第2話

 業平の伊勢奉幣使の話は、有常の紀家にも伝わっていた。

 普通のやしろへの奉幣使は五位の侍従が当たる。それだけならともに次侍従である有常も有資格者だ。しかし、今回は伊勢の皇大神宮への奉幣使であって、普通の社ではない。従って、奉幣使は少なくとも「王」でなければならない。その点、業平は賜姓ではあっても皇孫であり親王の子である。

 帝の御子の一世の源氏が親王と同じ扱いであるように、親王の子の一世賜姓は王と同等の待遇だった。だから、業平が選ばれたのである。

 紀家の妻の態度は相変わらずで、こんな妻に用はない。息子の棟梁むねはるもまだ正式な官職はないにしろ、近衛舎人として近衛府に詰めていた。


 業平が紀家にやってきたのは、激しい雨の中だった。舅の有常に呼ばれてである。昼というのに空はどす黒く、互いの声も聞き取れないくらい激しく雨が屋根をうがっていた。雨の音そのものよりも、屋根の軒から落ちる水の滝のような音の方がすさまじかった。

「伊勢に行かれるということで、静子しずけいこが話がしたいと申しておりましてな」

 それが呼ばれた理由だった。

「その前に」

 舅は今日も愛想がいい。

「二の姫の相談にのってやってくれませんかのう」

 二の姫とは業平の妻の妹で、西ノ対にいる。東ノ対は業平の妻と子、北の対にいるのが有常の妹の静子だった。

 言われた通りまず業平は、二の姫のいる西ノ対に渡った。渡廊を歩く間も、庭の泥水の跳ね返りがかかりそうになる。

 彼の亡き母の元屋敷を買収して宅地を広げた有常邸は、ようやく東西と北の対屋を持つに至った。もっとも釣殿や泉殿はなく、ましてや池もまだなかった。

 妻の妹、すなわち自分の義妹のいる西ノ対の、下ろされた御簾の前のひさしの間に座り、

「何かご用ですか。北の方様」

 と、十分におどけて業平は言った。今の夫の敏行との仲は、業平の歌の代作が取り持ったようなものだ。相談という内容の予想はついている。

「実は我が夫が、このようなふみを」

 やはり、と業平は思った。侍女の手で、御簾の中から文が差し出された。予想していたのと違うのは、それは歌ではなく散文の文だった。


 ――あめのふりぬべきになん、みわづらひはべる。み、さいはひあらばこのあめはふらじ……(雨が降りそうなので、気分がよくないのですよ。運がよければ雨も降らないでしょう)


「今日は来ると言っていたのですよ。それなのに、雨にかこつけてこんな文だけ」

 業平は微笑ましく感じた。どこにでもある夫婦の風景だ。

「もう、一発ぎゃふんと言わせてやらなきゃ気が済みません。そこでそこで」

 本当にあの無愛想な自分の妻と父も母も同じ妹なのかと思えるほど、この妹は天真爛漫だ。

「また義兄上あにうえ様の歌でやり込めてやりたいのですよ。手紙ではやはりねえ。お願い、義兄上様。義兄上様が東国に行かれていた時は、お頼みもできなくて困っていたのですから、せめて、ね」

 業平は笑った。

「前はまだ、いとけなくていらっしゃったからですよ。でももうそろそろご自分で」

「そんなことおっしゃらずに、何とか」

 御簾の向こうの声は、懇願に他ならなかった。笑んだまま、仕方なく業平は歌を吟じた。ぎゃふんと言わせ、雨の中ででもすぐに飛んで来させることができるような歌……歌を詠むのも久しぶりだ。

 それでも頭の中には、激流のように三十一の文字が流れ始めた。

 

  数数に 思ひ思はず 問ひがたみ

    身を知る雨は 降りぞ優れる


 御簾の中では女房がそれを、しきりに書きとめている。

「義兄上様、ありがとうございます」

 嬉しそうな声が、御簾の中からまた返ってきた。とめどない激流は、業平の頭の中でまだ渦巻いている。


  紫の 色濃き時は 目もはるに

    野なる草木ぞ わかれざりける


「これはあなたに。妻も妹も、私には大切な紫草ですよ」

 そう言って、業平は席を立った。

 それから業平は、本来の来意である北ノ対に渡らねばならない。そこまでの渡廊を歩く間、彼の心は暖かかった。歌がとうとうと湧き出る自分――やはりこれが本来の自分なのだと思う。

 失いかけていたものを、取り返した気分だ。

 それに相乗効果を与えていたのは、自分が詠んだ歌の中の「紫」の一語であった。紫――武蔵野での日々が、頭の中に蘇える。やはり武蔵野で本物の紫草の植生を目にするといった体験を持つ人は、この都ではそうそういるまい。

 さらには自邸の侍女は別として、二人の妻以外に御簾越しとはいえ会話を交わした若い女性は、彼にとっては久しぶりだった。

 妻の妹――もちろん顔も見たことはない。しかし、それは成人してからの話で、ずっと昔、ここの妻と幼馴染みとして井戸端で遊んでいた頃は、物陰からものほしそうにのぞいている幼女がいたことは覚えている。

 しかしやはり幼かった今の自分の妻は、妹が二人の遊びに加わることを決して許しはしなかった。

 北の対に着いた。ここでは、そんな暖かい気分ではいられない。身が引き締まる思いだった。

 大雨のためすべての格子は下ろされていたが、一ヶ所だけ格子が上げられた御簾の前の簀子に業平は座らなければならなかった。

 西ノ対の義妹とは御簾越しとはいえ身舎の中に入り、廂の間に座って対面できたが、今度はわけが違う。

 舅の妹であり、業平の妻の叔母である静子は、なにしろ今上帝の父君であらせられた文徳帝の更衣だったお方である。今では三条町の更衣と称され、この有常邸の北の対で過ごしている。

 風が簀子に座る業平に当たり、雨の雫が容赦なく頬を打つ。

「伊勢に参られるそうですね」

 帝の妃の中では下位の更衣だが、それでも気品ある声だった。業平は御簾の前で、

「は」

 と、言って畏まった。そのあとの言葉は静子から直接にではなく、女房を介して伝えられた。

「斎王は我が腹の皇女ひめみこ、そなたをよしなにもてなすよう、手筈を整えておきました」

「これはこれは」

 またもや恐縮して、業平は頭を下げる。

「娘は神に仕える身。いわば神にすべてを捧げたも同然です。しかし母としては、やはり気がかりでしてね。ですから、どうか様子を知らせてたもう。つつがなきや否やとか。そして、よろしうに伝えてくだされ」

 御簾の奥の奥に、更衣静子はいる。しかし屋敷自体がそれほど大きくはないから、雨の音さえなければ静子の声くらい聞こえたはずだ。

 用はそれだけだった。業平が寝殿に戻ると、西ノ対へは二の姫の夫の敏行がずぶ濡れになってもすでに駆けつけてきたという。

 業平はそれを聞いて北叟笑ほくそえんだ。歌の効力が試され、みごと有益だったことが立証されたのだ。

 今度は自分が雨の中、大切な存在のもとへと駆けつける番だ。紀家の東ノ対の妻には顔も見せず、西三条邸の右大臣家の妻のもとへと業平は急いだ。今夜はそこに泊まるつもりである。

 明日からは奉幣使としての潔斎期間に入り、伊勢から帰るまでは会えない。

 業平が伊勢へ行く話に、珍しく妻は落ち込んだ。業平は笑った。

「東国へ行ったときとはわけが違う。たった二、三日の滞在だよ。十日もすれば帰ってくるのに」

 そう言って慰めつつ妻の体を見ると、そこには我が子が宿っているという印があらわになってきていた。

「それでは、いっしょに行くかい?」

 もちろん冗談だ。それを業平は笑いながら言ったが、直子は涙こそ流さなかったが、真剣な表情で業平を見上げた。

 業平ははっとした。言うべきでない冗談だったのかもしれない。とにかくどう取り繕っていいか分からなかったので、業平は、

「すぐに戻るさ」

 と、それだけ言っておいた。

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