第3部 伊勢の白波

第1章 紫(むらさき)

第1話

 都での生活は、都のことだけ考えていればよかった。極端に言えば、宮中の宮墻の中だけが全世界だと思っていればことが足りた。

 宮仕えというものも、やれば精が出るものだ。もはや、昔のような無気力の業平ではない。

 それでもまだ、この世界で名をあげて栄誉を求めようという考えには染まりそうもなかった。彼の目は反対の方を見ている。空を見ている。空の青さは誰が作ったものでもない。それが宮中という人造の世界を覆っている。その空は、今は彼にとって果てしなく遠い地となった東国へも続いている。そこの大地には、空と同じ自然というものがあった。今でも彼の目は、その大地へと注がれていた。

 自分は変わったと彼は思う。少なくとも東国へ行く前の自分ではない。だがかつて嫌悪していた方向へ変わったのではないことだけは確かだ。

 東国での思い出に浸る時、業平はふとため息をついてしまう。都が小さく思われる。坂東の果てしなく広い草原、土の香り、富士の山の煙、魂を吸い込まれそうになるような大海原――それらのすべてが今は思い出となっている。あの真女だけは、たった一つの汚点だが……。

 そういったことを思い出すにつけ、都の周りの山が自分たちを閉じ込める檻のようにも感じられ、こんな狭い世界で生きていくことにため息が出る業平だった。

 かつての権勢欲者はため息を感じることもなしに、この狭い世界で頂点に立とうとしたようだ。そうして、しばしば失敗した。そういった人たちは、怨みを残して死んでいった。

 この年の夏、神泉苑で初めての御霊会ごりょうえが執り行われた。恨みを残して死んでいった者たちが現世に祟りをなすことがないよう、その御霊みたまを鎮めるための行事だ。この御霊会の勅使は太政大臣良房の養子のあの左近衛中将基経と、業平の小舅の常行だった。

 業平は左兵衛佐として、当然この催しに参列することになった。

 大内裏の南東の外にあって巨大な池を持つ神泉苑では、六つの御霊を祀る祭壇の前に花や果物が並べられていた。まずは律師による金光明経と般若心経の講説から始まり、やがてがくの演奏へと移っていく。

 その間、業平は御霊屋みたまやの中の御霊たちを思った。桓武帝の皇太子で廃太子となって遠流おんる先で憤死した早良親王、反乱の罪で幽閉されて自害した桓武帝夫人の藤原吉子とその腹の伊予親王、そして平城太上天皇の反乱の片棒を担いだ藤原仲成などである。

 彼らはどのような気持ちで、反乱に臨んだのだろうか。そして今でも本当に怨霊となって祟っているのだろうか。

 特に仲成の場合、その事件の発端は業平の祖父の平城上皇にある。だから業平にとっては他人事ではない。彼の父とてその乱に連座し、大宰府に流されていたこともあるのだ。

 しかし、業平は黙って首を横に振った。他人事でなくてもやはり彼には理解できない。権力の座につくために反乱を起こすような人びとの心理は、彼にとって想像もつかないものだったのである。

 楽とともに稚児の舞もあった。やがて唐人の雑技も始まる。軽快な調子の音楽に乗っての曲芸だ。

 そしてこの日、帝の思し召しで神泉苑の門は解放され、一般の庶民までもが苑内に入って宴を見ることを許された。その時分になると儀式の大部分は済んでいて、公暁たちにとっても娯楽の場となっていた。座も乱れ、酒も出ている。

 業平も役向きは終わった。あとは左兵衛府の仲間と酒を飲んでいればいい。そこへ後ろから、業平の肩を叩くものがあった。右中将の常行だ。業平は首をひねって常行を見た。

「おや、監事がこのような席まで来られてよろしいのかな」

「もう、終わりましたよ。それより一杯」

 常行はそう言って、杯を勧める。そして酒を注ぎながら、

「本当にこれで疫病が沈静してくれればいいのだが」

 と、ため息とともに、常行は言った。そのための御霊会なのである。

「はあ、そうなればよろしいですな」

 業平の返事に力はなかった。彼にとっては、はっきり言ってそのようなことはどうでもよかった。

 それに、昨年暮れからこの歳の二月ごろまで都で疫病が大流行した時、ちょうど業平は東国に行っていて直接はその惨状を知らないのだ。

 疫病とは咳逆といわれる病で、その文字通り感染したら咳をしながら多くの者が死んでいく。しかも、空気感染するからばつが悪い。

 つまりは流行性感冒インフルエンザである。

 都に戻ってから初めて知ったのだが、業平の叔母の一人もこの感染症で命を落としていた。

 感染症は貴賎の別なく襲ってくる。

 話には聞いていたがなにしろすべてが伝聞なので、業平にはピンとこない。

「時に……」

 常行の口調が変わった。

「最近、妹のところへは……」

「まあ、ぼちぼち」

 業平は、そう言ってごまかすしかなかった。

 東国より戻った直後は、毎日のように通ったものだった。だが宮仕えが波に乗ると、今度は心身ともに疲れてしまう毎日となった。宮中退出後はまっすぐ自邸に戻り、夕刻から寝てしまうこともある。とにかく左兵衛府は、朝の出勤が早いのである。とても右大臣家にいる妻のところへ通うような気力は残っていない。

「実は妹がこのごろ、気分がすぐれぬとかで伏せりがちなのですが」

 それを聞いて気持ちばかりは向く。だが、今の生活で果たして西三条邸へ足を向ける心のゆとりが出るかどうかは不安だった。だから、

「いずれ、そのうち」

 と、だけ業平は常行に言っておいた。


 この年は梅雨が終わっても、本格的な夏日は来なかった。六月は水無月というくらいなのにまだ梅雨が長引いていて、水が無い月にはならない。例年なら炎天下の頃のはずだが、冷たい夏が続いていた。聞けば、越中と越後を中心とした巨大地震もあったという。都は全く揺れなかったが、まだまだ御霊会は足りないようだ。

 六月の閏が入って夏も延び、その頃になってようやく長雨も終わって夏らしくなってきた。もし閏が入らなければ、暦の上で秋になってから夏になってしまったことだろう。暦とはうまくできているものだ。

 ようやくその頃になって業平は、右大臣家の妻の直子の元を訪れた。心は離れていない。しかし無沙汰は事実だ。車の中で彼は、その言い訳も考えていた。

 だが、直子は相変わらず愚痴のひとつも言うでもなく、それ以上に逆に機嫌がよかった。

「お帰りなさいませ」

 女房たちを下がらせた部屋はすでに格子が下ろされており、対座した二人を灯火だけが照らしていた。

 業平は早速、考えていた言い訳を朗々と語り始めた。だが、妙だ。直子は含み笑いを浮かべている。そのうちとうとう、クスッと笑った。

「何を笑う」

 業平も言い訳の言葉を止め、怪訝な顔をした。直子は顔を伏せ、それでも目だけは笑んで業平を見上げていた。

「実は」

 小声だった。

「ややができました」

「え?」

 あまりの小声に業平が聞き返すと、直子はますますはにかんだ。

「おなかにややが」

 一瞬にして業平の顔が光った。

「そうか……。そうとうは知らず、今まで済まなかった」

「いいえ、気に懸けてくださっていただけで、もう」

「気分がすぐれぬと聞いていたが、そのためだったのか」

「はい」

 ややは腹の中でもう相当育って、月を重ねているはずだ。

「めでたい。丈夫な子を産んでくれ」

 そう言って業平は、妻を抱きしめた。その言葉に嘘はなかった。生まれてくる子は右大臣の外孫……そんなことが頭をかすめたが、それはどうでもいいことだ。業平にとっては二人目の子だが、直子との間でははじめての子である。この子はこの右大臣家で育てられることになる。男であれ姫であれ将来は安泰のはずだ。

 それからというもの、業平は西三条邸へ足繁く通うようになった。妻が身重になると足が遠のくのが常の男である。そして、他の女の元に通う。

 しかし、業平は違った。やはりこの女がいとしい。もちろん紀家にもそれなりに顔を出してはいる。だがこちらは妻よりも家に顔をつなぐためと、息子の顔を見るためだ。これも世の男なら逆が常だろう。少納言家よりも右大臣家の方が、妻そのものより家に顔をつなぎたいと思うものだ。

 だが業平は、常とか平凡とかいう言葉が何よりも嫌いだった。無論、意識して抗っているわけではないが、普通でありたくないというのが彼の願望であり、そういった性分から意識せずとも自然に世間の常識に背を向けてしまうのだ。


 ようやく遅い夏も終わって、秋も深くなってきた。だが、紅葉はまだである。そのような折、また業平に大役が回ってきた。今度は伊勢大神宮への奉幣使だった。

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