第2話

 翌朝はそのまま右大臣の西三条邸から出仕した。そして夕刻には、業平は紀邸に行った。有常は手放しで喜んでくれた。

「おお、おお。よくご無事で。そして当家のこともお忘れなく」

「忘れるものですか。私にとっても幼い頃の思いで多いお屋敷ですし」

 だが、思い出の一つの古井戸は、屋敷の拡張とともに壊されて今はない。

「いろいろ、ご心配をおかけしました」

「なんのなんの。それより早う、茶々丸に会ってあげてくだされ」

 息子に会う――それはその前に妻にも会うことになる。だが、業平が対の屋に行っても、こちらの妻は笑顔一つ見せなかった。

「あら、私、離縁されたのではなかったのですね」

 そんな皮肉を一つ二つ言って、妻は奥へ入ってしまった。

「父上、お懐かしうございます」

 息子は、業平に丁寧に頭を下げた。もうとっくに加冠を済ませていてもよい頃だ。そんな成長した息子としばらく話した後、業平は寝殿に戻った。こちらの方が居心地がいい。

「茶々丸の加冠は、我が邸でぜひ」

「それはそれは。私も気にかけておりましたので」

 自分と年の近い舅と対座していると、妙に心が落ち着く。妻はこちらの妻より西三条の妻の方がいとしいが、西三条の舅は恐れ多くて肩がこる。

 舅は紀家、妻は西三条がいい。両者がそれぞれ折半すれば一番いいのだが、世の中はそうはうまくはいかない。

「それに、末の姫の裳着も」

「それもまだでございましたな」

 妻の妹は、もうとうが立っているといってもいい。それなのに世間知らずで、おまけにまだ童形なのだ。

「男君はお決まりですか」

「一応我が甥の敏行にと心を決め、その母とも相談しておりますが」

「本人は?」

「本人もそのつもりで、歌の使いも来ますが……」

 有常は、さっきからどうも奥歯に物が詰まったようない言い方をする。敏行とは陸奥、出羽の按察使あぜちだった藤原富士麻呂の子だ。父はすでに世になく、家系も南家なので敏行はいまだ内舎人うどねりだという。

 有常も少納言だから、家格のつりあいはまあ取れている。さらに、敏行の母は有常の妹である。つまり、業平の妻やその妹とは外従兄妹そといとことなる人物だ。

 また、有常は少納言だがすぐ下の妹の種子ううこは仁明帝の、その下の妹の静子しずけいこは文徳帝のそれぞれ御息所みやすんどころと称される更衣だった。

「願ってもない縁談なのですが娘の方がなにしろ世間知らずで、返しの歌一つ作れずに……」

 そんなことかと、業平は笑った。

「歌ならお任せくださいよ」

 家司に持ってこさせた敏行の歌は、


  徒然つれづれの ながめに優る 涙川

    袖のみちて 逢ふよしもなし


 と、いうものだった。業平は筆をとった。


  浅みこそ 袖はつらめ 涙川

    身さへ流ると 聞かば頼まむ


 業平はさらりと代作した。これでこの縁談もまとまるという自信が、彼にはあった。


 その月のうちに、この有常と業平は、舅と婿そろって次侍従に任ぜられた。

 そして夏を迎え、五月雨の季節に業平の息子と紀家の妻の妹は、ともにそれぞれ加冠と裳着を終えた。業平の息子茶々丸は棟梁むねはるという実名を持ち、妻の妹と敏行の婚儀も滞りなく行われた。

 全くなくなったというわけではないが、宮中に以前のような嫌悪感を覚えることが少なくなった業平は順調に仕事をこなし、やがて暑い夏を迎えた。

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