2 悪夢の予兆

 村と呼ぶよりは、町と呼んだほうが適切なくらいの賑わいと密度がある上ウンマイのなかに、弐式ウンマイ普通教養学校はある。

 十三歳から十八歳までの一般の生徒たちが通う六年過程の学校がそれに該当する。専門性はないが、一般教養を学びながら、社会的交流を体験することできる機関施設である。

 カニタマウンマイウンマイ村には、壱式校が上ウンマイに一校、壱式分校が下ウンマイに一校、そしてこの弐式が一校と、合計で三つの学校があり、村の若者たちはそこで十二年間を過ごして巣立ってゆく。

 なお、偏差値はどれもきわめて低い。

「先生、遅刻するぞー」

「立ったまんま寝てんのかー」

 並木坂をのぼってゆこうとする生徒たちにおちょくられて、エントレーはハッとした。意識しないうちに、坂の手前にひっそりと存在する森の古道を遠望して、立ちどまっていたらしい。

 深い森林の緑と同化して、木の根が張りめぐらされたこの道は、いまだ晴れない朝霧によって幻想的にいろどられており、こちらと同じく太陽光の下にあるはずなのに、厳然な青を大気の色として漂わせている。

 木漏れ日と形容するのが正しいのか、太い光が樹木の間から力強くし、その斜めになった天然のスポットライトに、絶え間ない落ち葉が照らされている。このさまをじっと見ていると、目というよりも魂が魅惑され、吸い寄せられるのだ。

 この古道は、ウンマイ古道と呼ばれ、カニタマウンマイウンマイ村の内部全体と外周の山や森に広がる広大な連絡旧道として、いまも機能している。

 だが、住宅が密集したエリア内に展開している古道ですら独特の雰囲気をかもしだしており、村人たちはあまり進んで使おうとはしない。村を囲む山側や森側の古道となれば、その傾向はより顕著で、それらがこの古道の神秘性を向上させているのだった。

「いかないと……」

 エントレーは古道から並木坂に体を動かした。

 心臓破りの坂をのぼらねば、弐式校には決してたどりつけない。多少、時間を気にかけながら、エントレーは坂をのぼりはじめた。

 彼に朝の眠気はなかったが、小道を眺めていたときから染みるような頭痛があった。ぐわんぐわんと脳内を鳴らされているようだ。突き抜ける白がいきなり視界に広がったり、いつもの通勤風景に戻ったりとまるで安定しない。サブリミナルで大きなカニがイメージに混ざりこむのも不快といえば不快であった。

 そんな状態でありながら歩けるのは、これがただの頭痛や身体的異常とはなにかが違っていたからだ。痛みは痛みでも苦痛とは違うなにかだった。

 エントレーの右耳に、がさりというノイズが入ってきた。反応したときにはすでに遅く、いきなり樹冠じゅかんからはばたいて現れたカラスの黒く小さな脚に、彼は蹴られてしまった。

「うわあ!」

 冷水をかけられたように目が冴えた。心臓破りの坂で、坂とは関係のない要因で心臓が破れるところだった。

 傍若無人ぼうじゃくぶじんなカラスは鳴き声もあげずに飛び去っていった。

 集まってきた生徒たちが口々に投げかけてくる言葉に「大丈夫だよ」「先生をからかうんじゃない」とありきたりに、努めて冷静に返答したが、まだ緊張と気恥ずかしさが残っている。

 一方で頭痛は嘘のように消え、いつもどおりの調子が戻ってきていた。

「せんせー!」

 高い声が、気を落ち着かせようと深呼吸するエントレーの背中を打った。坂の下から息を切らしながら生徒のルーチェが駆けてきた。

 器量よく、心優しく、誠実で善良な、かわいらしい彼の教え子だ。彼が沈みこむようになってから彼の気を案じてか、より積極的に話しかけてくれるようになった彼女の存在は、彼にとって決して小さくはない心の支えのひとつとなっている。

「おはよう、ルーチェ」

「きょうも下ウンマイからご苦労さまです」

「慣れっ子だよ」

 ルーチェにまで笑われてはたまらない。いつもどおりを装ってはみたものの、実際には流れていないはずの冷たい汗が全身の表面を流れていた。感覚の汗だ。

 走ったおかげでズレてしまったヘアバンドをクイと直し、身だしなみを整えたルーチェはエントレーの横に並んだ。どうやら彼の動揺には気づいていないらしかった。

「おや。どうしたんだ、その首」

 ルーチェの首に四角形の小さなガーゼが、紙のテープで貼りつけられている。

「え、これですか」

 首筋を触りながら「虫刺されかなにかを、いちゃって」と、恥ずかしそうにルーチェは笑いながらいった。

「はは。そういうのは掻いちゃダメだぞ」

 エントレーのほうに体ごと向けて、かばんを背中にまわしながらルーチェが、

「先生、きょう兵団の人がやってくる日でしたっけ」

「そうだよ。俺もはじめて会うんだが、ちょっと緊張するよ」

「わたしたちのクラスに、くるんでしたっけ」

「向こうのご指名でね。ほかだと気が楽だったんだが……」

「クス、面白い人だといいですね」

「そういう人種は、もうお腹いっぱいだよ」

 彼が思い浮かべたのは近所のイカレた村人たちだ。それがわかったのか、ルーチェがこらえるように笑った。エントレーに勉強を教えてもらうという名目で、たびたび北集落に遊びにきている彼女だからこそわかるのだろう。

 笑い合ってふたりは、生徒数のわりには大きく造られた木造校舎に入った。

 カラスの羽がひらりと校門に舞い落ちたのに気づいたのは、遅刻ギリギリの生徒だけだった。


 カラスに驚かされたこと以外は、変わり映えしない平穏な午前だ。

 ふたつの授業を終えたエントレーは、自身が担任として受け持つクラスに戻ってきていた。次の授業は彼のクラスでおこなわれる。

 兵団から視察に訪れた兵士のひとりを教室に迎えるのは午後。行儀よくするように生徒たちにいわないと……などと考えている間に、教卓に座っていたエントレーはルーチェを中心にした男女グループに囲まれていた。

「そういえばさー、あの噂きいた?」

「噂?」

「ルーチェ知らねーの。なんかさ、上ウンマイで歩くがい骨にあばら骨投げられた人がでたらしい」

「中ウンマイの知り合いのおじさんも、二足歩行の巨大ウサギに追いかけられたとかいってたよ」

神祇じんぎだって、絶対」

 休み時間に、次の授業がはじまるまで、彼が教卓の前に置いた椅子に座っていると、生徒たちが意味なく集まってきて談笑する。それはいまにはじまったことではなかったし、どこのクラスにいても同じだった。気づけば生徒たちの話に巻きこまれている。

「それだけじゃなくてさ、変な騎士が歩いてるのを見たって話もきいたぞ」

「騎士? それは人間でしょ」

「いまどきにか。それに夜中にひとりだぞ。古びた鎧をつけててな、ぶっといロングソードとなんか長い銃を腰のベルトにさしてたって」

「人間だって。頭おかしいんだよ」

 今回、語られているのは物騒な噂話だ。これがただの噂であれば、どれほどよかっただろう。職員会議に参加する義務を持つエントレーにとって、これらはすべて噂ではなく真実の話であった。

 祇神の目撃情報が多発し、他校から警戒情報網としてまわってきていた話がカニタマウンマイウンマイ村までやってきていた。

 神の敵対者たちが、なんの前触れなく生活圏に出現するのは摂理のひとつだ。ありえることだ。噂が立つたび、報が入るたびに大人たちは警戒し、村兵の巡回強化を求めた。

 学校側はすでに村兵に要請をだしており、そして妙なことに王都からふたりの兵士が村に派遣されるに至った。いままでにない事例だった。しかも、そのふたりは学校を視察するといって校長から許可をもらったという。

 この兵団の動きがエントレーから見ても不思議であり、なんだかんだで神祇被害をまぬがれてきたこの村に似つかわしくない展開でもある。

「関係あるかはわからないけど……私もね、ちょっと気になることが……」

「えっ、どしたのルーチェ?」

「なんかあった?」

「夢、なんだけどね……ちょっと前から同じ夢ばかり見るんだ」

 面白そうに話をきく態勢に入った生徒たちの横で、エントレーは背中を椅子から離した。今朝に見た妙なカニの夢が彼の頭をかすめていた。


 夜はふけて、村はすっかり静まりかえっている。

 ルーチェは肌寒い風を感じて、ベッドから起きあがった。

 真っ暗になった部屋には月明かりの青い光が射しこみ、うっすらと家具やぬいぐるみたちを照らしている。カーテンが風に揺られて波打っていた。

 身震いしながら開いた窓を閉めて、ふたたびベッドに潜りこもうとすると、

「こんばんは、ルーチェ」

 種類豊富に棚の上に並ぶぬいぐるみたちのなかから、熊のぬいぐるみがペコリとお辞儀をした。

 人間が想像できることは、すべて起こりえることである……とは誰かのげんだ。人形が口をきくなんていうのはポピュラーな想像だろう。だが、いざそれに遭遇すれば肝は冷える。

 あとずさりする彼女を気にとめず、ぬいぐるみはちょんと立って棚からおりた。

「こっちだよ、こっち」

 ぬいぐるみは丸い手で手招きした。ドアが開いている。

 彼女は動かなかった。微動だにせず固まっていたが、いきなり吹いてきた冷たい風に押されて、よろよろと前にでた。閉めたはずの窓が開いている。カーテンの波は大きくなり、強い風が外から吹いていた。

 逃げるようにルーチェは廊下にでて、きしむ階段をおり、里親夫婦の寝室に向かったがドアの前にぬいぐるみが立っていた。

「こっちじゃない、あっち」

 玄関のドアが開いた。

「さあ」とうながされ、ルーチェは家の外にでた。夢遊病者のような、あるいは酔歩すいほするように雲を踏む足取りで。

 家の前の道の両脇には、彼女がいままで見たこともない怪物たちが花道を作るように並び、膝を突いて頭をさげていた。下半身が蛇の女や、ボディビルダー顔負けの肉体を持つ紫一色の一つ目マッチョ、巨大なアリ、湯葉のような薄い膜らしき生命体――常軌じょうきを逸した連中がルーチェを待っていた。

 ……神祇だ。

「こっちだぁよ」

 列のなかから、でっぷりと贅肉ぜいにくをたくわえたオークが汗を垂れ流しながらルーチェの前にでた。いい男がいい女をエスコートするように、熱気放つ究極のデブは彼女を先導しはじめたが、そう歩かないうちに息を切らして立ちどまってしまった。

「どうしたの?」

「はぁ……はぁ……わき腹が……」

「え、この距離で?」

 喘鳴ぜんめいするだけで、脂肪の塊は地に根を張ったといわんばかりに動かない。見かねた様子でもう一匹が立ちあがり、彼女の前に立った。

 またオークだった。

 それは頭から垂れた滝汗をぶよぶよの腕でぬぐいながら、

「この運動不足の豚汁野郎、オラが代わるだよ。そこで休んでるだよ」

 そう声をかけて、全身から大粒の汗を垂らして座りこんでいるオークの肩に手を置いた。

「サンキュ、今度トンカツおごるだよ」

 共食いじゃん。

 結局、第二の豚汁野郎も数歩でダウンし、案内役はいつの間にか無言でよたよた歩くミイラに代わっていた。

 神祇たちの花道が途切れると、どこからか射すスポットライトに照らされた男がひとり立っていた。不健康そうな白い顔に、病的な眼が邪悪の色を光らせている。ロングコートをはためかせて、その男はそっとルーチェを指さした。

 脚が震えた。神祇よりもよっぽどマトモそうに見える人間に、たとえようのない異常な恐怖感を覚えて、嘔吐おうとしそうになった。

「怖いか」

 水面を歩く浮力でルーチェの目の前にまで接近すると、男はぶつぶつとなにかをつぶやいて人さし指を彼女の額にトンと当てた。

 鉄を叩く音とともに、波紋がルーチェの額と男の指先の間に壁となって広がった。

 彼女は目を静かに閉じて、その場に倒れこんだ。

 周囲の神祇たちは動かない。男もまた人さし指を伸ばしたまま動かない。

 闇が濃度を増して、あたりを包み染める。

「怖いか。お楽しみは、ここからだ」

 夜ふけよりも深い暗闇が、静寂せいじゃくにまどろんだ。


 ――生徒たちは授業内課題にコツコツといそしんでいる。

 その課題をだしたエントレーは教卓の前に置いた椅子に座って、ルーチェの夢の話を回想していた。

「先生」

 ……神祇らしき魔物たちに迎えられたルーチェの夢、今朝に自分が見たカニの夢、妙な体調不良、生徒たちの間で広がっている噂、兵団の異質な対応……

 それらがどうしても無関係に思えず、彼は額に手を添えてでた。考えこんだとき、不安を感じたときに無意識のうちに取るエントレーの行動であった。

 ルーチェは「起きたらベッドのなかだったし、ただの夢なんだろうけどね」と笑っていたが「でもちょっと怖いかも。先生、なにかあったら助けてくださいね」と、自分の席に戻りながらいった。

 課題をこなす彼女は、少し沈んでいるように見える。

「先生」

 そういって、エントレーによくなついた女子生徒が過去にいた。

 彼は、彼女の六年間を見守り、卒業式には不器用なエールを贈った。村の親元を離れて町へ働きにでていったあとも、ときどき北集落に遊びにきていた彼女の名はリヒといった。器量よく、心優しく、誠実で善良な、かわいらしい子だった。

 ……だった。

 ちょうど一か月前、彼女は死んだ。ジョージからリヒの死を伝えられ、エントレーは愕然がくぜんとした。副村兵長マックスから話をきいた村役場のジョージによると、どうやら夜道で神祇の襲撃を受けたらしい、とのことだった。それ以上の詳細は語られなかった。

 それからの一か月、毎夜、生きていたころのリヒが夢のなかにでてくる。気は沈むばかりだ。イチヨやレビンや村長が、エントレーに気を遣うのは、このためだった。

 リヒとルーチェは似ている。よく似ている。放課後の夕日に焼かれた教室で、そのせきとした横顔を見たとき、どきりとしたのを覚えている。顔が似ているのではない。もっと根源的ななにかが似ていた。それだけに恐ろしく――

「先生ってば」

 生徒が終わった課題を持ってきて、顔をのぞきこんでいた。

「ああ、すまない」

「寝てたんですか」

「ぼーっとしてただけさ。おれはいいけど、お前たちはぼーっとするなよ」

「なんだよそれ」

 教室中の生徒たちが笑った。

 この笑顔を守らねば。なにかが起きるのかもしれない。すでに、なにかが起きているのかもしれない。生徒たちを、ルーチェを守らねば。それが大人の役目だ。

 そう自分にいいきかせて、エントレーは提出された課題に目を通しはじめた。

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