりたくてたまらない、そんな反応だな」

「いや逆も逆だ、絶対に断る」

「じゃあ、金貨五枚で今晩どう?」

 アイスマンが財布を取りだして、金貨をちらつかせた。

「そのセクハラ発言を許すための金貨五枚なら、もらおう」

 しげしげと3の目を観察しながらイチヨがいった。こういう手合いへの返し方は慣れているのだろう、受け流すような調子はお手の物だ。

「このクソアマ!」

 修羅のような顔で言い放つと、アイスマンは生徒たちが逃げたほうへ歩きだした。

 教師たちがうなずき合ってあとを追い、エントレーとイチヨだけが残された。

「やべーな、アイツ……」

「兵士か……いまのカラスは神祇、なんだろうな。カラスは消えたが」

「あら、ホントだ」

 いよいよもって、エントレーの顔は氷を刻んだように青くなった。平穏平凡な日々が、この一日を境にあふれだした「なにか」に浸食されているのを強く感じたからである。

「カラスはいなくなったが、夢や妄想ってわけでもないらしい。窓は割れたまんまだぜ」

 と、狐に化かされたように呆けてイチヨはいった。

「すごい跳躍だった、人間に可能なのか。兵士ってのは、あんな水準なのかな」

「ダンクシュートなんざわけねぇやな」

 人間離れした人間を見たのは、はじめてではない。そんな懐かしそうな笑みが彼女にはあった。


 村は山に囲まれている。

 唯一、山がないのは村の正面玄関にあたる南側だけである。縦長の村は山に挟まれて伸び、村の北側でひときわ大きな山々となってそびえ、行き止まりとなっている。つまり、上ウンマイの東西の端には、それぞれ山があるということなのだが、東の端の手前に弐式校はあった。

 校舎を見おろす山は裏山と呼ばれ、野外活動などで利用されている。校舎と体育館の間にある長い渡り廊下、そこから見える森とは、この山の足元なのである。

 本日、裏山のなかにある沼で、生徒会による清掃がおこなわれていた。まだ明るい、夕方前のことだ。

 沼は「無限沈沈沼むげんちんちんぬま」と、弐式校が開校する以前より地元民たちから呼ばれ、いまもその名でとおっている。一説に、この沼には底がなく、一度落ちれば永遠に沈み、二度と浮きあがってはこれない悪魔の沼だといわれているのだが、事件があったという記録はない。

 沼清掃は静かなものだ。粛々しゅくしゅくとゴミを拾っている。真緑のペンキのように濃いアオコにおおわれた沼には、もはやなんの手出しもできないが、生徒会の彼らは周囲だけは着実に綺麗にしていっていた。

 ジャージを着て、ルーチェはせっせとゴミを集めては袋に詰めている。

 彼女についてきたブランドンは、着替えずにまったくそのまま豪華な衣装に身をつつみ、踊っているだけだ。腕の下に短冊状にヒラヒラ垂れさがったフリンジをなびかせ、フレアパンツ独特の広がったすそを雑草にブチ当てて激しく動いていた。

「ご苦労さーん」

 ユニフォームのままバスケットボールを脇にかかえたイチヨを連れて、エントレーが手を振った。

 汗を流す生徒会の面々も手を振ってこたえた。

「先生にイチヨ。どうしたの」

「ちょっといろいろあって部活が中断されたから、差し入れにきたよ」

 かついでいたバスケットをおろし、なかからビンの水を取りだした。

 手持ち無沙汰になり、「生徒会の様子を見にいこう」とエントレーがいって「だったら差し入れも持っていこう」とイチヨが乗ったことで決まった話だった。

 まだ虫たちが活発に動きまわる前、涼しさが残る時期にあって、汗を流す殊勝な精神の男女たちが喜んで集まりだした。

 同じく寄ってきたブランドンをイチヨが凝視している。話ではすでに無礼な口をきいたみたいだが、そういう態度はひかえてほしいとエントレーは内心で求めた。

「マジでなんなんだ、そのカッコ。兵士かよホントに」

「兵士だYO! さっきからなんなんだYO!」

「天然記念物の間違いじゃないの?」

 いっちゃったよコイツ。

「イチヨ、失礼なこというなって」

「だってさー」

 願い通じず、兵士に対して相当に無礼な態度をとるイチヨに、エントレーはあせあせとしたが、ブランドンは怒るよりも冗談めかして「くらえ、ハッピードリル」などとほざきながら彼女の顔にアフロを押し当てて遊んでいた。実に寛容な兵士だ。のんきな村兵ならまだしも、王都の兵士にしては珍しい。

 ふと輪のなかにルーチェがいないのに気づく。

 エントレーは沼のほうを見た。彼女は口元に手を当てて、ほがらかに笑っていた。こっちにおいでと手招きすると、ルーチェがトトとやってきた。

 森が視界の端で揺れた。雑木林のなかから触手らしきものが伸びてきて、ルーチェの足首にからみつき、彼女を放り投げた。触手はすぐに地を這って、森のなかへ消えた。

 うしろの緑の沼にルーチェは転落した。水音に一同が振り向くいたときには、すでにルーチェがおぼれていた。

 生徒会の彼らはなぜそうなったのか、その瞬間を見ていないだろう。ブランドンを押しのけながら水をひとりずつに手渡していたイチヨも。

 見ていたのはエントレーだけだ。

 それがなんだったのかを考えてしまい、エントレーはとまった。奇怪な存在に圧倒されていた。

 こわばった表情で手をバタつかせ、必死に顔をだすルーチェが見える。声もあげられずに浮き沈みを繰りかえしていた。

 生徒会の誰もが動かない。棒立ちになっているだけだ。

 思考を追いやって、エントレーが走りだした。「よせ」とうしろから発せられた声を無視して、沼に向かって跳んだ。まるで世界がスローモーションになったかのような感覚に襲われた。陸地から足を放した瞬間から、ゆっくりと自身の体が沼に吸いこまれるようであった。

 汚れたいわくつきの沼に足から着水する。汚れること、自身がおぼれるかもしれない可能性も投げ捨てて。

 教師として飛びこんだわけではなかったし、ましてや人間として飛びこんだわけではなかった。エントレー個人として飛びこんだのだ。

 まとわりつく重みが、沼の水にはあった。粘性をおびて、侵入者をこばむ液体を必死にかきわけながら泳ぐ。

 暴れるルーチェの手をつかんだ。

「落ち着け、大丈夫だ!」

 強く彼女の耳に声を張っても、ルーチェはもがいて水面を跳ねあげている。それどころかパニックになってエントレーにしがみつき、沼のなかに押しこもうとしてくる。エントレーを小さな浮島と錯覚さっかくしているようだ。

 おれまでおぼれてしまう、クソ……!

 焦燥しょうそうに駆られたが、沼に鼻上まで沈んで、その感情が急速に緩和された。

 ――息の苦しさがない。

 ルーチェの息さえつづくのであれば、沼の底を歩いたほうが楽なのかもしれないと思えるほど、くさい水中は問題がなかった。

「そいつにつかまれ!」

 すぐ近くにバスケットボールが投げ入れられた。イチヨだ。

 エントレーはパクつくルーチェの口に指を当てて、ボールに抱きつかせた。つかまっても浮くものに触れて、彼女が多少の冷静さを取り戻したのを確認し、エントレーは彼女の片腕を自分の肩にまわした。

 深呼吸ののち、彼女の腰に手を巻きつけて、ゆっくりと泳ぎだす。

 ふたりが陸地に近づいたあたりで、イチヨが手をさしだしながら「なにしてる、私を引いてくれ」と、棒立ちの生徒会の男女たちにいった。彼らはあわててイチヨの体をつかむと引っ張った。

 エントレーとルーチェが陸地に引きあげられた。

 生徒たちが反射的にうしろに引いた。沼の悪臭と汚れから、ふたりに触れることを拒否したのだろう。仕方あるまいと思いつつ、やりきれない気持ちはぬぐえない。

 腰を抜かし、号泣しながら震えるルーチェの背中をイチヨが叩いて、水を吐きださせている。そして彼女を優しく抱き締めて、頭をでていた。

 疲弊ひへいして地面に両手両膝をついたエントレーは、イチヨに「生徒のために飛びこむ勇気は見事だけんどもよ。ちと危なすぎるな、教師にしちゃあ迂闊うかつだぜ」と、たしなめられた。

 まったくそのとおりだろう。ふたりで沼に沈んでもおかしくない状況だった。

 重い水滴を髪からしたたらせながら、エントレーが顔を向けると、イチヨが目を細めて微笑んでいた。

 年下ながら、ものが違う。……彼は複雑な心境で微笑みかえした。

 イチヨは、ルーチェをエントレーに預けて立ちあがった。

「あの天然記念物はどこに消えた?」

 ブランドンがいつの間にか、いなくなっている。周囲の生徒たちもあたりを見まわしているあたり、誰にも気づかれず彼は消えたらしかった。

「助けを呼びにいったか、それとも……」

 イチヨが沼のほうを見た。元どおりの静けさを無限沈沈沼は取り戻している。

「……まぁいい。風邪引く前に戻るぜ」

 イチヨは目を伏せた生徒会の面々の間を抜けて、山をおりはじめた。そのあとに、ルーチェに肩を貸しながらゆっくりとエントレーもつづく。

 彼の弱った視線は、触手が飛びでて戻っていった森のなかに向けられていた。

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