1 魔が差してしまったのです。


 その日のあたくしは今にも吐きそうな程に緊張していました。

 あれはあたくしの六歳のお誕生日のこと。いつも通りお庭でお散歩をしようとしていたら突然、輝くほど美しい男の子を紹介されたのです。

「エイプリル、こちらはナサニエル殿下だ。お前の婚約者になるお方だよ」

 白髪交じりのお父様は優しく笑んであたくしを呼びました。あたくしはお父様が高齢になってから生まれた子なのでとても大切に可愛がっていただいていると思います。しかし、この日は、なんとなく恐ろしいことの前触れの様に感じられました。

「やぁ、エイプリル。はじめまして」

 きらきらと。それはもう無駄にきらきらと輝いた彼は我が国唯一の王子様だと言う。一瞬女の子かと思ってしまうほど美しい彼は、なにも返事ができずにいるあたくしの手を取り、その甲に口づけました。

 その刹那、体は勝手に動いてしまいました。

 それはもう、掌がじんと熱を持つほど。

 思いっきりナサニエル殿下の頬を叩いてしまったのだと気がついたのはお父様が慌ててあたくしを抱きかかえた瞬間でした。殿下はなにが起きたのか理解できずにぽかんとした表情でしばらく硬直し、それから潤んだ瞳であたくしを見ました。

「エイプリル……どうか僕の妻になってください」

 こんどはあたくしがぽかんとする番でした。

 一体なにがどうなってしまったのでしょう。とても無礼なことをしてしまったというのに、彼はあたくしに叩かれた頬を愛おしそうに撫でています。

 一瞬硬直したお父様はそれでも嬉しそうに殿下とあたくしを見て、それから、殿下と一緒に屋敷に来た立派な服装の人となにやら嬉しそうに話をしていました。




 なぜ今更あの日のことを思い出したのかわかりません。

 けれども、はっきりしているのは今のあたくしにはあの日のような行動力もときめきもないと言うことでしょうか。

 殿下の婚約者となって十年。初めのうちは素敵な王子様と物語のような幸せな未来を想像して期待で胸がいっぱいでした。本当にナサニエル殿下はとても美しく穏やかで素敵な方だったので、この方と結ばれたいと、心から願ったのです。

 しかし、その幸せな気持ちは長くは続きませんでした。

 殿下にはあたくしの他に五人も婚約者がいます。婚約者はあくまで婚約者で本当に結婚する必要がないと言うのが我が国の王族の考えであると知ったのはまだ十にも満たない頃でした。婚約したからと言って彼と結婚できるわけではなく、私は数ある候補の一人でしかなかったのです。

 この婚約者候補という仕組みは候補者の中に不祥事があった場合、病や不慮の事故などの場合、一人しか婚約者がいなければ一大事になりますが、複数人に王妃教育をしておけば誰か一人くらいはまともに育つだろうと言う国を思えば納得の出来る理由は一応用意されています。しかし実際その立場に立たされる者としてはとても複雑な心境です。

「やぁ、エイプリル。今日も綺麗だね」

 白に百合の刺繍の入った礼服を身に纏った殿下は初めてお会いした時から変わらず美しく輝いていらっしゃいます。しかし、あの時とは違い、三人の女性を侍らせて。

 どうしてわざわざあたくしにお声を掛けられたのか。

 今日はあたくしの十六歳の誕生日です。今日はそれを祝う場であるというのに、殿下はわざわざあの三人を連れていらっしゃったのです。つまり、最初からあたくしなど眼中にないと言うことなのでしょう。

 あの三人の女性はそれぞれアリーラ、ヴェローナ、マリーシュカという名でとても豊満な女性らしい体をわざわざ見せつけるようにいつも露出の多い、あたくしからすればはしたないとしか言いようがない装いで殿下にまとわりついているのです。あの三人がいつから居るのか既に思い返すことも出来ませんが、いつの間にか、常に殿下のお側にはあの三人の姿がありました。

「ああ、そうだ。誕生祝い、受け取ってもらえるかな?」

 殿下は思い出したかのように懐から小さな箱を取り出しました。

「えっと……ありがとうございます……」

 突然のことで少し頭が働きません。

「開けてみて」

 わざわざ近づいて耳元で囁くことになんの意味があるのかはわかりませんが、殿下はあえてそうなさったようです。

 恐る恐る箱を開けると中には月と雫を模った可愛らしい髪飾りが入っていました。

「エイプリルに似合うと思ったんだ。今度付けて見せて欲しいな」

 きっと彼は誰にでも同じことを言うのでしょう。

「ありがとうございます」

 お礼だけ口にして、早くこの場を去りたいと願ってしまいます。

 マリーシュカが私たちの間に割って入るように殿下の腕に抱きつき、更に反対側からアリーラがくっつきました。

 この女性達は全くルールやマナーと言ったものを考えられないようで、どこに居てもどんな場でもべたべたと殿下に纏わり付き他の婚約者候補の皆さんからも非常に疎まれています。あたくし自身、彼女たちの存在を快いものとは思えませんが、あたくしの立場ではそれを諫めることもできません。口にしたところで、あたくしが彼の一番になれるわけではないのですから。

「ナサニエル、今日はエイプリル嬢の誕生日だというのに、どうして彼女たちを連れてきたんだ」

 後ろから少し厳しい声が響く。フェリックス・ヘイル。伯爵家の長男で殿下のご友人。殿下に意見できる数少ないお方の一人。その彼は慌てた様子でこちらに近づいてくる。

「エイプリル嬢、本日はおめでとうございます」

「ありがとうございます」

「ナサニエルには私からも何度も注意はしているのですが……どうもあの三人は聞き分けがなく……」

 フェリックス様は本当に申し訳なさそうにそう口になさるけれど彼に責任はありません。ただ、あたくしのこの性格が……肝心なときに殿下を諫めることのできないあたくしが悪いのです。

「いいえ、フェリックス様がお気になさることではありませんわ。本日は楽しんでいって下さい」

 我が家のお料理は美味しいのですよと明るく振る舞って見せても、やはり心のざわつきというものは消えてはくれないようです。

 一瞬、殿下の鋭い視線を感じた気がして、驚いてそちらを見れば少し拗ねたような様子でこちらを見ているようでした。

 叱られたことが不満なのでしょうか。拗ねたいのはむしろこちらの方だというのに、彼はいくつになっても少し子供っぽい部分があります。とてもあたくしより二つも上の男性のなさることとは思えないその仕種に少しばかり呆れ、一礼してその場から逃げ去りました。

 今はただ、胸の奥が苦しいばかりです。

 この十年、少しでも殿下があたくしにお心を傾けて下さらないかと努力を重ねてきたつもりでした。候補者の中ではあたくしが一番成績が良いですし、授業の出席率一つを見ても他の五名とは差が開いていると思います。

 今となってはただ真面目であることくらいしか取り柄がありません。あたくしたち婚約者候補は皆常に比べられています。ただ、その誰もが、殿下のお心が手に入らないことを知っているので家に地位が約束される以外利点がありません。そうなると人の気力というものは尽きてしまうのでしょう。とくにあたくしたちの年齢というものは色恋というものに左右されやすいのですから。

 候補者の中には他に恋人がいらっしゃる方も、端から殿下との婚約など眼中になく、国庫から教育費を出してもらえるから勉強だけしたいと考えていらっしゃる方さえあります。つまり皆、殿下の方から断って下さるのであればいつでも婚約解消に応じますという姿勢なのです。もちろんそれはあたくし自身同じこと。

 この十年少しでも殿下があたくしを見て下さらないかと努力を重ねましたが、もう限界です。やはり男性というのはああいった豊満な女性が好みなのでしょうか。知性も品位も感じさせないあの三人ですが、多くの男性の視線を集めていることは知っています。おそらくは本能的な部分であたくしはあの三人に敗北してしまっているのでしょう。

 考えたるだけ無駄だとわかっていてもついつい頭の片隅であの三人を思い出してしまう。

 もうあたくしの精神は限界でした。

 だからでしょう。バルコニーに出た瞬間、魔が差してしまったのです。




 誰かの悲鳴が響いた。一体なにが起きているのか全く理解できない。

 ただ、とても強く頭を打ったのだと言うことだけは理解できた。

「……ここは?」

 なにが起きたのかわからず、重い瞼を持ち上げれば急激な眩しさに顔をしかめる。

「お嬢様!」

 女性の慌てた声が響く。

 お嬢様? それはあたくしのこと?

 あたくし? 自分の認識に違和感を抱いた。どうも頭の中がごちゃ混ぜになっているような奇妙な感覚だ。

 俺は確か……。

 俺? それは一体なに?

 混乱する頭。誰かに手を握られ思わずそれを振り払った。

「触らないで!」

 触れられたことに驚いたから振り払った。たぶんそれだけの話。

 けれどもその場の全員がその事実に驚いたようだった。

「ああ、ごめん。エイプリル。まだ目覚めたばかりで混乱しているよね」

 驚きを見せた男はすぐに柔らかな笑みを浮かべる。

 こいつは誰だ?

 いや、でも知っているような気がする。

 俺は……あたくしは……彼を知っている。そして、彼のことがとても嫌い(好き)。

 一瞬で頭の中に生じる矛盾。

 いや、その前に男はあたくしをエイプリルと呼んだ?

「エイプリル? それがあたくし?」

 訊ねれば、男はとても混乱している様に見える。

「あ、ああ、君の名はエイプリルだよ。頭を打ったから混乱しているのかな。私のことはわかるかい?」

 訊ねられたけれど、思い出せそうな気配がない。

 いや、一つだけわかることがある。

「……あなたのことがとても嫌いと言うことしかわかりません」

 そう答えた瞬間、彼は硬直した。

 一体どうして? 不思議に思って彼を見れば口元を覆ったまま俯いてふるふると震えていた。

「き、嫌い……嫌い? エイプリルが僕を? 僕を嫌いって……」

 とても動揺しているように見える。そんなに衝撃的なことなのだろうか。

「仕方ないだろう。お前の普段の振る舞いのどこに好かれる要素がある」

 もう一人、別の男の声が響いた。こっちも覚えはない。けれども、彼にはとても好感を抱いていた気がする。

「あなたたち、一体誰?」

 訊ねれば二人とも一瞬黙り込んでしまう。

「本当になにも思い出せないようですね。私はフェリックス・ヘイルと申します。えー、こちらのナサニエル殿下の……不本意ながら友人と言ったところでしょうか」

 不本意ながら。彼はそれを強調するようだった。

 柘榴石のような赤い瞳がとても冷たい印象なのに声は不思議と穏やかな人で話し方一つからも誠実そうな印象だった。

「……私はナサニエル……エイプリル、君の婚約者だ。私を忘れてしまったのかい?」

 とても悲しそうに言われても困る。そもそも婚約者だと名乗るこの男のことをどうも嫌っているという記憶があるのだ。理由はわからないが。

「本当に?」

 思わず疑ってしまう。

「まぁ、数居る婚約者の一人というところです」

「婚約者が何人もいるなんて問題でしょう」

 おかしいわと思わず口にすれば周りに居た人たちが全員硬直してしまう。

 なにかいけないことを口にしてしまったのだろうか。

「エイプリル嬢、おっしゃることはごもっともですが、あまり人前でそう言ったことを口にしてはいけません」

 フェリックスが静かに告げる。どうやらあたくしが口にしてしまったことはとても問題あることだったらしい。

「エイプリル嬢は頭を強く打ったばかりでまだ混乱されているのでしょう。今日はゆっくり休んで、しばらく様子を見て下さい」

 頭を強く打って。そう言われても確かに打ったらしいという記憶しかない。

「あの、あたくし……一体なにがあったのでしょうか?」

 彼が一番信用できそうだったので訊ねた。

「その……どうやら、バルコニーから墜落したようでして……」

 墜落?

 思わず首を傾げる。打ったのは本当らしく動かすとかなり痛んだ。

 けれども、原因は違う気がする。なんかこう、もっとフルーティーな……。

「バナナの皮とかじゃなくて?」

 訊ねるとフェリックスは困惑した顔を見せた。

「バナナの皮? いえ、皮付きの果物は提供されていなかったかと」

 どうもなにかがおかしい。

 彼らは困惑したまま部屋を出て、入れ替わるように医師が様子を見に来た。

 外傷はたんこぶ程度。けれども記憶にかなり影響が出ているらしい。

 不思議なことに日常生活に必要な知識や学問的な面は問題ないらしい。ただ、人間に関する記憶がするっと抜け落ちてしまっているという。

 どうしても忘れたいなにかがあったのであれば無理に思い出さない方が良いと告げた医者に周囲からは同情するような空気が醸し出された。

 そんなに同情されるほど酷いなにかがあったのだろうか。

 少し困惑するまま、安静にと言われたとおりベッドに横たわってそのまま眠りに落ちた。

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黙ってろ、余計な世話だよ! 高里奏 @KanadeTakasato

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